第39話
文字数 2,131文字
「え、えーと、よ、四番テーブルさん、ウーロンハイ……三つ、追加でお願いしまーす!」
「はいよー!」
「お姉さん、こっちもオーダー、お願いねえ」
「あ、は、はーい」
扉を開けると、いきなり、華やいだ声が耳に飛び込んできた。ただ、女の子の声は聞き覚えのない、どこかたどたどしいものだった。
一方で、彼女のオーダーに威勢よく応えているのは、聞き覚えのある、なんともいえず懐かしい声だった。そう、これは公恵の父親の声だ――。
ほろ酔い気分のオジサンたちが交わす雑談の声。それに交じって、あでやかな笑い声。
そうした様々な声が雑然と響き渡り、店内は、いつも通りの活況を呈していた。
なにより、ぎこちなく接客するバイトさんの、その声と姿がいじらしい。たぶん彼女は、新人さんなのだろう。
そういえば――遠い昔の記憶がふと、脳裏に蘇る。
大学時代、公恵に「ねえ、真美、お願い。ちょっとお店手伝ってくんないかなあ」と懇願されて、幾度かこの店を手伝った思い出が……。
もっとも、それに思いを馳せると、わたしには忸怩たるものがあった。
なぜかというと、わたしは、この新人のバイトさん以上に、よりおどおどした接客をしていたからだ。
店内に一歩足を踏み入れる。すると、懐かしい匂いが、つんとわたしの鼻孔をくすぐる。
それは、昨年のお正月から、すでに一年以上も遠ざかってしまった、この店特有の匂いだった。
鉄板から立ち昇る香ばしい匂い。もちろん、その匂いにも、この店特有のそれはある。
けれど、それより何より、長年にわたってここを訪れたお客さんたちによって醸成された結果として、この店の壁にくっきりと染みついているその匂いに、わたしは、いっそう懐かしさを覚えるのだった。
この店にくると、いつもきまって腰を据えているテーブルに、ふとわたしは眼差しを向ける。
見たとたん、思わずわたしは「あ」と小さく声をあげて、その場に立ちすくんでしまった。
ここを、わたしが訪れる日は必ず、リザーブしてくれているはずの、向かって左奥の二人がけのテーブル――。
なぜか、きょうはそこに、先客があるではないか。若いカップルの二人連れ……。
二人は、屈託のない笑みを浮かべて、おしゃべりに余念がない。
その風景自体は微笑ましいし、わたしの心を和ませてもくれる。
でも、あそこは――わたしのここでの居場所を奪われてしまったような気がして、どうしょうもない疎外感を覚えるのだった。
そうだ――改めて、わたしは店内を見回す。
うん⁈
ふと、わたしは違和感覚えて、首をかしげる。
店内の風景には不可分の、その重要なピースが欠けているような気がしてならなかったからだ。
えーと……何が欠けているんだっけ?
おでこに人さし指をくわえ、わたしは考える。
あ! そうよ。
はたと、わたしは膝を打つ。
こんや、この店内の風景には、あの人の姿が欠けているんだわ。
あの人の姿――。
それは、ホールを取り仕切って、いつも、せわしなく、お客さんの間を駆け回っている、公恵のお姉さんの、あの和美さんの姿が見あたらないのだ。
週末の稼ぎ時の、とりわけ忙しい時刻。
よりによって、そんなときに、彼女が休暇を取るとは到底思えない。なにせ彼女は、この店にはなくてはならない、重要なピース。そう、この店の司令塔なのだから。
そんな、彼女の姿が見えないということは……ひょっとして、病気?
いや、それとも――そう思った次の瞬間、公恵の顔がふと、頭をよぎった。
ゆうべ、思いつめた感じで電話をかけてきた、あの公恵の顔が……。
いま、眼前にある店内の現実と、ゆうべの公恵の電話に、何かしら因果関係があるとでもいうのだろうか。
そんなふうに、小首をかしげたとたん、つんとした痛みがこめかみを刺した。思わず、わたしはうろたえてしまう。
みょうな胸騒ぎを覚えた。
ふいに、硝子窓をパタパタと叩く雨音が聞こえた、ような気がした。
わたしにとって、雨音は、不吉の予兆の旋律――。
凡そ、この一年あまりの季節のなかで、周との関係に綻びが生じてしまった。
ひょっとして、わたし同様にここの一族にも、何かのっぴきならない事態が生じているのだろうか?
