第9話

文字数 3,029文字


昨年の秋の日の風景
 
 
「それにしても、あれだね」
 いたずらっぽい目をして、周が笑う。
「真美とのデートにしては、ずいぶんといい天気になったもんだね」
 久し振りに見る爽やかな笑顔。
「ほんとにね……」
 それなのに、うなずいたわたしはなぜか、中途半端な笑みを浮かべてしまう。
 それにしても――周の言葉を反芻して、わたしはふと、空を見上げる。
 たしかに、見上げた空には、周の笑顔に似た、爽やかな小春日和の青さが広がっていた。
「それにしても、本当にいい天気だね」
 思わずわたしはつぶやいてしまう。
 追いかけて、両手を空に突き上げ、わたしは「うーん」と声に出して、大きく背伸びをする。
 どうも、素敵な天気というのは、人を幸福な気分にさせるらしい。周に揶揄されて、戸惑っていたわたしの笑みは、たちどころに、素直な笑みへと変わっていた。
 ふたたび、それにしても、がわたしの頭をよぎる。
 それにしても、周との約束を、昨日の土曜日にしなくて良かったなあ、と。
 なにしろ街は昨日まで、どんよりとした灰色の空に覆われ、それが、冬の気配を滲ませた冷たい雨を降らしていたのだから。
 わたしにとって、雨音は、不吉の予兆の旋律――。
 わたしは昨夜、雨を降らす天を見上げながら、ベランダに吊るしたてるてる坊主に、懸命に、手を合わせていた。
 めずらしく、それが、天に通じたのだろうか。不吉な旋律は今日、わたしの耳にふれることはなかった。
 それが、わたしの心を、この雨に洗われた空気のように清々しくさせていた。
 昨日までの営みで淀んでしまった空気。それを、清爽なまでに洗浄してくれる、雨。わたしはかつて、雨をいとおしいとさえ思っていたものだった。
 久しぶりに、今日一日だけは、たっぷり、二人の時間が共有出来る。
 そんな日だからこそ、ほんとうに晴れてくれて良かった。何かいいことがある、そんな今日だったらいいのに――。そういう思いを胸に、わたしはいま、周の傍にいる。
 
