第38話

文字数 3,125文字


 中学二年生の夏休み――自宅のほど近くにある瀬戸の内海の浜辺に、クラスの男子と女子数人とで海水浴に行くという日があった。
 泳ぎ終えて、帰宅の途についた、その道すがら――。
「岡田さん、ちょっといい?」
 だしぬけに、わたしは、ひとりの男子から声をかけられていた。
「え⁈  なに?」
 けげんそうな顔をして、わたしは、その子に訊いた。
「ちょ、ちょっと話があるんだ……」
 はなし? なんだろう。
 みんなから離れて、わたしたち二人だけで、ふたたび、浜辺に戻った。
 陽は傾きかけていた。茜色の陽の光が、凪の水面で、ちらちらとゆれていた。美しい残照だった。
 その陽の光も手伝ったらしい。可笑しいほど頬を真っ赤に染めて、彼はぎこちない口調で、こう言った。
「あ、あのう……ボ、ボクとおつき合いしてくれませんか」
 初めて異性に、そう告白された、あの夏の日――ひぐらしの鳴き声が、やけに喧しかったのを、いまでもくっきりと覚えている。
 たぶんわたしは、すっかりうろたえて、あんぐりと口を開けていたのだろう。
 なにしろ、しばらく呆然として口も利けずにいたのだから……。
 それでも、ほどなく、ハッとわれに返ったわたしは「ご、ごめんなさい」と、おずおず言って、深々と首を垂れていた。
 わずかな間のあとで、おもむろに首を挙げたわしは、いま思い出しても驚くほどたしかな口調で、「わたし……好きなヒトがいるので」ときっぱりと断っていた。
 好きなヒト――いまにして思えば、それは無意識のうちに口をついたことばだった。
 そのときわたしは、改めて、自分の想いを自覚し、認識したのだった。
 やっぱり、わたしは、修一くんのことが好きなんだなあ、というふうに――。
 
 それ以来の一途な恋だった。
 高校二年生の修学旅行で、ふたたび、訪れた上野の杜。修一くんが暮らす街で、彼と同じ空を見上げていた、あの秋の日――。
 あのとき、わたしは空に浮かぶ、白い、まん丸いお月さんを見上げながら、こうつぶやいていたものだ。
 この街で、修一くんと、あのお月さまをずっと一緒に見上げていたいなあ、と。
 時間が経つとともに、わたしのなかで、どんどん、その想いは膨らんでいった。もはや、抑えきれないほど、いたって大きく――。
 それを契機として、東京の大学に、わたしは進学したのだった。
 
 遂に、修一くんが暮らす街に旅立つ日――故郷の東京行きの駅のホーム。
 そこで、憮然とした表情で見送る祖母に、少なからず後ろ髪を引かれながらも、わたしはなんとか、その気がさすような心持ちをねじ伏せて、乾坤一擲、のるかそるか新幹線に身を任せた。
 動き出す車窓の向こうで、伏し目がちに力なく手を振る祖母――いかにも無念そうなあの横顔が、いまでも、瞼の裏にくっきりと焼きついている。
 そんな祖母を、心底ふびんに思った。だから、あの横顔を思い出すたびに、いまも、胸が痛い。
 そういう紆余曲折があって、ようやっとたどり着いた、この街だった。それなのに――。
「真美ちゃんに、俺、謝らなきゃいけないことがあるんだよ」
 着いて早々、修一くんが、ぶしつけに、そう切り出していた。さらにくわえて、いかにもバツが悪そうな顔で、彼は、こうも言うのだった。
「俺ね、メキシコに行こうと思うんだ」
 そればかりじゃない。彼はあの日、それ以上に残酷な事実を、意地悪く、こう告げたのだ。
「大事なヒトがね、この話を了承してくれたんだ……だからね」
 
