第41話
文字数 1,856文字
「それはそうと……真美ちゃん」
ふとおばさんが、わたしの顔を見て、いつもの涼しげな目を向けて言った。
「ここに立っているのもなんだから、二階のリビングルームに行って、そこで、公恵を待っててくれる」
ことばをそこで区切ったおばさんは、ふとわたしから目を離して、どこか遠くを見るような目をして言った。
「ここんところね、なにかといそがしいのよ……だからさ」
またしてもおばさんは仔細ありげにつぶやいて、わたしに首をめぐらすと、どこか懇願するような眼差しを向けた。
これって、あれかしら——突然、わたしは考える。
かまってあげる暇がないから、二階のリビングルームに行って、そこで、公恵を待ってろ、ってことかしら……。
そう思ったら、胸が鈍くうずいた。
かまってあげる暇がない——ひょっとして、和美さんがいないことと、何か関係あるのだろうか?
そのことが、この家のいまの現状を如実に物語っているような、そんな気がしてならなかった。
でもわたしは、躊躇する。二階のリビングルームに行くことを——。
だって、わたしはフンガイしているのだ。公恵の、このおざなりのもてなしように対してとても、すごく——。
わたしがこんや、ここにくることをおばさんに伝えてないどころか、あれほど人には遅れないでねとくどいくらい言っておきながら、当の本人はその約束をあっさり反故にしている。
なんて、自分勝手な、なんて、わがままな——そう思って、わたしはフンガイするのだ。
なら、わたしだって——半ばふてくされ気味に、わたしは内心つぶやきを洩らす。
こんやは公恵に会わないで、このまま帰っちゃおうかなあ、と。
「ほら、真美ちゃん、遠慮しないで、さあ、あがって、あがって」
けれどそうやって、ためらっていると、おばさんに、そう強くうながされた。
「は、はい……」
どうしたって、わたしはうなずかざるを得なかった。
なにせ、わたしは上京してこの方、なにくれとなく、おばさんにお世話になってきたのだから。
それを思えば、おばさんに言われたことは素直にしたがうのが道理というもの。
そう自分に言い聞かせたわたしは、勝手知ったる他人の家とばかりに、「それじゃ、おじゃまさせていただきます」とひと言断りを入れて、暖簾をくぐり、上がり框でブーツを脱ぐと、そそくさと、二階に繋がる階段へと向かった。
「雨があがったとはいえ、外は、かなり冷え込んでいたでしょう……いま、熱い、お茶淹れてあげるね」
ダイニングテーブルの椅子に腰をおろし浮かない顔で頬杖をついていたわたしの背中におばさんが、いつものように、優しく声をかけてくれた。
ふたたび熱いものが、グッと、こみあげてくる。思わずわたしは目頭が熱くなってしまう。
お茶を注いでくれると、おばさんはもう、わたしのことなど気にもとめずさっさと階下へと降りていった。
ほんとうに、いそがしそうだ。
おばさんがいなくなったので、わたしはホッと胸をなでおろし、人差し指で、目尻に溜まったしずくを、そっと、ぬぐう。
それからわたしは、改めて、部屋の中を見回す。
初めて、公恵の実家に連れてこられた日のことが、ふと脳裏をかすめる。
わたしはあの日、この部屋で、なんともいえず懐かしい匂いをかいでいた。
この部屋に漂う空気が、なんとなく、故郷の実家に流れているそれと同様な気がしてならなかったのだ。
上京して以来、この街で、味わうことを余儀なくされていた、ひとりぼっちの孤独感と疎外感——そういったものから、わたしはあの日、にわかに解放されたような気分になっていた。
こうして、わたしはきょうも、あの日と同じ部屋で、同じ匂いをかいでいる。そうだというのに……。
「それにしても、あの娘ったら、七時にきてくれって、真美ちゃんに、言ってたんでしょう……」
いったん、お店に顔を出して、ふたたび、リビングルームに戻ってきたおばさんが、申し訳なさそうにつぶやいた。
それを聞いたわたしは、何気に、部屋の壁に掛けてある古めかしい柱時計に目をやろうとした。
と、そのとき、くしくも「ボーン」という重低音が、不気味に、部屋に響いた。
ビクッと思わず肩が、小さく、跳ねあがる。
たぶんわたしは、すっかり怯えて、ひどくさえない顔つきをしているのだろう。
やれやれ——なさけなさそうな息をついて、わたしは苦い笑みを洩らす。思わず、既視感を覚えていた。
そういえば故郷の古めかしい大きな屋敷で、幼いころ、同じような恐怖を味わったことがあったなあ、と。
つづく
ふとおばさんが、わたしの顔を見て、いつもの涼しげな目を向けて言った。
「ここに立っているのもなんだから、二階のリビングルームに行って、そこで、公恵を待っててくれる」
ことばをそこで区切ったおばさんは、ふとわたしから目を離して、どこか遠くを見るような目をして言った。
「ここんところね、なにかといそがしいのよ……だからさ」
またしてもおばさんは仔細ありげにつぶやいて、わたしに首をめぐらすと、どこか懇願するような眼差しを向けた。
これって、あれかしら——突然、わたしは考える。
かまってあげる暇がないから、二階のリビングルームに行って、そこで、公恵を待ってろ、ってことかしら……。
そう思ったら、胸が鈍くうずいた。
かまってあげる暇がない——ひょっとして、和美さんがいないことと、何か関係あるのだろうか?
