第13話

文字数 1,987文字




 昨年の秋の日の風景のつづき
 
 めずらしく、二人でとった美味しい食事。それに、満たされた気分で、わたしたちは銀杏並木が鮮やかな大通りに出る。
 絵画館前から、遠くかすんだ青山通りをぼんやりと眺める。
 そこには、遠近法のお手本のような景色が広がっていて、それが、西欧の油彩風景画――たとえば、それはシスレーだったりを彷彿とさせる。
 柔らかな陽の光が、銀杏の梢に降り注いでいる。それが、葉々の黄色をより鮮明に見せてくれる。
 あ⁈ これ――ふと、わたしの胸に懐かしい感情が湧いてくる。
 この懐かしさ、何だっけ? 
 首を捻ってみるのだれど、周囲の喧騒が、わたしの思考を、意地悪く、邪魔をする。そこでわたしは、改めて、周囲を見渡す。
 すごい賑わいだわ。思わず、わたしは目を瞠る。
 歩行者天国として解放されている舗道には、国際色豊かな老若男女で溢れかえっている。
 それぞれがカメラやスマホを手にして、何かに急かされるようにパシャパシャとシャッター音をとめどなく轟かせている。
「真美、そこに立って!」
 だしぬけに、周が声をかけた。彼を見ると、微笑みながら、スマホを手にして構えていた。
 だったらーー銀杏並木をバックに、わたしはポーズを決める。
「どう?」
 わたしが訊くと、周が撮った写真を、さっそく、見せてくれる。
 液晶画面の中に、木漏れ日を浴びて屈託のない笑みを浮かべている、わたしがいる。
「うん、景色が素敵だね」とおどけてみせると、周は「あはは」と天を見上げて笑った。こういう軽口が叩けるいまの一瞬が、いとおしくもあり、それでいて、せつなくもある。
「今度は、わたしが撮るね」
 いとおしい一瞬を切り取ろうと、素早く、スマホのシャッターを押す。
「どう?」
「うん、かっこよく撮れてる。被写体がいいんだろうね」
 わたしを真似て、周もおどけて見せる。わたしはニコッと微笑んで、液晶画面の中を覗く。美しい銀杏並木の風景に、周の素敵な笑顔が溶け込んでいる。
 幸せだな――ふと、わたしは思う。
 この写真のように、このまま時が止まってくれたらいいのに。止まった時の中で、この笑顔が永遠につづけばいいのに。
 わたしは内心願う。この濃密な時が永遠であれと――。
 
 幸せを確かめるように、青山通りに向かって、ゆっくり、ゆっくりと落ち葉を踏みしめて歩く。
 穏やかな風が、優しく、舗道を渡っていく。銀杏の葉を透かした木漏れ日が落ち葉に影を落とし、そよ吹く風が、その影をわずかに揺らす。
 わたしは、周の後ろ姿を見て歩くのが、大好きだ。
 一見ひょろっとして細身に見える周だけれど、その背中は非常に大きく見える。
 彼の、その背中にそっと顔を沈めている瞬間が、わたしは大好きなのだ。
 大きな背中。その匂い。そして、その温もり。それらを肌で感じている瞬間が、わたしは、とりわけ好きだった。
 いま、わたしの往く手には、ゆっくりと歩く周の大きな背中がある。たぶんその歩調は、学生時代からなにも変わっていないのだろう。
 けれど、いまのわたしの目には、腕の中から逃げ出した小動物が駆け出すような速さで、周は歩いている。
 あんなに大きくくっきりと見えていた、周の背中。それが、いまは、まるで望遠鏡を逆さまに覗いたような小ささで、ぼんやりと見えている。
 手を伸ばせば、すぐ届くところにいてくれた周。なのにいまは、微妙に離れていて、その距離感がとても、もどかしい。
 悲しげな眼差しを作って、ふと、空を仰いだ。
 不吉な予兆の旋律の、あの雨音はいま、聞こえない。それより、抜けるような空の青さが暖かい色をして、二人を覆ってくれていた。
 
 さりげなく、視線を前方に移す。見ると、白い光の中、だれも腰を据えていないベンチが目に入る。
 二人で黙って、目でうなずき合って、そこへ、走るような足取りで近づき、腰を下ろした。
 銀杏の葉を透かした木漏れ日が、ベンチに陽だまりを作り、それが優しく身体を包んでくれる。ポカポカして、すごく心地よい。
 その温もりが全身に染み渡り、どこか塞ぎがちなわたしの心の、その中までポカポカ温めてくれる。
 ふいに、わたしの心に風が舞う。
 それが、さっき感じた懐かしさの、その正体を教えてくれる。
 小春日和の柔らかな陽の光を浴びて、キラキラと輝く銀杏の梢。それが一瞬、アルルの黄色を想起させる。
 そう、わたしはゴッホの『ひまわり』の黄色を、それに重ねていたのだ。
 かといって、銀杏の黄色とゴッホのひまわりの黄色とでは、あきらかに色調がちがう。
 それでも、小春日和の陽の光を浴びた銀杏の鮮やかな黄色は、わたしに、ゴッホのひまわりの黄色を思わせていた。
 ゴッホのひまわりは、わたしが、大好きな絵画だった。
 しかも、それは、この街で暮らしを始めたわたしに幸福を届けてくれた、さながら、ガラスの靴のような絵画でもあったのだ。


つづく
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