第24話

文字数 2,895文字


 わたしは最近、よく夢を見る。
 
 夢の中で、わたしは、故郷の実家にいる。そこで周とはちがうヒトのために、遅めの晩ご飯の仕度をしている。
 そのヒトは、わが家に婿養子に入ってくれて、実家の家業を継いでくれている。一人で家業を切り盛りしているので、そのヒトはいつも、帰宅が遅い。それと、二人の間には、可愛い一人娘がいる。
 平日――。暖かい部屋で、わたしは娘の長い黒髪を梳かしている。鏡に映る娘の顔をぼんやりと眺めながら――。
 すると、どうしたことか。だしぬけに、娘の顔が、わたしの顔に変わる。ハッとして、わたしはそこでいつも目が覚める。
 わたしは最近、そんな目覚めの悪い夢を見るようになった――。
 
 母の意志の赴くままに、わたしは、この街に来て、幸いにも、周に巡り会えた。
 一方で、もしも、あの町にいまでも住んでいたとしたら。のみならず、もしも、この街に来ていなかったとしたら。そして何より、もしも、周に巡り会えていなかったとしたら……。
 この「もしも」の問いは、そこからいつも先に進むことはない。いや、むしろ、わざと先に進まさないようにしている、と言った方が正しい。
 たぶんわたしは、その先にある答えを知るのが怖いのだろう。なので、あえてそれから逃げようとしているのかもしれない。
 
 なぜ、地球は自らがぐるぐると回りながら、太陽の周りを回っているのか――その問いの答えを知らなくても、人は十分、生きていける。
 けれど、男と女の問題は、そうもいかない。
 二人のつきあいはこれから先、どうなってしまうのか。いずれ愛は冷めてしまうのか。冷めてしまったとしても、二人はひとつ屋根の下で肩を寄せあって生きていけるのか――。
 その答えが知りたくて、男と女は、それをどうしても探し求めてしまう。
 もっとも、その答えは、人それぞれによってちがうし、算数の割り算のように、きっかりとは割り切れるものでもない。
 それでも、その答えがどうしても知りたくて、男と女は身を焦がす……。
 でもわたしは、ちがうのだ。
 知らなくて済むのなら、わたしは、いつまでも知らないままでいたいと願っている。そうすれば、少しずつ静かに、心をけずられなくてすむからだ……。
 
「あすの夜、会いたいんだ」
 ゆうべ、公恵が電話を切ったすぐあとに、案の定、周から電話があった。
「ごめんね。どうしても、あすの夜会いたいって……いま、公恵から電話があったの」
 消え入るような声で、わたしは周にそう伝えていた。
「……そうなんだ。それにしても公恵かぁ、ずいぶんと懐かしい人だ。オレ、とんとご無沙汰だもんなあ……あ、そういえば、真美もこのごろ、彼女と会っていないって言ってたね」
「……え、あ、うん」
「ま、公恵からの誘いなら、しょうがない、あきらめるとするか。なんたって真美にとって公恵はとりわけ、大事な人だもんね」
 な、何言ってるの。わたしにとって一番大事な人は、あなたじゃない……。
 喉まで出かかったそのことばを、わたしはからくも飲み込んだ。
「じゃあ、あさっての夜は、どう?」
 たぶん周のことだから、あえて優しい口調で言ってるのだろう。でも、優しくしないで。されればされるほど、心がけずられていくから……。
 そんなふうに、イジケているというのに、しばらく考えてから、わたしは「わ、わかった……あさっての、夜ね……」と手もなく答えていた。
 とうとう、あさっての夜、二人の、その先の答えが明かされる……。これからも、周と一緒にいられるのかいられないのか、その答えが。
 たとえ、一緒にいることが二人の人生にとって「不正解」だったとしても、これから先もずっと周と一緒に暮らしたい。
 わたしは心底、そう願っている。
 
 目の前の舗道がチラチラと光って、わたしの瞳に映る。冷たい雨が、その上を、濡らしているらしい。
 わたしにとって、雨音は不吉の予兆の旋律――。
 なんだか気が重くなる。
 遅れたら、公恵から嫌味のひとつでも言われるとわかっているのに、エントランスから足を踏み出せないまま、わたしは目の前の風景をぼんやりと眺めていた。
 道ゆく人たちが手にする色とりどりの傘の花が、かすかに滲んで見える。
 やれやれ――絞り出すような声でつぶやいて、ため息ひとつ。
 涙の雫が、目尻に溜まっているのに気づいたからだ。
 わたしは最近、どうも、涙もろくていけない。
 だれのせいかしら――皮肉口調でつぶやいて、わたしはそれを、そっと、人差し指で拭う。
 目の前の道ゆく人たち。どの表情にも、週末を過ごす喜びが表白されている、ように見える。
 はたして、ほんとうにそうなのかしら――意地の悪い目つきで、わたしは彼らの笑顔を眺める。
 もしかしたら、あの笑顔の裏側には、わたしと同じ悲しみが隠れているかもしれない、と思って。
 それなのに、みんな、それを作り笑いで上手く誤魔化して、何食わぬ顔でこの喧騒の中に紛れ込んでいるのかも、とも思って。
 そんな、ささくれ立った眼差しで、わたしは、道ゆく人たちを眺めていた。
 
 すると突然、ある残像が脳裏に蘇った。
 それは、ゆうべのテレビの残像だった。
 都会の夜の闇の中――。まだ蕾のままの桜並木の、その()の下陰。
 そこで、まばゆいばかりのスポットライトを浴びている、独りの女性。
 そう、さながらジュモーのような顔をしていた、あの天気予報士。その作りものめいた笑顔に張りついていた、やけに大きな瞳。そういった景色が、鮮明に――。
 ゆうべ、わたしはふと、気づいたのだ。彼女の瞳のなかで揺れている、かすかな憂いを。
 たぶんあれは、わたしと同じもの。朝、鏡のなかで揺れている、いまのわたしの憂いと――。
 もしかすると、彼女もいま、わたしと同じ事情を胸に抱えて苦しんでいるのだろうか。
 だれかに気づかれるのを怯えながらも、なんとかそれをやり過ごそうとして、作り笑いを浮かべているのだろうか。 
 不謹慎ながら、そう思った瞬間、わたしの心は踊っていた。それは、ジグソーパズルの最後のピースがぴたりと嵌まったときの心のありようと、どこか似ていた。
 
 なに、考えてんだか――ぎゅっと、唇を噛みしめる。そんなことを考えている自分が、自分でもとてもなさけなかった。
 と、思う間もなく、わたしの頬を涙が伝わった。やがてそれは、冷たい雨に紛れて、舗道の上に、ポトリとこぼれ落ちた。
 同じ境遇のだれかを見つけて、わたしは、自分の気持ちを慰めようとしていた。
 なんて、ひどい女だろう――涙と、ため息がまたひとつ重なる。ため息は重なるたびに、深くなる。
 みじめな気分だった。そんな自分が、哀れだった。そして何より、くやしかった。
 力なく首を振って、わたしはバックから折りたたみ傘を取り出す。
 そのとたん、身体が、ぶるっと震えた。
 寒さになのか、それとも、自分のおぞましさになのか、首をかしげたけれど、それはわからなかった……。
 時計にチラリと目をやる。
 やばいわ、急がなきゃ。
 慌てて、傘を開き、トレンチコートの襟を立てた。
 それから、都会の雑踏の中へと、わたしは紛れていった。
 
 
つづく
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