 
 千駄ヶ谷駅を降りたわたしたちは、銀杏並木通りを目指して、ちょうど、いま流れている時間のように、ゆっくりとした足取りで歩を進めている。
「へえ、跡形もなくなっちゃったな」
 ふいに、周が足を止めてつぶやいた。わたしも立ち止まり、周が送っている視線の先に目をやった。
 見ると、わたしは違和感を覚えて、思わず「あれ?」と首をかしげていた。
 少し考えてから、わたしは「あ、そっか」とうなずく。かつて、そこにあったはずの何かが、いまは、きれいさっぱりになくなっていることに。
 今年のお正月、周と二人で観戦した、サッカーの天皇杯。
「ここ、けっこう高かったんだぜ」
 周がお金を払って取ってくれた正面スタンドの席。そこに、二人で肩を並べて腰を据え、大きな歓声をあげた、あの競技場――。
 そう、国立競技場が跡形もなく、無くなっているのだ。
 都会で暮らしていると、とかく、このような場面に出会うことがある。
 いつも歩いている通り。その通りに面した見慣れた風景。
 そんな通りを歩きながら、ある日突然、うん⁈ と違和感を覚えて、はたと立ち止まってしまうことがある。
 いったい、この違和感は、何?
 そんなふうに、首をかしげてみて、ああ、そうだった、ここには以前、何かのビルが建っていたんだ、と気づかされる。  
 それと同時に、あれ、どんなビルだったっけ、と記憶の糸を手繰り寄せてもみる。けれど、いっこうに、浮かび上がってこない、その輪郭。あのときのなんともいえない寂寥感。その、はがゆいばかりのもどかしさ――。
 それが、自分の記憶がいかに曖昧で不確かなものだかをいやおうなしに教えて、さらに寂寥感が募ってしまう。
 がしかしその一方で、情緒不安定気味のわたしの心には併せて、別の感情が芽生えてもいる。
 ここには、次にどんなビルが建って、どんなお店が入るのだろうという、わくわくとした感情が――。
 そんなわたしだから、周に「そういえば、ここには新しい競技場ができるんだよね」と、あっけらかんと訊いている。
「うん。でも、いま決定しているデザインのままだと費用が掛かり過ぎるって、けっこう揉めてるんだけどね」
 ため息交じりに、周が言う。
 たしかに、そんなニュースが連日、世間を騒がせていた。
「五輪までには、間に合うのかしら」
「それは大丈夫だと思うんだけどね。たださ……」
「ただ、な―に?」
「え、うん……」
 力なくうなずいた周は眉をひそめて、口をつぐんだ。
 工事現場のフェンスの隙間から、取り壊された競技場の、その後先の原っぱが、わびしく見える。
 周が、そこに尖った眼差しを向ける。わたしも周に真似て尖った眼差しを作り、次のことばを待つ。
「色々とさ……」
 周が、重たい口を開く。
「……思うところはあるんだ。けれど、ここで、それを語りはじめちゃったら、それこそ夜が明けてしまう。だから、簡単に言うけどさ、要は、いったい、だれのための五輪なのか、ってことを思ってるんだ」
「いったい、だれのための五輪?」
「そう、真美はどう思う?」
「わ、わたし……」
 わたしは言いよどむ。昔から、ややこしいことを考えるのは苦手だ。それだけに、気の利いた言葉がすぐに、わたしの口をつくことはない。なんのことはない、つくのは、ため息ばかり。
 それでも、ないながらも、わたしは知恵を絞って、とりあえず、こんな感じかな、と思いついたことを口にしてみる。
「難しいことは、よくわかんないわ。だけど、参加する人たちのためのものじゃないのかなあ、ってわたしは思うんだけどね……」
 舌足らずなわたしは、自分の思いを他人に伝えるのがとても、不得手。なので、思いついたことばを、ただ懸命に伝えてみた。
「うん。俺もそう思うよ」
 そう言って、周がうなずいてくれたので、にわかにわたしの心が弾む。
「五輪を目指す人。出場して、未来をつかんでその先に進もうとする人。そういった人たちのものであってほしいと、俺は思うんだ」
 うなずいた周が、はにかんだように笑う。わたしが大好きな笑顔。最近、時々覗かせる、あの冷めたような微笑とは、真逆な――。
 思わず、わたしは頬をゆるめて、周の腕にわたしの腕を絡ませる。
 風が、周の髪を、ふわり、優しく揺らしていった。
 
 
 
「たむら  しゅうといいます」
 初めて紹介された日、周は、はにかみながら、そう挨拶した。
 しゅうの、しゅうは――そう言って、周は、人差し指で宙に文字を描いて、「周りの、周です」と教えてくれた。
「周りの人たちに優しい心遣いが出来る人になってほしい――そういった思いを込めて、祖母が、付けてくれた名前なんだ」
 はにかみながら、うれしそうに言っていた、あの日の周だった。
 周の優しさに触れると、いつも、あの日の笑顔を思い出す。
 まちがいなく周は、名付け親のおばあちゃんが願っていたような、大人に育った。周りの人たちに優しい心遣いが出来る、そんな素敵な大人に――。
 それは、とりもなおさず、わたしにはもったいないくらいの人だということでもある。
 ことに、周は最近、この国のこと、ここで暮らす人たちの未来のこと、そんなところまで、眼差しを、遠く、広く、注いでいる。もちろん、それはそれで素敵なことだ、とわたしは思っている。
 でも――と、わたしは心密かに願うのだ。
 お願いだから、周の眼差しは、わたしだけに向いていてほしい、というふうに。身勝手かもしれないけれど……。
 
 
つづく
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