第1話

文字数 1,873文字

 
 きのう、空から降り注いでいた陽の光は、あきらかに春を思わせていた。
 きょうはけれど、その太陽も灰色の雲の向こう側に顔を隠して、空からは、気が滅入るような冷たい雨が落ちている。
 雨垂れが、硝子窓に幾何学模様を織りなし、外の景色を滲んで見せている。
 もうじき、桜の開花が告げられようとしているのに、季節は、人の心の事情に寄り添うことなく、むしろ冬の寒気を呼び戻してすらいる。
 ふう~ 冷えるわね――思わず、吐き出した白い呼吸《いき》に身体を震わせたわたしは、慌てて、しまっておいた暖房器具を引っ張り出した。
 暖かいぬくもりが、ようやく、部屋を満たしてくれる。わたしはそこで、娘の長い黒髪を梳かしながら、硝子窓の向こう側を複雑な面持ちで眺めている。

 かつてわたしは、雨の日が嫌いではなかった。

 ひっそりと佇む庭の木々の葉を叩く雫が奏でる旋律。
 漆黒の闇の中で街灯に照らされ硝子の破片のように煌めく雫。
 昨日までの営みで淀んでしまった空気を清爽なまでに洗浄してくれる匂い。

 それぞれが、子どもながらにいとおしく感じられたものだ。
 ただ、幼い日のわたしの趣きは、あくまで居心地の良い安全な場所から、硝子の向こう側に四角く切り取られたそれらを、ぼんやりとうかがい知るところにあったと思う。
 たとえばそこは、きょうのように暖かいぬくもりのある部屋の中からであったり、あるいは、暖かい祖母の膝の上からであったりした。
 とりわけ、祖母の膝の上からうかがい知る雨模様には趣があったと思う。たぶん彼女が聞かせてくれる絵本のおはなしが、さながら子守唄のように耳に触れて、いとおしさをより深めてくれたからだろう。
『雨にぬれたまいごのこいぬ』
 絵本の中にあったおはなしのその一つを、わたしは、神様からの贈り物と信じて、今でもくっきりと記憶している。
 こんなおはなしだった。
 
 雨にぬれたまいごのこいぬ
 
 わたしがくらしているまちに  くらいそらから  つめたい雨がおちています。こいぬがいっぴき  わたしの目のまえを  その雨にぬれながら  とぼとぼ  とぼとぼとあるいていきます。
 つめたく ほそい雨は  まるでこいぬの涙のようです。かなしげな涙が  くらいそらから  しとしと  しとしととおちてくるのです。
 このこいぬにも  きっとかいぬしさんがいたのにちがいありません。ほら だって こいぬは  くびわをつけているのです。なのになぜ  まいごになったのでしょう……。
 じぶんで  にげだしてきたのでしょうか? それとも  かいぬしさんに  すてられてしまったのでしょうか……。もし  そうだとしたら  とてもかなしいことです。
 それをおもうとき  わたしのひとみからは  このつめたい雨のように  涙があふれてきそうになるのです。でもわたしには  どうすることもできません。
 わたしは  こころの中でそっとつぶやきます。
 ごめんね。わたしのおうちでは  おまえをかうことはできないんだよ。だれかやさし人に  はやくひろわれるといいんだけど……。
 わたしのこころにも  つめたい雨がふります。
 わたしは  くちびるをかみしめ  くらいそらをあおぎ  こわいめをしてにらむのです。
 雨をふらして  こいぬをいじめるのは  もうやめて おねがい、と。
 でもつめたい雨は  くらいそらから  しとしと  しとしととふりやまないのです。
 雨にぬれたまいごのこいぬは  そんなわたしのおもいをしってかしらずか  とぼとぼ  とぼとぼとどこかにむかって  あるいていくのでした。
 
「まみは、この仔犬のように迷子になってはいけんよ」
 このおはなしを、し終わった後の祖母の私語《ささや》きが、今でも、耳の奥というより、心の底にずしり重く沈んでいる。
 なのに、ある日突然、安全な場所で雨宿りをするわたしを、窓の向こう側にある冷たい世界へと誘おうとする人がいた。
 いまにして思えば、そこは居心地が良くもあり悪くもあるという、相反する二つの要素が同居する不思議な場所でもあったのだけれど。

 きょうは、娘の12歳の誕生日。
 彼女も、何かの意志に導かれるように、いま、未知の世界へと誘われようとしている。
 振り返れば、わたしの人生は、因果はめぐる風車ーーのようなものだったと思えてならない。はたして、彼女には、どのような因果の風が吹くというのだろう。
 もちろんその答えは、いまは誰も知る由もない。
 ただ、きょうのこの雨は、わたしたちの新しい物語がはじまる、その予兆らしく思われていた。


つづく
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