第16話

文字数 2,879文字



 けっして、わたしは彼らの主張に眉をひそめていたわけじゃない。それより、この幸せなひと時を破る彼らの存在を、わたしは鬱陶しいと思っただけなのだ。深い考えなんて、何もなく――。
 でも最近の周は、わたしの心情に寄り添おうとしてくれない。時間のすれ違いが多い中で、やっと手にした幸せなひと時に、こうして、わたしが浸っているのに、周は、ちっともわたしの心情に寄り添おうとしないのだ。わたしはただ、それが悔しかった……。
 その心の声が、露骨に、顔に表白されているのが、自分でもよく分かった。
 ちょっと待ってよね、とわたしは内心悲鳴に似た叫び声をあげる。勘違いしてるんだよ、周は、というふうに。
 それを、伝えなくては――わたしの中で、柱時計が「ボーン」と低く鳴って、警告を伝える。
 でもそれは、口にしちゃダメだよ、と。
 けれども、もうひとりの自分が、それに抗おうとする。
 こうなったら、いいたいことをとことん言ってやるのよ、と無意識の感情がわたしを烈しく突き動かそうとするのだ。
 するとわたしはもう、無意識のうちに、「違うもん!」と声を荒らげて叫んでいた。
 ゆっくりと流れていた時間。それが一瞬にして、凍りつくのがわかった。わたしたちの周囲だけが、色と音とが消えた灰色の世界へと変わっていた。
 思わぬこの反応に、周は泡を食ったように目を丸くして、二の句が継げないようだった。
 パタパタと硝子窓を叩く、雨音。雨音は、不吉な予兆の旋律――。
 相変わらず、空は雲一つない暖かい色のままで、雨が降る気配などはまるでなかった。だというのに、わたしの耳元で、雨音がする。
 
 
 いままで膨らんでいた幸せの赤い風船。それが、パンっと音を立てて破れてしまう。
「周は、なんにもわかっていないよ。わたしは、周が言ったような理由で、眉をひそめたんじゃないもん!」
 ふと、気がついたら、勝手に、わたしは口走っていた。
「それより、周との幸せな時間を破る彼らに不快感を覚えてたんだよ。彼らが主張をしているのがどうだとかはというのは、全然関係ないもん!!」
 わたしはそこでことばを区切ると、肩でひとつ息をついてから、ふたたび、口を開く。
「だいたい、なによ。滅多に会えないのに、それなのに会ったときには気難しい話ばっかりして……わたしのことなんて全然興味ないんでしょ、周は――」
 何を口走っているのか、自分でもよくわからなかった。
 ただ、口走っているうちに、次第に、目頭が熱くなってきた。
 ふだん、周にこぼしたかった胸のうちに溜まったわだかまり。それが、堰を切ったようにして、唇からこぼれ落ちていた。しかもそれと同時に、頬に冷たいものが伝わった。
 やがてそれは、大粒の雫となって、膝に置いた震える拳の上にこぼれ落ちてきた。
 そんなわたしに、行きかう人々は、好奇の眼差しを向けていることだろう。
 気恥ずかしい――そのような感情は、どこにも見当たらなかった。それより、色んな感情が忙しく滲んだ涙が、とめどなくあふれ出してきた。
 わたしは、伏せた顔を両手で覆って、ただ泣きじゃくるばかりでいた――。


 たぶん周は、行きかう人々に、すっかり途方に暮れた顔つきを見せているのだろう。
 くわえて、おいおい、こんなところで泣くなよ、みっともないから、とでも言いたげな眼差しを、わたしに向けてもいるのだろう。 
 みっともないのは、わかっていた。でも心情としては首を横に振っている自分がいた。
 長閑だった銀杏並木の木の下影のベンチ。けれどその空気は一転して、気まずい気配で満ちていた。
 それに耐えられなくなったか――。にわかに、周が「ごめん」と、ぽつりつぶやいた。
 もう、最低だよ……。
 両手で顔を覆ったまま、わたしは内心つぶやきを洩らす。
「真美、顔を上げて……」
 そう言って、周は、わたしの肩にそっと手を置いた。
 でもわたしは、両手で顔を覆ったままでいた。もはや涙は枯れようとしていた。それでも、覆った両手を離せないでいたのは、こんなふうに泣きじゃくってしまった、その気恥ずかしさがあったから。
 それと、声を荒らげてしまった後ろめたさもあったし、それよりなにより、もう、最低だよ、という、そんなみじめったらしい自分を、両手で覆っていたかった。


 気まずい沈黙が一瞬、二人を包む。
 その沈黙を破って、周が、おもむろに口を開く。
「真美を、俺の世界に引きずり込もうとしすぎたんだな。本当は、私生活に、とくにこういう日に、仕事の話はタブーだというのにな……頭ではわかっているつもりなのに、つい口をついちゃうんだよな。ごめん、わりい」
 それを聞いたわたしの脳裏にふと、戯画的な風景が浮かぶ。困った顔をして、周が頭をかいている、そんな風景が。
 それが、こわばっていたわたしの頬を、ふっとゆるめた。
「もう泣くなよ、真美。ほら、これで涙を拭いて」
 顔を覆った指の隙間から、周が差し出す白いハンカチが覗く。その白い色が、わたしの心に、いじらしさが滲んだ風を吹かせた。わたしはそこでようやく、覆っていた両手を顔から離す。
 そして滲む目で、ふと目の前の風景をぼんやり眺めた。
 涙で滲んだ風景の中には、すでに大きな黒い塊はなかった。さっきまでの喧噪がまるで嘘のように、辺りはシーンと静まり返って、人の影もまばらになっていた。
 周のハンカチで涙を拭う。
 夜の気配の滲んだ風が、頬に残った涙の筋を、冷たく、撫でていく。
 やっと、心が落ち着く。それにつれ、さっき吹いていたいじらしさの風が、どこかに消えていた。代わりに、今度は得体の知れない淋しさの風が吹いて、妙に心を揺らしていた。


  秋の日の夕暮れは早い。都会の街路樹にはすでに、明かりが灯ろうとしていた。
 こんやは、行きつけのイタリアレストランに予約が入れてあった。お互い無言のままで、そのレストランへと足を運ぶ。
 その道すがら、いつものように、周の影を踏みながら、わたしは歩く。けれどこんやは、周の大きな背中を見つめる余裕はまるでなかった。それより、自分の靴先を眺めながら、しゅんと肩をすぼめて、トボトボと俯いて歩いていた。
 ほどなく、レストランに着く。
 楽しいはずの二人のテーブル。そこにはけれど、むしろ気まずい雰囲気が漂っていた。
 いつものように、キャンティで乾杯をした。合わせるグラスの音が、どこか空虚に聞こえる。それが、美味しいはずのワインの味を苦くさせていた。
 コースの料理が次々と運ばれてくる。ぎくしゃくとした時間と、ぎくしゃくとした動きのフォークとナイフの音だけが、二人の間に無機質に流れていく。
 まるで会話は弾まない。そんななか、わたしは食後のコーヒーを苦い味わいで啜っていた。
 結局のところ、あの日の二人はとても、気まずい雰囲気を引きずったままで、「じゃあ、またね……」と別れの挨拶を交わしていた。
 それでも、わたしはあの日、『好き』だという感情さえあれば、きっときょうのことは解消できるはずよ、というふうに、帰りの電車の窓硝子に映り込む自分に言い聞かせていたのだった。


つづく
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