 メキシコに、修一くんが旅立つ日――成田空港の出発ロビー。
 はからずも、修一くんが先日、小料理屋さんで口にしていた「大事なヒト」――その彼女を、彼はあの日、わたしに紹介したのだった。
 そっか、修一くんはこういうタイプのヒトが好きなんだ……。
 ショックだった。ほら、だって、わたしとは真逆のタイプの女性だったのだから、それはなおさら。
 わたしの初恋はその日、テレビのドラマさながらに、後ろ手で搭乗口に消えていく修一くんの後ろ姿とともに、冗談のように脆く、儚く、消え去っていた。
 この街に来た目的。なにより、この街での心の拠り所――。
 そういった大切なものを、わたしはあの日、一瞬にして喪失してしまっていた。
 成田空港から自宅に帰る、その電車のなか。
 車窓にうっすらと映りこむ、ひどくさえない顔つきをした自分に向かって、わたしは、こうつぶやいていた。
「これから、わたしはいったいどうしたらいいのよ……」
 車窓に映りこむわたしの顔はあの日、涙で、滲んでゆれていた。
 
 そんな過去の苦痛の思い出を振り返りながら歩いていると、ようやく、仲見世通りと交差する伝法院通りにたどり着く。
 雨はすっかり上がっていた。灰色の雲の切れ間から、うっすら、月明かりさえ見えていた。
 伝法院通りを左折して、しばらく歩く。すると、公恵の実家のもんじゃ焼き屋さんの看板の灯りが、淡く、ほのかに見えてくる。
 そのとたん、なぜか、わたしのなかでこみあげてくるものがあった。
 
 どんよりと曇った空。あの日は、気が滅入るような雨が街をひっそりと濡らしていた。その雨に煙る大学のキャンパス――。
 わたしはその日、打ちひしがれた思いを胸に、キャンパスの一角に設えられた掲示板のポスターを、かなり長い間、うつむき加減で虚ろに眺めていた。
 そのときだったのだ。はからずも、背後から、公恵に声をかけられたのは――。
 思えば、あの出会いがあったからこそ、わたしはこの街で、ひとりぼっちのさびしい心が道に迷っていた状態から抜け出すことができたのだ。しかもそのおかげで、わたしはいま、こうして、この街を、悠然と、歩くことさえできている。
 
 それにしても、あれだわね――つくづく、わたしは思ってしまう。
 こうしてみると、人生って皮肉で満ちてるもんだなあ、と。
 かつてわたしは、母にすげなく命じられて、古めかしい、やたらだだっ広い屋敷で、独り、心細く留守番するのを余儀なくされていた。
 冷たい冬の雨が屋敷をひっそりと濡らしていた。寒さと、ひとりぼっちのさびしさに、わたしは、たただひたすら怯えていた。
 そんなふうに、不遇をかこつわたしを、修一くんの優しさがあの日、ふんわりと包み込んでくれていた。
 そのいとおしい修一くんを慕って、わたしは、この街にきたのだった。だというのに――。
 よすがのないこの街に着いて早々、わたしは、彼の旅立ちと同時に彼の婚約者の存在さえも知らされた。
 絶望に打ちひしがれて喪家の狗のごとく、独り、ぽつんと掲示板の前に佇んでいた、あの雨の日。その雨に煙る大学のキャンバス――。
 その因果が、ゆくりなく、わたしと公恵を巡り合わせていた。わたしは、だから、つい皮肉を思ってしまう。
 しかも、その僥倖の巡り合わせのおかげで、わたしは、周とも巡り会えていたのだ。
 だとしたら――柄にもなく、わたしは思ってしまう。
 皮肉だと思っていた、その事実の欠片たち。
 ひょっとしたら、それらは全て、何かに導かれた必然だったのかもしれないな、というふうに。
 
 そんなことに思いを巡らせていたら、やっと、公恵の実家のもんじゃ焼き屋さんの、その入り口の扉の前にたどり着く。
 それを開けようとして、わたしはふいに、その手を止める。いったん、呼吸を整えようと思ったからだ。
 ひとつ肩で息をついて、ふと、頭上を仰いだ。見ると、街明かりが、やけに滲んで目に入る。
 やれやれ――力なく首を振って、人差し指で、目尻をそっと拭う。
 こんなしけた顔じゃ、お店に入れないよ。
 自分にそう私語やいたわたしは、あえて積極的に、相好を崩す。
 そのうえで、わたしは手にぐっと力を込めて、入り口の扉を開けた。 

 
つづく
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