第47話
文字数 2,303文字
「それでさ、昨年の暮れに、母さんから一度、連絡があったのよ」
さもいまいましそうに、公恵が顔をしかめて言う。
「お父さんが、ウザいくらいにうるさく言うんだってさ……あたしに、家に帰ってこい、ってね。それを伝える電話だったの」
公恵はいま、実家を出て、スカイツリーのほど近くにある、賃貸マンションに居を構えている。そのすぐ近くに、彼女の勤務先があるからだ。
「でもさあ、暮れで、仕事が忙しかったし、それより何より、気が重かった……だからといって、母さんのことも心配だった。だって、よほどのことがないかぎり、弱音を吐くような人じゃないもの……それで一度、渋々ながらも、実家に戻ったの」
眉をひそめたまま、公恵が言う。
「でもさあ、お父さんの話って、あれしかないじゃない」
あれ――そうだね、とわたしはうなずく。和美さんがいなくなったいま、話があるとすれば、このお店をだれが継ぐかという、跡取り問題の話しかないのだ。
「それがわかってるだけにさ、半端なく憂鬱だったなあ……」
さぞや憂鬱だったことだろう。
ため息交じりに、そう公恵は言うと、ひそめた眉をいっそうひそめてみせた。
「やっぱり、予想通りだったわ……ウチのお父さん、ああいう性分じゃない。だから、伝法口調で、まくしたてるように言うのよ。さっさと、いまの仕事を辞めちまって、家の仕事を手伝え、ってね。そんでもって、ゆくゆくは、おまえが、この店を継ぐんだ、わかってんだろうな、ともね。こっちの都合なんてお構いなしにさ、頭ごなしに言うんだよ、腹立たしいったら、ありゃしないわよ」
そこでことばを区切ると、公恵は、またしても煙草に手をのばし、例の銀のライターで、それに火を点けた。こんや、これで、何本目だろう……。よほど、むしゃくしゃしているらしい。
ただ、わたしも息苦しかった。いま彼女が口にした「こっちの都合」が、よくわかっているだけに……。
こっちの都合――浩介くんという、将来を誓い合った男性が、公恵にはいた。彼女にとって、だから「こっちの都合」は、どんな都合にもまして、優先順位が高かった。
それに、かねて公恵は、こんなことを口にしていた。いま、ふと思い出しても、鮮明に、脳裏に浮かんでくるほど、キラキラと輝いた目をして。
「浩介が将来、実家の雑貨屋を継いだあかつきには、あたしも、お店を手伝うんだ。で、お店の品揃えを、いまの和テイストから、西洋のアンティークテイストに変えるの、うふふ」
そんなふうに、彼女は、将来の夢を熱く語っていた。だというのに、この現実の救いのなさは、どうだろう。ほんとうに、カミサマは死んでしまったのだろうか?
「学生時代の般教、真実も、文学とってたわよね」
「え、あ、うん……」
またもや話題が、突然、変わった。ほんとうに、彼女は忙しい人だ。
「そのなかで、教授の三田さんが、実存主義について講義をしてたの覚えてる」
「え、実存主義について……三田さんが?」
久しぶりに、懐かしい人の名前を聞いた。
どういう講義だっけ、とわたしは首をかしげる。サルトルの話だった。たしか、目から鱗が落ちたような話だった。ただ、すぐに詳細までは判然としない。
「どんな講義だっけ?」
だから、わたしは訊く。
「ほら、こんな講義だったじゃない……」
公恵はそう言うと、あのとき三田教授がした講義の内容を、わたしに、こう聞かせてくれたのだった。
『人間というものは「かくあるべしという本質がないものだ」というふうに、サルトルは考えたんですね。
この教室にいる皆さんもそうです。皆さんには、かくあるべしというものが、本来はないはずです。
とはいえ、皆さんは何らかの期待を背負って生まれてきた、ということはあるかもしれない。
でもそれは、親の期待であって、皆さんの本質ではないのです。
皆さんは自由です。自分の未来を、自分の意志と力できりひらいていけばいい』
と、まあ、だいたい、こんなふうに。
「ことのほか新鮮な講義だったわ。聴き終えたあと、しみじみと思ったものよ。友達が遊んでいるとき、脇目も振らず、ただひたすら受験勉強に勤しんだ、その甲斐があったってもんだわ、ってね」
どこか遠い目をして、公恵はそう言った。
言われてみれば、わたしにとっても、あの講義は新鮮だった。
あの講義を受けたおかげで、胸のなかでくすぶっていたうしろぐらさから、ようやく解放された、ような気がしていた。
もっとも、喉元過ぎれば、何とやらで、もう記憶はあやふやになっていた。
「たださ、わたしはあのとき、教授の講義を、どこか他人事のように聞いていたの。だって、あたしは、この店を継ぐのはお姉ちゃんだと思っていたし、周りの人たちもそう認識していた。それなのにねえ……」
ねえ、をことさら強調して、公恵は言った。
よもや、そのお鉢が自分に回ってっくるとは――意表をつかれた公恵の周章狼狽ぶりが、わたしには、手に取るようにわかった。
「あの日は、最悪だったわよ……」
煙草をまずそうに一服して、公恵が口を開く。
「当然よね。三田さんふうに言えば、わたしたちは自由だし、自分の未来を、自分の意志と力できりひらいていけばいいはずなのよ。それなのに、有無を言わさず、頭ごなしに、それを否定するんだよ、あの人。なら、あたしがどれだけ頭にきたか、親友の真美だったら、わかってくれるわよね」
そう言って、公恵は、わたしの顔をジッと見つめた。
うん、と素直にうなずこうと思った。間違ってはいなかったのだから。
それなのにわたしは、なおさら息苦しさを覚え、逃げるようにして、公恵から目をそらしてしまった。