そのことが、この家のいまの現状を如実に物語っているような、そんな気がしてならなかった。
でもわたしは、躊躇する。二階のリビングルームに行くことを——。
だって、わたしはフンガイしているのだ。公恵の、このおざなりのもてなしように対してとても、すごく——。
わたしがこんや、ここにくることをおばさんに伝えてないどころか、あれほど人には遅れないでねとくどいくらい言っておきながら、当の本人はその約束をあっさり反故にしている。
なんて、自分勝手な、なんて、わがままな——そう思って、わたしはフンガイするのだ。
なら、わたしだって——半ばふてくされ気味に、わたしは内心つぶやきを洩らす。
こんやは公恵に会わないで、このまま帰っちゃおうかなあ、と。
「ほら、真美ちゃん、遠慮しないで、さあ、あがって、あがって」
けれどそうやって、ためらっていると、おばさんに、そう強くうながされた。
「は、はい……」
どうしたって、わたしはうなずかざるを得なかった。
なにせ、わたしは上京してこの方、なにくれとなく、おばさんにお世話になってきたのだから。
それを思えば、おばさんに言われたことは素直にしたがうのが道理というもの。
そう自分に言い聞かせたわたしは、勝手知ったる他人の家とばかりに、「それじゃ、おじゃまさせていただきます」とひと言断りを入れて、暖簾をくぐり、上がり框でブーツを脱ぐと、そそくさと、二階に繋がる階段へと向かった。
「雨があがったとはいえ、外は、かなり冷え込んでいたでしょう……いま、熱い、お茶淹れてあげるね」
ダイニングテーブルの椅子に腰をおろし浮かない顔で頬杖をついていたわたしの背中におばさんが、いつものように、優しく声をかけてくれた。
ふたたび熱いものが、グッと、こみあげてくる。思わずわたしは目頭が熱くなってしまう。
お茶を注いでくれると、おばさんはもう、わたしのことなど気にもとめずさっさと階下へと降りていった。
ほんとうに、いそがしそうだ。
おばさんがいなくなったので、わたしはホッと胸をなでおろし、人差し指で、目尻に溜まったしずくを、そっと、ぬぐう。
それからわたしは、改めて、部屋の中を見回す。
初めて、公恵の実家に連れてこられた日のことが、ふと脳裏をかすめる。
わたしはあの日、この部屋で、なんともいえず懐かしい匂いをかいでいた。
この部屋に漂う空気が、なんとなく、故郷の実家に流れているそれと同様な気がしてならなかったのだ。
上京して以来、この街で、味わうことを余儀なくされていた、ひとりぼっちの孤独感と疎外感——そういったものから、わたしはあの日、にわかに解放されたような気分になっていた。
こうして、わたしはきょうも、あの日と同じ部屋で、同じ匂いをかいでいる。そうだというのに……。
「それにしても、あの娘ったら、七時にきてくれって、真美ちゃんに、言ってたんでしょう……」
いったん、お店に顔を出して、ふたたび、リビングルームに戻ってきたおばさんが、申し訳なさそうにつぶやいた。
それを聞いたわたしは、何気に、部屋の壁に掛けてある古めかしい柱時計に目をやろうとした。
と、そのとき、くしくも「ボーン」という重低音が、不気味に、部屋に響いた。
ビクッと思わず肩が、小さく、跳ねあがる。
たぶんわたしは、すっかり怯えて、ひどくさえない顔つきをしているのだろう。
やれやれ——なさけなさそうな息をついて、わたしは苦い笑みを洩らす。思わず、既視感を覚えていた。
そういえば故郷の古めかしい大きな屋敷で、幼いころ、同じような恐怖を味わったことがあったなあ、と。
つづく