第34話

文字数 1,685文字


「ずっとってわけじゃないのよ……とりあえず四年、四年でいいのよ、ね、おかあさん」
 ふだん、何かと反りが合わないにもかかわらず、母は、祖母に殊勝に首を垂れて、わたしが東京に行けるようにただひたすら懇願していた。
「なにバカなこといってんのよ」
 祖母は一方で、母のことばを一蹴して、それに強く抗っていた。
「可愛い孫娘の真美を、一人で東京に行かせるなんて、とんでもないことだよ、まったく」
 可愛い孫娘の真美を――。
 それは、とりもなおさず、たった一人の跡取りの孫娘の真実を、という同義語でもあった。
 といって、母もおいそれとは引かない。むしろ、執念く、くいさがる。
「修一くん……そう、東京には修一くんがいるわ。きっと彼が、東京での真美の暮しを応援してくれるはずだわ。だから、ね、おかあさん、わたしたちは大船に乗ったつもりで、真実を東京に送り出せばいいのよ」
 それを聞いた祖母は「……修一くん……ねぇ」と、すげなくつぶやいて、鼻白んでいた。
 あのとき、祖母が修一くんにどんな感情を抱いていたのか。あの日のわたしが、それを知る由もない。ことに、いまとなっては、尚更だ……。
 ただ、これだけはわかる。修一くんのことを、祖母は、うろんげな眼差しで見ていた、ということだけは。 
 それはそうだ。だって、彼女にしてみれば、母と組んでわたしを東京へと連れ去る男。
 そんなふうに、修一くんを看做していたはずだから。
 
 あのね、おばあちゃん――。
 時に、わたしは天を仰いで、おばあちゃんにこうつぶやく、そんな夜がある。
 いまなら、笑い話で済ませるんだけどね。
 おばあちゃんのその懸念、実は杞憂に終わらなかったんだよ。
 なんのことはない、この街で、唯一のよすがだったはずの、その修一くんたらね。実を言うと、彼ね――。
 
 美大に進学するのを、わたしは結局、あきらめてしまう。
 東京行きが四年では済まないというのを、祖母に見透かされるのではないか、というふうに、懸念したからだ。
 代わりに、潰しが効きそうな私大の経済学部に進学した。
 旅立ちの朝――故郷の東京行きの駅のホーム。
 そこで、屈託のない笑みを浮かべていた母と、どこか複雑な表情を浮かべていた父と、それから、憮然とした表情でしゅんと肩をすぼめていた祖母に見送られて、わたしは故郷を後にしていた。
 いよいよ、この都会の地で、わたしの新しい暮らしがスタートするんだ。
 修一くんの住まいの近所でアパートを探したわたしは、そうした高揚感と同時に少しの不安と後ろめたさとを胸に抱えて、いつまでたっても、みょうに明るい都会の夜空を仰いでいた。
  三月の末が誕生日のわたしは、この街にくるやいなや、十八歳の誕生日を迎えていた。と同時に、その日が、おばあちゃんの懸念が杞憂に終わらなかった、そんな悲惨な夜になってもいた。
 
 すでに修一くんは大学を卒業して、東京の丸の内に本社を置く大手企業に就職していた。
 わたしはその日、修一くんに、「ねえ、修一くん、うんといい給料貰ってるって、うちの母から聞いたよ。どう、大学の合格祝いと誕生日祝いを兼ねて、わたしに今夜、何か美味しいものをご馳走するっていうのは」と上目づかいで、いたずらっぽく訊いていた。
「え……あ……、うん」
 思えば、そのときことばに詰まった修一くんを見て、わたしは察するべきだったのだ。何かわけありだな、ということを。
 でも、お嬢さん育ちのわたしは、そうした機微にとんと疎かった。
  あの夜、浮かれ気分で連れて行ってもらった近所の小料理屋さんで、わたしは「東京での暮らし、よろしくお願いしま~す」と深々と首を垂れて、そこで返ってきた言葉に「ええ!!」と思わずうめいて、頭のなかを真っ白にさせていた。

  修一くんはあの日、ビールが注がれた彼のグラスと、オレンジジュースが注がれたわたしのグラスを合わせた後に、こう告げたのだ。
「ごめん……俺、真美ちゃんに謝んなくちゃいけないことがあるんだ。というのもね、実は俺……」
 そこでことばを切った修一くんは、バツが悪そうな顔と口調で、こうつづけたのだった。


つづく
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