第36話
文字数 2,684文字
しばらくの間、アーケード街をてくてくと進み、やがて、その通りを右に折れる。すると、雷門が、ひょっこり、目に飛び込んでくる。
かつて修一くんの傍らに佇んで、「わあ! おっきい」と思わずうなっていた、ひときわ大きな提灯が吊り下がる、そんな厳然たる門が――。
くしくも、かつて公恵に大学のキャンバスで声をかけられたことで、わたしとこの街の関係は濃密になった。そのおかげで、いまではすっかり目に馴染んだ提灯でもあった。
『雷門』と大書された提灯の前には、様々な国から来日した数多の観光客が蠢いていた。見ると、彼らの多くが自撮り棒を手にして、それぞれが気取ったポーズで撮影に興じているのが微笑ましく目に入る。
それにしても――と、思わずわたしは目を瞠る。
わたしが初めて、修一くんにここに連れてこられてから、かれこれもう十四年もの歳月が流れようとしている。
その当時の賑わいと比べたら、隔世の感があるのだ。いま、わたしの目の前にある、この賑わいぶりは――。
思えば、こんなに観光客が増えたのは、ここ数年のことだった。
それまでは、むしろ閑古鳥が鳴いてた時期も、あったほど。
それが、いまではインバウンドでごった返して、立錐の余地もないほどの賑わいぶりを見せている。
ことに、中国からの観光客の姿が目を引く。メディアは、彼らの豪快な買いっぷりを『爆買い』と称して、その風景を連日のようにニュースで取り上げている。
そういえば――いつか、周と二人で銀座を歩いていたときの景色がふいに、頭をかすめる。
あのとき、彼らの購買意欲の旺盛さを目の当たりにした周が「もはや日本の経済は、彼らの消費を抜きにしては語れないな」と、苦笑交じりに語っていた、その景色が。
くわえて、浅草生まれの公恵の父親が伝法口調で語っていた景色もまた、感慨深く思い出される。
「さすがにこの街には、彼らの『爆買い』ってぇのはねえんだよ。ほら、だって、ここは観光地だろ。いくらなんでも、やつら、そんなにたくさんお土産は買わねえもん。たださ、なんたってこれだけの頭数だ。下手の鉄砲数うちゃ当たるじゃねえが、足し算される日銭は、やっぱ、バカになんねぇのよ、これが」
おじさんはそう言うと、どこか複雑な笑みを浮かべていた。
二人の話を耳にしたわたしは、やや撫然とした表情で、小首をかしげていたものだ。
けれど、それにしたって、なぜ、ずいぶんと古い付き合いの国同士だというのに、お互い反発し合っているのだろう、と訝って――。
「あの国の実態を、この目でたしかめたいんだ」
そんなふうに、周は意気込んで、ある日突然、中国に出張していた。
わたしの知らないかの地の風に吹かれながら、周は、何を目にして、それをどう感じ、そしてまた、何をどうたしかめたというのだろう……。
でもいまのわたしは、その答えを聞く機会すら失っている。
「オウ! アメージング!!」
喧騒のなか、ひとりの異邦人が、突然、やたら大きな歓声をあげた。
どうやら、異国の、ひときわ大きな提灯を見ていたって感動したらしい。
楽しそうだわね――内心つぶやいた瞬間、熱いものがこみあげてきた。
やれやれ――胸の奥から、深く、長い、ため息が洩れる。
とぼんと肩を落として、わたしはうつむき加減で雷門をくぐる。
ふと仲見世通りに目をやる。
日は沈んで、あたりはすっかり暗くなっている。にもかかわらず、通りに軒を連ねる店先には様々な人種の異邦人たちがたむろして、昼間のように、華やいで明るかった。
この通りをしばらく歩いていると、浅草寺の手前で、伝法院通りとぶつかる。公恵の実家は、その通りを左折してほどなくしたところで、お店を構えている。わたしはいま、そこを目指している。
それにしても、仲見世通りは、すごい込みようだった。その雑踏のなかに身を紛らわせようとしたわたしは一瞬、二の足を踏んでしまう。
その人混みをかき分けるのは大変そうだし、なにより、肩身が狭いように思えてしかたなかったからだ。
そんなふうに思ったら、なんだか虚しくなってしまった。
だって、わたしにとって、ここはもはや馴染みのある通りのはず。それなのに、わたしはなぜか、非常に抗い難い、そんな疎外感に苛まれている。
するとわたしは、ふと、既視感を覚える。
