第43話
文字数 2,168文字
公恵とおばさんの顔を交互に、すばやく、眺めた。
この家に、何かのっぴきならない事態が生じているのはもはや、疑う余地もなかった。
わたしの胸のうちに満ちている空気と、この家にのなかに満ちている空気とがピタリ綺麗に重なった――そう思ったとたん、パタパタとガラス窓を叩く雨音が聞こえた、ような気がした。
「お母さんはね……」
おやかな表情で、おばさんは、口を開いた。
「あんたの気持ちを尊重するわ。あんたの好きなようにすればいい、って思ってるの。だって、あんたの人生だもの。いくら親だからといって、あんたの自由をしばる権利なんてないわ。でもさ、お父さんは、ちょっとね……」
おばさんはそう言うと、上目遣いで、いたずらっぽく公恵を見て、それから、ことばをつづけた。
「……とてもじゃないけど、おいそれと承諾しないわよ、あのヒトわね。なにせ、古い考えのヒトだから。一筋縄ではいかない、って母さんは思うの。それに、あんなことがあって、頼るのはもう、あんたしかいないんだからさ……」
あんなこと――そのことばが、妙に、心にのこった。
目の端で、チラリ、公恵をのぞいた。彼女は目をとじて、不機嫌そうな顔で、おばさんの話に耳をかたむけていた。
「それでもさ、あんたがどうしても、自分の好きな道を歩んでゆきたいって言うのなら、逃げてちゃだめよ。それじゃ、いっこうに、埒が明かないもの。どうしてもそうしたいって言うなら、ここで、ちゃんとケジメをつけなくちゃね。だって、血の繋がった親子だもん。運命からは、逃げられないわ……ただ、そうはいってもねえ」
そこでおばさんはことばを区切ると、ほんの一瞬、胸の痛みをこらえるような顔つきになった。
それからおばさんは、壁にかかっているカレンダーを、見るともなくぼんやりと眺めながら、ため息交じりに言った。
「それはさ、あの娘にも言えることなんだけどね……だからといってさ、こうなってしまったら、いまさら何を言ってもしょうがないもんね」
それを聞いていた公恵は「あーあ」と、深く、ため息をついて、「だとしても、なんで、あたしにお鉢が回ってくるかなあ、やってられないわよね」と、半ば捨て鉢気味につぶやいた。
一方のわたしは、この二人のやり取りを聞きながら、はたして、という疑問を覚えていた。
部外者であるわたしが、こんや、この場に居てもいいのだろうか、と。
これからはじまるであろう、公恵一家の愁嘆場を見守っていてもいいんだろうか、とも。
そこまで思いをめぐらせたら、この場から逃げ出してしまいたい、そんな衝動にわたしは駆られていた。
「真美にはね……」
わたしの心のなかを見透かしたかのように、公恵が、つぶやく。
「どうしても、知っておいてほしかったんだ」
え⁈ 何を?
そういう目をして、わたしは公恵に訊く。
ささやくような低い声で、公恵が言う。
「真美は、自分がこんや、なぜ、ここによばれたのか。もちろん、知る由もないし、なにより、腑に落ちないと思うんだ。だって、ウチの事情、しょせん、他人事だもの。でもあたしはね、どうしても知っておいてほしかったの……ウチの店の、いまの現状をね」
伏し目がちのわたしの顔を覗き込んだ公恵が、改まった口調で、言った。
「だって、真実は……わたしの親友だもの」
わたしの親友――思わず胸がじんわりと痛み、その痛みが、心地よくもあった。
それが胸をジーンとさせて、その熱さが、にわかに瞼の裏まで伝わった。
「もしもよ」
公恵が、ちょっと声を高めて言った。
「ある日、浅草にきたついでに真美と周くんが、二人で、ウチの店に寄ったとするじゃない」
周と二人で――その転瞬、胸が鈍くうずいた。そのうずきが、思わず哀愁を誘う。
すると、瞼の裏に伝わった熱さが、しずくになって、頬を伝わりそうになった。その顔を見られたくなかった。だから、どこか遠くを見るようなふりして、目をそらした。
「そのときにね……」
わたしの心の事情に寄り添うことなく、淡々と、公恵はことばをつづける。
「真美が、ウチのお父さんに、公恵、元気にしてますか、って尋ねるとするじゃない。社交辞令として、当然だよね。そうすると、たぶんお父さんはね、ふきげんそうな顔をして、あなたたちによそよそしい態度とるにちがいないの……」
公恵は、わたしの顔を見ていた。彼女は自分に言い聞かせるように、二度ばかり大きくうなずきながら、相変わらず淡々と、ことばをつづけた。
「そんなお父さんの態度見たらさ……きっと目を疑って、二人は、きょとんとするよね。当然だわ。だって、これまで、あんなに優しく接していたのよ。それが、急に、他人行儀な態度をとるんだから……そう思ったら、居ても立っても居られなくなったの。それを回避するには、真美に、ウチにきてもらって、いまの現状を目の当たりにしてもらうのが手っ取り早いんじゃないか、って思ったんだ……ほら、だって、真美も知っての通り、ややこしい事情を説明するのって、あたし、苦手な人じゃん」
そう言って、公恵は、ねっ、と片眼を瞑って、見せた。
そっか、そういうことか――道理で、とわたしはうなずく。
公恵はゆうべ、だから、あんなに強引に、わたしを誘ったのか……電話口で、やけに切羽詰まったような雰囲気を醸し出して、そう思って。
