第4話
文字数 1,985文字
あれはたしか、昨年の梅雨のころだった。
そのとき、めずらしく、お互いの時間が共有できそうな週末があった。
「フェルメールが来てるって言ってたよね?」
周からの電話に、思わずわたしは「それって、一緒に観に行けるってこと」と弾んだ声で訊いていた。
実はわたし、かねて前売り券を二枚買って、そのときがくるのをいまかいまかと待ちわびていたのだ。
前日の夜、街は、灰色の空から落ちてくる冷たい雨にひっそりと沈んでいた。
パタパタと硝子窓を叩く雨音は不吉な予兆の旋律――。
わたしはその夜、ベランダに吊るしたてるてる坊主を見上げて「雨が降っても構いません……ただ、周に急用が出来ないことだけをお願います」と必死になって手を合わせていた。
その願いが叶ったのかどうかは定かではない。が、あの日は周に急用が入ることもなく、無事、フェルメールを堪能することが出来た。
上野の杜の美術館――。雨の中にたたずむ紫陽花が、鬱蒼とした新緑に映えていた。その風景が瞼の裏というより、心のヒダにくっきりとはりついている。
フェルメールを観終わった、その日の帰り――幸せな気分に浸りながら、わたしは周の部屋にいた。
「これ、こないだ先輩に勧められて飲んだんだけど、すごく美味しかったんだよ」
帰途についた道すがら、デパートに寄って、周が口にする赤ワインのキャンティを買った。
「キャンティというのは、イタリアのトスカーナ州にある町の名なんだ。そこで規定通りに製造されたワインだけが、その名を使用して販売できるんだ」
周とつき合いはじめて、わたしは、彼から教わることばかりだった。そのころは嬉しかった。でもいまは、あんまり嬉しくない。知らないことを教われば教わるほど、周が遠い存在になってしまうような、そんな気がするからだ……。
リビングルームに設えた革張りの白いソファーに腰を据えて、赤いワインが注がれたグラスを二人で合わせた。
「乾杯しよう」
「何に?」
「もちろん、二人の未来にさ」
あの夜、そういう歯の浮くような気恥ずかしい会話はなかった。それでも、つき合いはじめた頃の二人は、そういった言葉だって、なんのためらいもなく、いや、むしろ、あえて積極的に口にしていたように、思う。
ところで、いまのわたしたちは、いったい、何に乾杯するの――そうした疑問を頭に思い浮かべながらも、わたしは周の肩に頬を寄せているそのひとときが、すごく、いとおしいと思った。
だからーーさらに、思った。もっともっと、きょうのような時間を作ってよ、周、というふうに。
あの日の夜もテレビの画面には、ニュース番組が映し出されていた。
それを観ていた周が、ため息交じりにつぶやいたことばも場面ーーそれが、何かの映画の一場面のように、わたしの脳裏に蘇る。
「俺さ、この街に流れてるニュースを観ていると、いつも思うんだ」
また、何か難しい話がはじまるのだろうか。わたしはあの夜、周の肩からそっと頬を離して、そういう眼差しを、やけにまつ毛の長い彼の横顔に投げていた。
でも周は、そんなわたしを置いてけぼりにして、滔々と話をつづけるのだった。
「どんなふうに思ってるかっていうと、東京のテレビが伝えるニュースって、結局のところ、この街を中心にした視点でしか伝えていないってことをね。これは、ちょっとうがちすぎかもしれないけれど、ニュースの作り手たちはこの街以外のことにはあまり関心がないんじゃないのか、って思っちゃったりするんだよね……どう、真美もそう思わない?」
そんなふうに、話を振られたって――内心、わたしは苦い顔をして首を横に振る。
そうじゃない。そうじゃないんだって、周。わたしは、もっと気軽な話がしたいんだってば、と。
久しぶりの二人の貴重な時間。なのに、そういう時間ほどあっというまに過ぎていく。退屈な時間は、あんなに長く感じられるというのに……。
大学を出て出版社に勤務するようになった周は最近、こうして二人でいるとき、時事ネタばかりを口にするようになった。
政治や経済や世界の話。残念ながら、わたしは、その手の話に疎い。だから、そういう話を深掘りされると、一瞬きょとんとしてしまう。
大学時代、友人から、はじめて周を紹介されたとき、かつて想いを寄せていた男の人の面影と近しいことに気づいて、わたしは驚いた。
それからというもの、わたしは、周が受けている講義の時間に合わせて、その教室の辺りをうろちょろするようになっていた。
なにげないおしゃべりの中で、この人はわたしとものの感じ方の温度や視点の高さが同じだと知って、すごく、嬉しかった。
二人の時間を幾つか重ねていくうちに、わたしは、この
つづく