さっき、雷門の前で味わされた疎外感を、この通い慣れた店でも、わたしは味わされていた。
でもそれは、単なるわたしの思い過ごしなのかもしれない。ほんとうは、そんなことはなくて、むしろ、ここにはいつもの日常があり、ふだん通りの時間が流れているのかもしれない。
そうだとしても、わたしの心持ちはいま、ひどくこじれてしまっている。
それで、日常に横たわるあらゆる事象を、つい斜に構えて眺めてしまいがちなのだ。それがあって、わたしはいま、状況に距離を置いて眺めるということが、なかなかできないでいる。
もちろん、周との関係性がそうさせているのにちがいない。
いや、実はそれすらも、自分勝手な妄想にすぎないのかもしれない……。
ともあれ、周との繋がりを絶たれてしまったのにくわえ、わたしはいま、この店での居場所すらも失っている。
わたしは、そういう強迫観念に駆られながら、和美さんのいない店内を心細そうに眺めていた。
つづく
「はいよー!」
「お姉さん、こっちもオーダー、お願いねえ」
「あ、は、はーい」
扉を開けると、いきなり、華やいだ声が耳に飛び込んできた。ただ、女の子の声は聞き覚えのない、どこかたどたどしいものだった。
一方で、彼女のオーダーに威勢よく応えているのは、聞き覚えのある、なんともいえず懐かしい声だった。そう、これは公恵の父親の声だ――。
ほろ酔い気分のオジサンたちが交わす雑談の声。それに交じって、あでやかな笑い声。
そうした様々な声が雑然と響き渡り、店内は、いつも通りの活況を呈していた。
なにより、ぎこちなく接客するバイトさんの、その声と姿がいじらしい。たぶん彼女は、新人さんなのだろう。
そういえば――遠い昔の記憶がふと、脳裏に蘇る。
大学時代、公恵に「ねえ、真美、お願い。ちょっとお店手伝ってくんないかなあ」と懇願されて、幾度かこの店を手伝った思い出が……。
もっとも、それに思いを馳せると、わたしには忸怩たるものがあった。
なぜかというと、わたしは、この新人のバイトさん以上に、よりおどおどした接客をしていたからだ。
店内に一歩足を踏み入れる。すると、懐かしい匂いが、つんとわたしの鼻孔をくすぐる。
それは、昨年のお正月から、すでに一年以上も遠ざかってしまった、この店特有の匂いだった。
鉄板から立ち昇る香ばしい匂い。もちろん、その匂いにも、この店特有のそれはある。
けれど、それより何より、長年にわたってここを訪れたお客さんたちによって醸成された結果として、この店の壁にくっきりと染みついているその匂いに、わたしは、いっそう懐かしさを覚えるのだった。
この店にくると、いつもきまって腰を据えているテーブルに、ふとわたしは眼差しを向ける。
見たとたん、思わずわたしは「あ」と小さく声をあげて、その場に立ちすくんでしまった。
ここを、わたしが訪れる日は必ず、リザーブしてくれているはずの、向かって左奥の二人がけのテーブル――。
なぜか、きょうはそこに、先客があるではないか。若いカップルの二人連れ……。
二人は、屈託のない笑みを浮かべて、おしゃべりに余念がない。
その風景自体は微笑ましいし、わたしの心を和ませてもくれる。
でも、あそこは――わたしのここでの居場所を奪われてしまったような気がして、どうしょうもない疎外感を覚えるのだった。
そうだ――改めて、わたしは店内を見回す。
うん⁈
ふと、わたしは違和感覚えて、首をかしげる。
店内の風景には不可分の、その重要なピースが欠けているような気がしてならなかったからだ。
えーと……何が欠けているんだっけ?
おでこに人さし指をくわえ、わたしは考える。
あ! そうよ。
はたと、わたしは膝を打つ。
こんや、この店内の風景には、あの人の姿が欠けているんだわ。
あの人の姿――。
それは、ホールを取り仕切って、いつも、せわしなく、お客さんの間を駆け回っている、公恵のお姉さんの、あの和美さんの姿が見あたらないのだ。
週末の稼ぎ時の、とりわけ忙しい時刻。
よりによって、そんなときに、彼女が休暇を取るとは到底思えない。なにせ彼女は、この店にはなくてはならない、重要なピース。そう、この店の司令塔なのだから。
そんな、彼女の姿が見えないということは……ひょっとして、病気?
いや、それとも――そう思った次の瞬間、公恵の顔がふと、頭をよぎった。
ゆうべ、思いつめた感じで電話をかけてきた、あの公恵の顔が……。
いま、眼前にある店内の現実と、ゆうべの公恵の電話に、何かしら因果関係があるとでもいうのだろうか。
そんなふうに、小首をかしげたとたん、つんとした痛みがこめかみを刺した。思わず、わたしはうろたえてしまう。
みょうな胸騒ぎを覚えた。
ふいに、硝子窓をパタパタと叩く雨音が聞こえた、ような気がした。
わたしにとって、雨音は、不吉の予兆の旋律――。
凡そ、この一年あまりの季節のなかで、周との関係に綻びが生じてしまった。
ひょっとして、わたし同様にここの一族にも、何かのっぴきならない事態が生じているのだろうか?
さっき、雷門の前で味わされた疎外感を、この通い慣れた店でも、わたしは味わされていた。
でもそれは、単なるわたしの思い過ごしなのかもしれない。ほんとうは、そんなことはなくて、むしろ、ここにはいつもの日常があり、ふだん通りの時間が流れているのかもしれない。
そうだとしても、わたしの心持ちはいま、ひどくこじれてしまっている。
それで、日常に横たわるあらゆる事象を、つい斜に構えて眺めてしまいがちなのだ。それがあって、わたしはいま、状況に距離を置いて眺めるということが、なかなかできないでいる。
もちろん、周との関係性がそうさせているのにちがいない。
いや、実はそれすらも、自分勝手な妄想にすぎないのかもしれない……。
ともあれ、周との繋がりを絶たれてしまったのにくわえ、わたしはいま、この店での居場所すらも失っている。
わたしは、そういう強迫観念に駆られながら、和美さんのいない店内を心細そうに眺めていた。
つづく