第42話

文字数 2,049文字


 わたしは、改めて、柱時計に眼差しを向ける。
 時計の針はちょうど、七時半を指していた。 
 舌を打ちたいような気分を押さえて、わたしはおばさんの方を向いた。
「それにしても、遅いわねえ、あの娘ったら……ごめんね、真美ちゃん……こんなに待たせちゃって」
 目が合ったおばさんは、そう申し訳なさそに言うと、わたしの目の前に置いてある湯吞茶わんを見て、あら、空ね、とひとりごとのようにつぶやいて、新たに、お茶を注いでくれた。
 お茶を注ぎ終わったあとも、おばさんは急須を持ったまま、またしても、遠くを見るような目をして口をつぐんでしまった。
 一瞬、居心地の悪い沈黙が訪れる。
 聞き慣れているはずの柱時計の振り子の音――それが、やけにきょうは、不気味に、耳にふれてしかたなかった。
 ひっそり静まるなか、それを聞いていると、心拍数がやたら高じると同時に鼓動までもが激しく高鳴っているのが、自分でも、よくわかった。
 ひょっとして、おばさんの耳にまでふれるのでは――そうした強迫観念に駆られ、わたしは、一段と怯えてしまう。
 そのいたたまれなさが、この部屋にいる居心地の悪さを、いやまして、感じさせていた。
 
 するとそのとき――。
 とんとんというリズムのいい音が、突然、部屋に響いた。
 刻み足で、だれかが階段を駆け上がる、その足音にちがいない。
 リビングルームの引き戸の前で、いったん、その足音が止まる。間髪を入れず、引き戸が勢いよく、ガラガラ、と音を立てて開く。
 ツンと鼻腔をくすぐる、懐かしい香り――。フィレンツェが大好きな彼女が愛用している、あのフェラガモの香水。
 それが、外気に溶けて、ふんわり、部屋の中に流れ込んでくる。
 それと同時に、懐かしい顔も、「ただいまあ」という声ととともに、ひょっこり、覗く。
「あら、おかえり……にしても、ずいぶんと遅かったわね」
 ほんの少し咎めるような口調で、おばさんが言った。
 どのような顔をしたらいいのか、どういうことばをかけたらいいのか――それが、とっさにはわからず、ただ、わたしはうろたえるばかりでいた。
 それでも、わずかな間のあとで、ぎこちない笑みを浮かべて、わたしは「公恵、しばらくぶりね」と言って、胸の前で小さく手を振った。
 相変わらず居心地の悪い沈黙が、部屋のなかを、支配していた。
 でも公恵は、そんな空気など歯牙にもかけず、「ああ、疲れた……こういう日に限って、忙しいんだよねえ、まったく」と言って顔をしかめた。
 つぶやいた彼女は、肩にかけていた重そうなバックを隣の部屋のソファーの上に投げ出すと、わたしの隣の椅子に腰を下ろした。
 それから彼女は、悪びれる様子も見せずに、「真美、こんやは、無理を言ってごめんね」と顔の前で手を合わせて、ちょこんと首を垂れた。
「え、あ……うん」
 相変わらず、わたしはどう答えたらいいかわからずに、口ごもったまま、逃げるようにしておばさんに目をそらした。

 それにしても――改めて、おばさんの顔を見て、つくづく、わたしは思う。
 人好きのする柔和な顔立ちをした人って、ほんと、得してるよなあ、と。
 人は見た目が九割、と俗に言う。
 ただ、そうはいっても、性格がともなわなければ、この限りではない、とは思う。
 ともあれ、おばさんのような顔立ちをした人を前にすると、えてして、こっちまで心が穏やかでいられる。
 こういう人とは、たとえ意見が対立して、心中穏やかでいられなくなっても、激しい口論になることはまずないのだろう。
 それより、どうかすると、ま、そんなの、どうでもいっか、と怒っている自分がバカらしくなることのほうが、多いのかもしれない。
 周が、そうだった。
 そう言えば、あの修一くんも、そうだったなあ、と、いまさらのように、わたしはしみじみと思う……。
 
 もっともこんやのおばさんは、ちょっと、ちがった。
 めずらしく、穏やかな微笑をたたえる目を尖らせて、いつもの優しい口調とはちがう、非難じみた口調で言った。
「あのさあ、あんなに、お願いしてたじゃない……実家に帰ってくるときは、お客さんがはけた時分にしてね、って」
 おばさんの声を耳にしたわたしは、息苦しさを覚えて、目を伏せてしまう。
 おばさんは自分を抑えようとして、低い声で話している。
「それなのにさ……こんやは、お店の一番忙しい時間帯に、それも、真美ちゃんと待ち合わせするなんてさ……」
 そう言って、おばさんは、やれやれ、という感じで、大げさに、ため息をついた。
 一方の公恵は、押し黙ったままだ。息さえも詰めている。上目づかいで、わたしは、公恵をチラ見する。
 不機嫌そうな顔で、おばさんを睨んでいた。
 それを目にしたわたしは、ますます、息苦しくなる。
 しばらくの間があってから――。
「それでもさ……お母さんはさ」
 とおばさんが口を開いた。
 ハッとして、わたしはおばさんの顔を見る。
「あんたの気持ちが十分わかったわ」
 そう言ったおばさんの顔には、いつもの穏やかな微笑が浮かんでいた。


つづく
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