第33話

文字数 1,535文字

 修学旅行の行程表のなかに、こういう一日があった。
 気が合った者同士でグループを作って、東京の街を自由に行動してもよいという、そんな素敵な一日が――。
「どこに行く?」
「どうしょうか」
「わたしは……」
 いろんな意見を、みんなが口にした。
 原宿に行きたいな。わたしは、浅草、雷門。あたしは、秋葉原だな。ううん、東京と言えば、やっぱり東京タワーよ。
 そうした様々な意見が飛び交った。にもかかわらず、わたしは、それを強引にねじ伏せてしまう。
 むろん、いくつもの不満の顔と声が、あった。
 あのとき、それを、わたしはこう言って説得したのだった。
「経験者のわたしを信じてみない。絶対、みんな、喜ぶと思んだ」
 前もって、調べていた。ちょうど、そこで、印象派の画家の企画展が開催されていることを。
 
 久しぶりに訪れた上野――。
 穏やかな風が、杜を渡っていた。
 ただ、その日吹いていた風は、十二歳の春の日にふれたそれとは、ちょっと趣が変わっていた。
 その日、杜を渡っていた風は、秋の爽やかな空気を含んだそれだった。それが、わたしを優しく迎えてくれていた。
 ほんの少しの間、わたしはグループから離れ、独り、木漏れ日が陽だまりを作るベンチに腰を下ろしていた。
 木漏れ日がほんわかとわたしを包んでくれる。
 みょうに懐かしい爽やかな風が、わたしの長い黒髪や白い頬や小さな胸に、たおやかに戦ぐ。
 それが、落ち着かせていた。わたしのなかにわだかまっていた祖母に対するうしろめたさを、不思議なほど、清々しく――。
 やっぱり、こにきて、良かったな。
 小さくつぶやいて、わたしは深くうなづいていた。
 やがて、グループに戻ったわたしは、みんなと一緒に、ル・コルビュジェ設計による国立西洋美術館へと、心を弾ませながら足を運んでいた。
 館内に一歩足を踏み入れると、荘厳な空気がわたしたちを迎えてくれた。
 モネやルノアールに、シスレー。そして、ピサロ。印象派の画家たちの絵画が所狭しとずらり並んでいた。その絵画の前に立つみんなの目が、きらきらと輝いていた。
「ね、きてよかったでしょ」
「うん、よかった。ありがとう、まみ」
 みな、笑顔でうなずいてくれていた。
 その笑顔見て、わたしは安堵のため息をついていた。
 そう、この世界に絶対などはないのだ。 
 それでだろうか。どうも、わたしは心のどこかで、一抹の不安を覚えていたらしい。
 美術館を出て、ふとわたしは、頭上を仰いだ。
 秋色の光が、淡く、ちらちらと、降り注いでいた。
 あのとき、修一くんが暮らしている街の空の下で、彼と同じ光にふれていることが、なにより、わたしは幸せに思えていた。
 
 修一くんが暮らすアパートで、彼のベッドにもぐりこんで、彼の匂いに包まれながら、安らかな眠りについていた、十二歳の誕生日の夜――。
「こっちの大学に通ってみては」
 修一くんにそう促されて、こんな大きな街で暮らすなんてわたしには無理だわ、とかぶりを振っていた、あの日のオープンカフェテラスのベンチ。
 たぶん十二歳のわたしは、いたって幼かったのだろう。
 でも、幼かったわたしが抱いていた淡い感情は、十六歳を迎えたあの秋の日に、かすかながら輪郭を成していたらしく思われる。
 わたしはあの日、独り、立ち止まり、十二歳のときよりはちょっぴり大人になった眼差しで、東京の黄昏時の空を見上げていた。
 そこに、白くてまん丸いお月さまが、ぽっかり、浮かんでいた。
 そのお月さまに向かって、わたしはそっと、つぶやいていた。
「修一くんが暮らすこの街の大学に進学して、きょうのように、この街のお月さまを彼と一緒に眺めながら、新しい暮らしをはじめてみたいと思うんだけど、どうかなあ?」
 と、そのように――。

 
つづく
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み