第28話

文字数 2,035文字


「じゃあ、七時にね……絶対に遅れないでよ」
 公恵はゆうべ、くどいほど強くそう念を推すと、わたしひとりを置き去りにして、さっさっと電話を切ってしまった。
「まったくもう、公恵ったら……」
 ひとりぼっちの部屋で、わたしは、ふくれっ面で愚痴をこぼしていた。
 けれどすぐにわたしは思い直す。
 それでも、まあ、久しぶりに公恵とその家族に再会できるんだから、いいんじゃない、というふうに、思い直して。
 そうやって、彼らと再会できる喜びは心のどこかに、たしかに、あった。
 ただ、それと同時に、別の何かが心のどこかでくすぶっていたのもまた、たしか、だった。
 その何かとは――。
 もちろん、周のこと。
 そんなことを思いながら、わたしは電車のドアの窓ガラスにふと、目をやった。
 浮かない眉をひそめて、ひどく冴えない顔つきをしているわたしが、うっすらと映り込んでいる。
 こんな顔で、公恵の店の暖簾はくぐれないわよ。
 わたしは内心自分にそう私語いて、窓ガラスに映り込む自分の頬を、無理やり、ゆるめた。
 
 金曜日の地下鉄の車内は帰宅途中のサラリーマンやら、数多のエトランゼやらが渾然一体となって、ひどい混みようだった。
 吊革にぶらさがる帰宅途中のサラリーマン。
 居心地の悪い職場のくびきから逃れられた解放感からか、しだらなく、ネクタイと頬とをゆるめている。
 あるいはまた、何がそんなに詰まっているのか、やたら大きなキャリーバッグを、それも二つも手にしたエトランゼ。
 彼らは、オリエンタル気分を満喫した笑みと、今日一日の疲れが滲んだ笑みとを、その面持ちに入り交じらせていた。
 そんな、彼らの傍らでは疲れを知らない子どもたちが、屈託のない笑みを浮かべて無邪気にはしゃいでいる。
 みんな楽しそうだな。
 唇だけ動かして、わたしはそっとつぶやく。
 人種のサラダボウルさながらの車内は、普段の日の通勤列車とはまるでちがった、週末特有の雑然とした空気で満ちていた。
 ことに、未知の世界を冒険しているエトランゼは、彼らが放つ一種独特な匂いで、ありふれた日常を過ごすわたしたちを、無意識のうちに、圧倒している。
 そうした彼らの空気に触れていたらふいに、わたしの胸が鈍くうずいた。
 来し方の自分の姿――ふと、眼前の彼らと、それが綺麗にぴったりと重なったからだ。
 そう、かつてわたしも、この街ではエトランゼだった。
 修一くんに連れられて、初めて浅草へと向かう電車のなか――。
 そのなかで、エトランゼのわたしも、たぶん彼らと同じように、屈託のない笑みを浮かべていたのだろう。
 けれど、いまのわたしは、ちがう。
 わたしはいま、この街から疎外されて、独り、孤独感に苛まれる日々を送るのを余儀なくされている。
 いまのわたしの瞳には、エトランゼが放つ陽性の光は宿っていない。それよりむしろ、うつろな陰性の光が宿ってさえいる。
 
 窓ガラスにうっすら映り込む自分を見て、わたしは夢想する。
 もしも、あの日のわたしがこの電車の中で、現在(いま)のわたしと遭遇したら、なんて言うだろうか、ということを。
 たぶんあの日のわたしは、現在のわたしにこんなふうに言って、首をひねるのではあるまいか。
「なぜ、数年後のわたしは楽しいはずのこの街で、ひどく冴えない顔つきをしているの?」
 尋ねられたわたしは、あの日のわたしに、憐憫に似た苦い笑みを浮かべて、こう返すのにちがいない。
「あのね、現実の世界には『おとぎの国』なんてなかったんだよ……それが現実の救いなさみたい」
 
 車内の喧騒にまぎれて、そんな感傷に浸っていたわたしの意識が、突然、ある会話をキャッチした。
「それにしても、あの蕎麦屋が閉店したのは、残念だったよなあ」
 わたしの意識はなぜか、「閉店」という単語に敏感に反応して、その会話に吸い寄せられていた。
 慌ててわたしは、その声の方に一瞥をくれる。
 週末の夜に羽を伸ばそうとする、会社帰りのサラリーマンとおぼしき三人連れ。年のころは、一見三十代半ばらしく、スーツを清楚に着こなしている。
 彼らの会話に興味をそそられたわたしは、その声の方に少し身体をよじって、そっと耳をそばだてる。
「ああ、藤田屋な」
 それを受け取った、なかんずく背の高い彼が口を開いて、こうつづける。
「そういえば、俺たち、ランチのときはいつも、あの店だったよなあ」
「うん、そうそう。路地裏にあるちょっと古めかしい感じの店だったけれど、それでいて清潔感があってな……家庭的な雰囲気があって、安くて美味い蕎麦を食わせてくれるいい店だったけどなあ……」
「まったく。でもさ、けっこう流行ってるように見えたんだけど、それがまたどうして、いきなり店を閉めることになっちゃったんだろうな」
「そこなんだよなあ……親父(オヤジ)さんが、いきなり、来月で店を閉めるんですよ、って寂しそうに言ったときは、みんな啞然としてしばらくことばを失っていたもんな……」
 そこで彼らの会話が、いったん、途切れてしまった。


つづく

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