つづく
さもいまいましそうに、公恵が顔をしかめて言う。
「お父さんが、ウザいくらいにうるさく言うんだってさ……あたしに、家に帰ってこい、ってね。それを伝える電話だったの」
公恵はいま、実家を出て、スカイツリーのほど近くにある、賃貸マンションに居を構えている。そのすぐ近くに、彼女の勤務先があるからだ。
「でもさあ、暮れで、仕事が忙しかったし、それより何より、気が重かった……だからといって、母さんのことも心配だった。だって、よほどのことがないかぎり、弱音を吐くような人じゃないもの……それで一度、渋々ながらも、実家に戻ったの」
眉をひそめたまま、公恵が言う。
「でもさあ、お父さんの話って、あれしかないじゃない」
あれ――そうだね、とわたしはうなずく。和美さんがいなくなったいま、話があるとすれば、このお店をだれが継ぐかという、跡取り問題の話しかないのだ。
「それがわかってるだけにさ、半端なく憂鬱だったなあ……」
さぞや憂鬱だったことだろう。
ため息交じりに、そう公恵は言うと、ひそめた眉をいっそうひそめてみせた。
「やっぱり、予想通りだったわ……ウチのお父さん、ああいう性分じゃない。だから、伝法口調で、まくしたてるように言うのよ。さっさと、いまの仕事を辞めちまって、家の仕事を手伝え、ってね。そんでもって、ゆくゆくは、おまえが、この店を継ぐんだ、わかってんだろうな、ともね。こっちの都合なんてお構いなしにさ、頭ごなしに言うんだよ、腹立たしいったら、ありゃしないわよ」
そこでことばを区切ると、公恵は、またしても煙草に手をのばし、例の銀のライターで、それに火を点けた。こんや、これで、何本目だろう……。よほど、むしゃくしゃしているらしい。
ただ、わたしも息苦しかった。いま彼女が口にした「こっちの都合」が、よくわかっているだけに……。
こっちの都合――浩介くんという、将来を誓い合った男性が、公恵にはいた。彼女にとって、だから「こっちの都合」は、どんな都合にもまして、優先順位が高かった。
それに、かねて公恵は、こんなことを口にしていた。いま、ふと思い出しても、鮮明に、脳裏に浮かんでくるほど、キラキラと輝いた目をして。
「浩介が将来、実家の雑貨屋を継いだあかつきには、あたしも、お店を手伝うんだ。で、お店の品揃えを、いまの和テイストから、西洋のアンティークテイストに変えるの、うふふ」
そんなふうに、彼女は、将来の夢を熱く語っていた。だというのに、この現実の救いのなさは、どうだろう。ほんとうに、カミサマは死んでしまったのだろうか?
「学生時代の般教、真実も、文学とってたわよね」
「え、あ、うん……」
またもや話題が、突然、変わった。ほんとうに、彼女は忙しい人だ。
「そのなかで、教授の三田さんが、実存主義について講義をしてたの覚えてる」
「え、実存主義について……三田さんが?」
久しぶりに、懐かしい人の名前を聞いた。
どういう講義だっけ、とわたしは首をかしげる。サルトルの話だった。たしか、目から鱗が落ちたような話だった。ただ、すぐに詳細までは判然としない。
「どんな講義だっけ?」
だから、わたしは訊く。
「ほら、こんな講義だったじゃない……」
公恵はそう言うと、あのとき三田教授がした講義の内容を、わたしに、こう聞かせてくれたのだった。
『人間というものは「かくあるべしという本質がないものだ」というふうに、サルトルは考えたんですね。
この教室にいる皆さんもそうです。皆さんには、かくあるべしというものが、本来はないはずです。
とはいえ、皆さんは何らかの期待を背負って生まれてきた、ということはあるかもしれない。
でもそれは、親の期待であって、皆さんの本質ではないのです。
皆さんは自由です。自分の未来を、自分の意志と力できりひらいていけばいい』
と、まあ、だいたい、こんなふうに。
「ことのほか新鮮な講義だったわ。聴き終えたあと、しみじみと思ったものよ。友達が遊んでいるとき、脇目も振らず、ただひたすら受験勉強に勤しんだ、その甲斐があったってもんだわ、ってね」
どこか遠い目をして、公恵はそう言った。
言われてみれば、わたしにとっても、あの講義は新鮮だった。
あの講義を受けたおかげで、胸のなかでくすぶっていたうしろぐらさから、ようやく解放された、ような気がしていた。
もっとも、喉元過ぎれば、何とやらで、もう記憶はあやふやになっていた。
「たださ、わたしはあのとき、教授の講義を、どこか他人事のように聞いていたの。だって、あたしは、この店を継ぐのはお姉ちゃんだと思っていたし、周りの人たちもそう認識していた。それなのにねえ……」
ねえ、をことさら強調して、公恵は言った。
よもや、そのお鉢が自分に回ってっくるとは――意表をつかれた公恵の周章狼狽ぶりが、わたしには、手に取るようにわかった。
「あの日は、最悪だったわよ……」
煙草をまずそうに一服して、公恵が口を開く。
「当然よね。三田さんふうに言えば、わたしたちは自由だし、自分の未来を、自分の意志と力できりひらいていけばいいはずなのよ。それなのに、有無を言わさず、頭ごなしに、それを否定するんだよ、あの人。なら、あたしがどれだけ頭にきたか、親友の真美だったら、わかってくれるわよね」
そう言って、公恵は、わたしの顔をジッと見つめた。
うん、と素直にうなずこうと思った。間違ってはいなかったのだから。
それなのにわたしは、なおさら息苦しさを覚え、逃げるようにして、公恵から目をそらしてしまった。
つづく