第20話

文字数 1,828文字



 とうとう、「その日」がやってきたらしい……。
 ひとりごとのようにつぶやいたら、急に、熱いものがこみ上げてきた。
 震える手で、スマホを引き寄せた。
「大事な話があるんだ――」
 電話に出たなら、間違いなく、そう告げられる。
 そうすれば、いままでの周との思い出のページが、あえなく、白紙になってしまう。
 それだけは、何がなんでも、避けたい――そう思いながらも、結局は逃げられないんだ、とわたしは唇をかみしめて、液晶画面に霞んだ一瞥をくれる。
 一目見たその次の瞬間、こわばっていた頬が、みるみるうちに弛んでいくのが、自分でもよくわかった。
 それほど、わたしは、非常に、ひどく、頬をこわばらせていたようなのだ。
 よかった、とわたしは小さくつぶやいて、ほっと胸をなでおろす。
 画面に表示されていた、その名前――津川公恵。
 周とはちがう名前が表示されていたのだった。
 目尻に溜まった雫を、わたしは人差し指でそっと拭う。
 すると、周とはちがう甘酸っぱい思い出が、にわかにわたしの胸のうちを支配した。
 ふう〜、と肩でひとつ息をついて、それから、わたしは涙を拭った人差し指で、勢いよく、スマホの画面をタッチした。
 
「真実、元気してた?」
 長方形の箱の中から、いとおしい女性(ヒト)の声が、心地よく耳にふれる。
 ぶっきらぼうでありながら、それでいて言葉の端々に慈しみが滲んでいる声。そして何より、この街で、わたしが唯一、心を許せる女性の声。そんないとおしい公恵の声が――。
 電話って、すごく不思議だ。
 頼り甲斐のある人の顔が見えるわけでもないのに、その人の匂いや肌の温もりが直接感じられるわけでもないのに、長方形の箱の中から、何かがふわっと溢れ出してきて、部屋の空気を一変させてくれる。
 気が滅入るようなつらさに、すっかりよどんでいたわたしの部屋の空気も、一瞬にして華やいだ、ような気がする。おまけに、それが、わたしの気分までも、ほっこりとさせてくれる。
 それでだろうか。思わずわたしは「うん、元気にしてたよ」と弾んだ声で応えていた。
 
「元気そうね、ならいいの。それより、真実、突然でわりいんだけどさ、あすの夜、うちの実家に来てくれない」
 久しぶりに聞く、公恵の声。
 昨年のお正月、周とわたし、公恵と彼氏の浩介くん、この四人で浅草寺に初もうでに出かけ、その流れで近所にある公恵の実家になだれ込み、そこに公恵の家族も加わって派手に新年を祝って以来、もう一年以上も会っていない、そんな公恵の声――。
 それなのに、「元気そうね、ならいいの」って、それだけ……。
 周くんとはうまくいってるの?  とか、仕事は順調?  とか、他にもいろいろ聞くことあるんじゃないのかなぁ。
 でもそういう言葉は端折られて、だしぬけに、「あすの夜、うちの実家に来てくれない」と自分の要件だけを、ずうずうしく告げてくる……。
 相変わらず、と言えばそれまでだけど――ため息交じりに、わたしは内心つぶやきを洩らす。
 それで、いつも振り回されているんだよね、と。
 でもわたしは、電話の向こう側にある、美しく洗練された公恵の面持ちを脳裏に思い浮かべて、やっぱり、憎めないんだよねぇ、これが、とすぐに思い直してしまうのだった。
 
 この街に来て、ひとりぼっちの心が道に迷って迷子になっていたわたしに、最初に手を差し伸べてくれたのが、公恵だった。
 公恵と出会ったことで、わたしは、この街での居場所を見つけることができたし、それより何より、周に出逢うこともできた。
 知り合ってから、七年――。
 記憶の中に綴られている甘酸っぱい思い出の数々。それが一瞬、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
 いまにして思えば、とりわけ親和性の高い二人だったと、わたしはつくづく感じている。
 「社会人になって、新しく友達を作るのは、恋人を作るよりも難しいんだよ」
 会社の先輩に、わたしはある日、そんな話を聞かされたことがある。
 最近になって、わたしは、彼女の言葉の意味の重さが、実に切実に実感できるようになった。
 スマホの中でつながる友人は、いとも簡単に作ることができるけれど、顔を合わせて濃密な時間を過ごせるような友人をつくるのは、やたら難しい時代――。
 たしかに、これから先、そんな友人がわたしの目の前に現れてくれるという保証は、どこにもない。
 それを思えば、わたしにとって、公恵はかけがいのない友人だし、まして、唯一無二の存在でもあったのだ。


つづく
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