そう、これは二度目に公恵の実家を訪れたときに味わった、あのツレなさにどこか似ていた。
わたしはあの日、きょうのように、この通りを、独り、心細く、てくてくと歩いていた。
そのとき、地続きの人たちと同じ地平に立っているのに、なぜかわたしだけがパラレルワールドに紛れ込んでしまったような、そんな居心地の悪さを味わっていた。
公恵と知り合ったわたしは、彼女の実家があるこの浅草に、しばしば、訪れるようになっていた。それもあって、この通りは近ごろ、わたしを優しく向かえてくれている。そこで、わたしは気づいたのだ。
故郷を離れひとりぼっちになったわたしにとって、この街はとても、居心地のいい場所だな、ということを。
ところが、いま、眼前に広がっている空間には、異邦人たちの口から発せられる様々な言語が飛び交い、それが、みょうにこの街と一体感を成している、ように思えて仕方ない。
そしてそれが、あの日と同じ疎外感を、わたしに覚えさせるのだ。まるで自国にいるわたしの方が別の世界に迷い込んでしまったような、そんな疎外感を――。
いまではすっかり馴染みになったはずの仲見世通りを見ながら、わたしは、そういう夢想に耽っていた。
改めて、わたしは仲見世通りに眼差しを投げる。思わず、つぶやく。
きょうは、この通りを行くのはよそう、というふうに。
つぶやいたわたしは、裏路地へと足取りを変える。
一歩足を踏み入れた路地裏は、参道の光が煌びやかなぶん、いっそう闇の深さを思わせた。
ここにも光と影があるんだな――そうつぶやいて、わたしはふと、闇の中へと目を凝らす。
同じく、人混みを避けて来たのだろうか。
それとも、こんな路地裏にも、人知ぬ名店が密かに隠れているとでもいうのだろうか。
視線の先には、スマホに目を釘付けにしているらしく、うつむき加減で大きなキャリーバックを引いている、そんな一人の観光客の姿があった。
静謐な闇のなかでひっそりと沈む裏路地のアスファルト。キャリーバックをコロコロと引く音が、その上で、どこか乾いて響く。
それが、いやおうなしに思い出させる。
またしても、遠い記憶のなかの一編を、切なく、そして何より、忌々しく――。
つづく
かつて修一くんの傍らに佇んで、「わあ! おっきい」と思わずうなっていた、ひときわ大きな提灯が吊り下がる、そんな厳然たる門が――。
くしくも、かつて公恵に大学のキャンバスで声をかけられたことで、わたしとこの街の関係は濃密になった。そのおかげで、いまではすっかり目に馴染んだ提灯でもあった。
『雷門』と大書された提灯の前には、様々な国から来日した数多の観光客が蠢いていた。見ると、彼らの多くが自撮り棒を手にして、それぞれが気取ったポーズで撮影に興じているのが微笑ましく目に入る。
それにしても――と、思わずわたしは目を瞠る。
わたしが初めて、修一くんにここに連れてこられてから、かれこれもう十四年もの歳月が流れようとしている。
その当時の賑わいと比べたら、隔世の感があるのだ。いま、わたしの目の前にある、この賑わいぶりは――。
思えば、こんなに観光客が増えたのは、ここ数年のことだった。
それまでは、むしろ閑古鳥が鳴いてた時期も、あったほど。
それが、いまではインバウンドでごった返して、立錐の余地もないほどの賑わいぶりを見せている。
ことに、中国からの観光客の姿が目を引く。メディアは、彼らの豪快な買いっぷりを『爆買い』と称して、その風景を連日のようにニュースで取り上げている。
そういえば――いつか、周と二人で銀座を歩いていたときの景色がふいに、頭をかすめる。
あのとき、彼らの購買意欲の旺盛さを目の当たりにした周が「もはや日本の経済は、彼らの消費を抜きにしては語れないな」と、苦笑交じりに語っていた、その景色が。
くわえて、浅草生まれの公恵の父親が伝法口調で語っていた景色もまた、感慨深く思い出される。
「さすがにこの街には、彼らの『爆買い』ってぇのはねえんだよ。ほら、だって、ここは観光地だろ。いくらなんでも、やつら、そんなにたくさんお土産は買わねえもん。たださ、なんたってこれだけの頭数だ。下手の鉄砲数うちゃ当たるじゃねえが、足し算される日銭は、やっぱ、バカになんねぇのよ、これが」
