第5話

文字数 2,333文字

 
 学生時代に過ごしただれにも邪魔されないひととき。いまは、それがとてもいとおしくてたまらない。
 旅行や音楽や映画鑑賞――お互いが共有する価値観の話を、カーテンを透かして朝日が二人を包むまで、屈託なく語り合った日々が、いまにして思えばとても懐かしい。
 とくにわたしの好きな絵画の話しには、優しい笑顔で耳を傾けてくれた、そんな周だった。
「素敵だったね、ゴッホの『ひまわり』」
「うん。すごく感動したよ」
 わたしはあの日の夜も、大学時代のように、昼間見てきたフェルメールの話を、たくさんしたかったのだ。
 『真珠の耳飾りの少女』
 光と影を巧みに操ってキャンバスの上に表現するフェルメール。彼の絵画の話を、もっとたくさん。なのに、周ときたら……。
 それでも、まあ、貿易商社の経理部に勤めるわたしは、為替のレートに関する話題にだけは、普通の女の子たちよりも、ちょっぴり詳しくなっていた。
 そこで、時々、周の気を引こうとして「輸入が専門のうちの会社は、この円安はかなりこたえてるって、課長が言ってたわ」と、わざとらしく渋い顔を作って、そんな話題を口にする。
 すると、水を得た魚のように周は「輸出の会社が光だとすると、輸入の会社は影だからなぁ」と滔々と応える。それで、二人の話しは弾む。もちろん、嬉しい。
 同い年の二人だから、お互いが就職して三年目ということになる。それぞれが、それぞれの職場にも慣れてきて、任された仕事がちょうど面白くなってきたころだ。
 とりわけ、いまの周は自分の担当するページをもらったとかで、最近とみに張り切っている。だから、社会の出来事には人一倍関心を寄せてもいる。
 それは手放しで喜ばなければならないことだと、頭ではわかっている。でも、心情としては割り切れない思いを持て余している自分がいる。
 光と影――。
 周の唇からこぼれおちた言葉。わたしは、その言葉を聞いて難しい世情よりも、どちらかというとフェルメールの絵画に思いを寄せてしまう。
 そういうわたしだから、周のお硬い話しでは気分は満たされずに、心のどこかで淋しさを抱いていた。
 
「それはさ、この街は政治や経済や文化の中心だよ。なんたって、この街は国の首都だからさ」
 周はあの夜、わたしの想いなど歯牙にもかけず、テレビの画面に目を凝らして饒舌に語っていた。
「だから、この街に拠点を置くキー局の、そのニュースが必然的にこの街中心になることぐらい理解してるよ。でもさ、キー局のニュースって全国にも流されているわけじゃない。たとえば、この街に台風がくるとか大雪が降るとかというと、さもそれがこの国の一大事とばかりに、やたら大げさに全国に伝えている。地方で暮らす人には無縁のことなのに、この街の情報をいやおうなしに共有させられてしまうんだ」
 周は、そこで言葉を区切ってワイングラスに手を伸ばすと、つまらなさそうな顔をして喉を潤した。
 お酒で、ほんのり赤くなった横顔。女の子のように長い睫毛。その下にある研ぎ澄まされた眼差し――そこには、いつもの屈託のない笑みを浮かべておしゃべりをする周はいなくて、どこか大人びて、ちがう世界の住人のような周がいる。
 一方で、そんな周を、ただ複雑な眼差しで眺めているだけで、なんら気の利いた言葉をかけれない、そんなわたし。
 気難しそうな眼差しをテレビに向けたまま、周は、言葉をつづけた。
「たまに、東京で大きな地震があったりすると、すぐに地方の知人からメールが届くんだ。『大きな地震があったみたいだけど、大丈夫?』ってね。全国に流れたこの街の情報を、ぼくの知人も共有してる。それはそれでありがたいことなんだけど、でも一方で、俺はその知人が暮らす土地の事情は何も知らないんだ。だって、この街で彼らの土地の情報が伝えられるのって、よっぽどの大事件が起きたときとか、あるいは、よっぽどの大災害が起きたときぐらいのものじゃない――」
 そこで周はグラスに、ふたたび手を伸ばそうとして一瞬、逡巡した。なぜなら、わたしのグラスが空になっているのに気づいたからだ。周はそこで、その手をワインのボトルの方に伸ばし直した。
 わたしのグラスに、赤い色の液体が注がれていく。
 それをぼんやりと眺めていたら、わたしはふと、遠い昔の記憶を思い出していた。  
 実家の古めかしい屋敷の縁側でグレープジュースを飲みながら、硝子窓の向こう側にある雨の風景を眺めていた幼いころのわたしを。
 たぶんそれは、赤い色の液体を眺めていたせいだけではないのだろう。むしろ、周が口にした「地方の知人」という、その言葉がそうさせていたのではないか、と思う。
 振り返れば、地方にいたころのわたしは、テレビ画面に映し出させる東京の景色を、さながら『おとぎの国』のような憧れを持って、眺めていた。
 そう、かつてわたしも、「地方の知人」の一人だったのだ……。
「そんな知人がさ、たまに上京してくるとき、いま、真美に語ったようなことを話してみるんだ。それを聞いて、彼は素直にうなずくんだ。『そうだね。この街の人たちに、地方の情報なんて届いていないよね。最近地方創生なんて言葉が叫ばれてるけど、それってそれだけ地方は疲弊してるってことの裏返しみたいなもんだもんね』ってね。俺はね、今の雑誌でそれを伝えたいと思ってるんだ。大都市と疲弊した地方の光と影――そういった問題をクローズアップしてね」
 あの夜、周の話を聞いていたわたしは、彼が口にした言葉ーー疲弊した地方、という言葉に胸が鈍くうずいていた。
 周に隠している心の事情。
 後ろめたい心の風景。
 閉ざされた空間に、なぜか雨音が聞こえた。
 パタパタと硝子窓を叩く、あの不吉な予兆の雨音が――。


つづく
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