第45話
文字数 2,802文字
「……そりゃあ、簡単には納得しないわよね。あんなことがあって、もう頼るのは、あんたしかいないんだもんね……」 おばさんの、さっきのことば。 「真美は、どうしてこんや、わたしがここに、って思ってるかもしれないけどさ、あたしは親友のあんたに、どうしても、うちの店の現状を知っておいてほしいと思ったんだ」 これは、公恵の――。 この二人のことばもさることながら、どこか違和感があった、あのお店の風景……。 それらから察すると、いま、公恵の実家で、何かのっぴきならぬドラマが展開されているのは紛れもない事実。
では、どのようなドラマが――と、尋ねたいところだけれど、でも他人の家のことについて、不用意な質問をするのはためらわれた。
もしそれで、二人の関係が気まずくなってしまったらどうしよう、という懸念がわたしにはあったからだ。そこで、わたしは黙って、公恵の次のことばを待つことにした。
嵐 の前の静けさとは、まさにこのことだ、と思う。
リビングルームはいま、ひりひりとした、息が詰まるような静けさのなかに沈んでいる。
カチッ――。
沈黙を破って、そんな音が耳にふれた。
わたしはドキッとして息をのむ。
恐る恐る、音がしたほうに一瞥をくれる。
なんだ、ライターの音か。
わたしはどうも、公恵の実家の事情におびえて、やたら緊張していたらしい。 公恵の横顔を、目の端でチラリ覗く。 彼女はライターで火を点けたタバコをくわえ、頬をすぼめるようにして、煙を強く吸い込んでいた。
それを見たとたん、わたしはなんだか、いたたまれない気分になった。
彼女はふだん、あんな半ば捨て鉢気味なタバコの吸い方はしないからだ。
やっぱり、この家ではいま、ただならぬドラマが繰り広げられているらしい。 そう思った次の瞬間――。
「ふうー」と公恵が吸い込んだタバコの煙を、天井に向かって、勢いよく吐き出した。
片ひじで頬杖をつきながら、彼女は、吐き出した煙の行方を、どこか上の空で眺めている。
彼女のその、様子を見た瞬間、頬がたちまち紅くなってゆくのが、自分でもよくわかった。
心のなかに、何かの事情を抱えてもがいているのは、わたしだけではなかったのだ。彼女もまた、何かの事情を心に抱えてもがいている。
そして公恵はいま、自分が抱えている心の事情を、わたしに打ち明けようとしてくれている。なのに、わたしは、どうだ。わたしはただ、自分のことしか考えていなかった。
わたしはこの街にきて、ひとりぼっちの寂しい心が道に迷って、途方に暮れていた。それを救ってくれたのが、だれあろう、この公恵だったのに……。
だとしたら、とわたしは思う。
ここは、公恵の親友として、何か気の利いたことばのひとつでもかけてあげるべきではないだろうか、と。 ならば――突然、わたしは考える。
どのようなことばをかけてあげればいいのか、と。 ただ、決定的にわたしは機知に富んでいない。だから、気の利いたことばは咄嗟には、浮かんでこなかった。
それより、そのことばを探しているうちに、わたしはなんだか、鼻がむずがゆくなってきた。 どうしてかというと、可笑しかったのだ。昨夜からの、二人のやり取りが。改めて、それをなぞってみると――。
わたしはこんや、つくづく、思い知らされている。 相手の心の事情――。
それに寄り添うことで、初めて、気づかされることがあるのだと。 公恵は竹を割ったような、さっぱりとした性分だった。一方のわたしは、その真逆で、周りのみんなから「真美ったら、ほんとに煮え切らない性分だよね」と、よくからかわれていた。
ところが、きょうは二人の立場が、逆転していた。それを思うと、つい吹き出しそうになっていたのだった。
どちらかというと、わたしはふだん、無口なほうだ。公恵は一方で、饒舌。
それでも、まあ、わたしだって、時には、公恵に相談に乗ってもらうことがあるには、ある。それを、億劫がることなく、公恵は聞いてくれる。わたしにとって、この関係性は、わが家にいるような安心感をもたらせた
それなのに、わたしはうっかり、彼女の存在を失念していた。
周との関係――。
一番、彼女に相談に乗ってもらわなければならない問題だったというのに。 ところが、きょうは、いつもとちがう。
なにせ、二人の立場が、あべこべになっているのだから。
わたしがきょうは、公恵の立場を担わされている。億劫がることなく、こんやはわたしが、彼女の事情に耳をかたむけなければならない立場だ。まして、何か気の利いたアドバイスを、与えてあげなければならない。
気が重かった。それを思えば。わたしにはとても、荷の重い役目と言えた。 ただ、そのことが、ふと気づかせてもくれる。
わたしは、自他共に認める、温室育ちのお嬢様。それもあってか、いままで自分から、あえて積極的に、相手の心の事情に寄り添うことはなかったな、ということを――。
わたしはこれまで、さもそれがあたりまえのようにして、公恵の優しさを甘受してきた。
それが、きょうのように、二人の立場が逆転したことで、わたしは改めて、彼女の優しさに気づかされている。
それとまた、わたしは、こうも気づかされている。
億劫がることなく、相手の心の事情に寄り添うことの、その難しさを――。 公恵はいつも、億劫がることなく、わたしの心の事情に耳をかたむけてくれた。そして聞き終わったあとで、いつも、適切なアドバイスをしてくれた。
でもこの度は、絡まった思い込みの糸に翻弄されて、公恵の存在をすっかり忘れていた。
そしてこんやは、わたしが、公恵の役割をになわされている。 そんなことは、いままで、なかった。
しみじみ、そういうことを思いながら、ふたたび、公恵をチラ見した。
公恵が吸っているタバコから、ゆらゆら、と立ち昇る一条の紫煙。
あたかもそれが、この部屋に流れている時間の速さを象徴しているかのように思われた。
それと同時に、それが嵐の前の静けさを、いっそう濃密にさせているようにも、わたしには思われてしかたなかった。
まして、それがわたしを、いっそううろたえさせるのだった。
相変わらず、公恵の横顔を、わたしは眼の端で覗いていた。
するとふいに、公恵が顔をしかめた。と同時に、手にしていたタバコを、ガラスの灰皿で押しつぶした。いかにも、乱暴そうに。
その上で、彼女は、さも大義そうに、長い黒髪をかきあげた。
わたしにはそれが、公恵が口を開く、その合図のように思われた。
はたして、彼女の口から、どんなドラマが語られることやら。
そう思って、わたしは一瞬、身構えた。
つづく