おじさんはそう言うと、どこか複雑な笑みを浮かべていた。
二人の話を耳にしたわたしは、やや撫然とした表情で、小首をかしげていたものだ。
けれど、それにしたって、なぜ、ずいぶんと古い付き合いの国同士だというのに、お互い反発し合っているのだろう、と訝って――。
「あの国の実態を、この目でたしかめたいんだ」
そんなふうに、周は意気込んで、ある日突然、中国に出張していた。
わたしの知らないかの地の風に吹かれながら、周は、何を目にして、それをどう感じ、そしてまた、何をどうたしかめたというのだろう……。
でもいまのわたしは、その答えを聞く機会すら失っている。
「オウ! アメージング!!」
喧騒のなか、ひとりの異邦人が、突然、やたら大きな歓声をあげた。
どうやら、異国の、ひときわ大きな提灯を見ていたって感動したらしい。
楽しそうだわね――内心つぶやいた瞬間、熱いものがこみあげてきた。
やれやれ――胸の奥から、深く、長い、ため息が洩れる。
とぼんと肩を落として、わたしはうつむき加減で雷門をくぐる。
ふと仲見世通りに目をやる。
日は沈んで、あたりはすっかり暗くなっている。にもかかわらず、通りに軒を連ねる店先には様々な人種の異邦人たちがたむろして、昼間のように、華やいで明るかった。
この通りをしばらく歩いていると、浅草寺の手前で、伝法院通りとぶつかる。公恵の実家は、その通りを左折してほどなくしたところで、お店を構えている。わたしはいま、そこを目指している。
それにしても、仲見世通りは、すごい込みようだった。その雑踏のなかに身を紛らわせようとしたわたしは一瞬、二の足を踏んでしまう。
その人混みをかき分けるのは大変そうだし、なにより、肩身が狭いように思えてしかたなかったからだ。
そんなふうに思ったら、なんだか虚しくなってしまった。
だって、わたしにとって、ここはもはや馴染みのある通りのはず。それなのに、わたしはなぜか、非常に抗い難い、そんな疎外感に苛まれている。
するとわたしは、ふと、既視感を覚える。
そう、これは二度目に公恵の実家を訪れたときに味わった、あのツレなさにどこか似ていた。
わたしはあの日、きょうのように、この通りを、独り、心細く、てくてくと歩いていた。
そのとき、地続きの人たちと同じ地平に立っているのに、なぜかわたしだけがパラレルワールドに紛れ込んでしまったような、そんな居心地の悪さを味わっていた。
公恵と知り合ったわたしは、彼女の実家があるこの浅草に、しばしば、訪れるようになっていた。それもあって、この通りは近ごろ、わたしを優しく向かえてくれている。そこで、わたしは気づいたのだ。
故郷を離れひとりぼっちになったわたしにとって、この街はとても、居心地のいい場所だな、ということを。
ところが、いま、眼前に広がっている空間には、異邦人たちの口から発せられる様々な言語が飛び交い、それが、みょうにこの街と一体感を成している、ように思えて仕方ない。
そしてそれが、あの日と同じ疎外感を、わたしに覚えさせるのだ。まるで自国にいるわたしの方が別の世界に迷い込んでしまったような、そんな疎外感を――。
いまではすっかり馴染みになったはずの仲見世通りを見ながら、わたしは、そういう夢想に耽っていた。
改めて、わたしは仲見世通りに眼差しを投げる。思わず、つぶやく。
きょうは、この通りを行くのはよそう、というふうに。
つぶやいたわたしは、裏路地へと足取りを変える。
一歩足を踏み入れた路地裏は、参道の光が煌びやかなぶん、いっそう闇の深さを思わせた。
ここにも光と影があるんだな――そうつぶやいて、わたしはふと、闇の中へと目を凝らす。
同じく、人混みを避けて来たのだろうか。
それとも、こんな路地裏にも、人知ぬ名店が密かに隠れているとでもいうのだろうか。
視線の先には、スマホに目を釘付けにしているらしく、うつむき加減で大きなキャリーバックを引いている、そんな一人の観光客の姿があった。
静謐な闇のなかでひっそりと沈む裏路地のアスファルト。キャリーバックをコロコロと引く音が、その上で、どこか乾いて響く。
それが、いやおうなしに思い出させる。
またしても、遠い記憶のなかの一編を、切なく、そして何より、忌々しく――。
つづく