つづく
この家に、何かのっぴきならない事態が生じているのはもはや、疑う余地もなかった。
わたしの胸のうちに満ちている空気と、この家にのなかに満ちている空気とがピタリ綺麗に重なった――そう思ったとたん、パタパタとガラス窓を叩く雨音が聞こえた、ような気がした。
「お母さんはね……」
おやかな表情で、おばさんは、口を開いた。
「あんたの気持ちを尊重するわ。あんたの好きなようにすればいい、って思ってるの。だって、あんたの人生だもの。いくら親だからといって、あんたの自由をしばる権利なんてないわ。でもさ、お父さんは、ちょっとね……」
おばさんはそう言うと、上目遣いで、いたずらっぽく公恵を見て、それから、ことばをつづけた。
「……とてもじゃないけど、おいそれと承諾しないわよ、あのヒトわね。なにせ、古い考えのヒトだから。一筋縄ではいかない、って母さんは思うの。それに、あんなことがあって、頼るのはもう、あんたしかいないんだからさ……」
あんなこと――そのことばが、妙に、心にのこった。
目の端で、チラリ、公恵をのぞいた。彼女は目をとじて、不機嫌そうな顔で、おばさんの話に耳をかたむけていた。
「それでもさ、あんたがどうしても、自分の好きな道を歩んでゆきたいって言うのなら、逃げてちゃだめよ。それじゃ、いっこうに、埒が明かないもの。どうしてもそうしたいって言うなら、ここで、ちゃんとケジメをつけなくちゃね。だって、血の繋がった親子だもん。運命からは、逃げられないわ……ただ、そうはいってもねえ」
そこでおばさんはことばを区切ると、ほんの一瞬、胸の痛みをこらえるような顔つきになった。
それからおばさんは、壁にかかっているカレンダーを、見るともなくぼんやりと眺めながら、ため息交じりに言った。
「それはさ、あの娘にも言えることなんだけどね……だからといってさ、こうなってしまったら、いまさら何を言ってもしょうがないもんね」
それを聞いていた公恵は「あーあ」と、深く、ため息をついて、「だとしても、なんで、あたしにお鉢が回ってくるかなあ、やってられないわよね」と、半ば捨て鉢気味につぶやいた。
一方のわたしは、この二人のやり取りを聞きながら、はたして、という疑問を覚えていた。
部外者であるわたしが、こんや、この場に居てもいいのだろうか、と。
これからはじまるであろう、公恵一家の愁嘆場を見守っていてもいいんだろうか、とも。
そこまで思いをめぐらせたら、この場から逃げ出してしまいたい、そんな衝動にわたしは駆られていた。
「真美にはね……」
わたしの心のなかを見透かしたかのように、公恵が、つぶやく。
「どうしても、知っておいてほしかったんだ」
え⁈ 何を?
そういう目をして、わたしは公恵に訊く。
ささやくような低い声で、公恵が言う。
「真美は、自分がこんや、なぜ、ここによばれたのか。もちろん、知る由もないし、なにより、腑に落ちないと思うんだ。だって、ウチの事情、しょせん、他人事だもの。でもあたしはね、どうしても知っておいてほしかったの……ウチの店の、いまの現状をね」
伏し目がちのわたしの顔を覗き込んだ公恵が、改まった口調で、言った。
「だって、真実は……わたしの親友だもの」
わたしの親友――思わず胸がじんわりと痛み、その痛みが、心地よくもあった。
それが胸をジーンとさせて、その熱さが、にわかに瞼の裏まで伝わった。
「もしもよ」
公恵が、ちょっと声を高めて言った。
「ある日、浅草にきたついでに真美と周くんが、二人で、ウチの店に寄ったとするじゃない」
周と二人で――その転瞬、胸が鈍くうずいた。そのうずきが、思わず哀愁を誘う。
すると、瞼の裏に伝わった熱さが、しずくになって、頬を伝わりそうになった。その顔を見られたくなかった。だから、どこか遠くを見るようなふりして、目をそらした。
「そのときにね……」
わたしの心の事情に寄り添うことなく、淡々と、公恵はことばをつづける。
「真美が、ウチのお父さんに、公恵、元気にしてますか、って尋ねるとするじゃない。社交辞令として、当然だよね。そうすると、たぶんお父さんはね、ふきげんそうな顔をして、あなたたちによそよそしい態度とるにちがいないの……」
公恵は、わたしの顔を見ていた。彼女は自分に言い聞かせるように、二度ばかり大きくうなずきながら、相変わらず淡々と、ことばをつづけた。
「そんなお父さんの態度見たらさ……きっと目を疑って、二人は、きょとんとするよね。当然だわ。だって、これまで、あんなに優しく接していたのよ。それが、急に、他人行儀な態度をとるんだから……そう思ったら、居ても立っても居られなくなったの。それを回避するには、真美に、ウチにきてもらって、いまの現状を目の当たりにしてもらうのが手っ取り早いんじゃないか、って思ったんだ……ほら、だって、真美も知っての通り、ややこしい事情を説明するのって、あたし、苦手な人じゃん」
そう言って、公恵は、ねっ、と片眼を瞑って、見せた。
そっか、そういうことか――道理で、とわたしはうなずく。
公恵はゆうべ、だから、あんなに強引に、わたしを誘ったのか……電話口で、やけに切羽詰まったような雰囲気を醸し出して、そう思って。
つづく