第6話

文字数 2,663文字

 故郷の風景  その二
 

 今年の初めのことだった。
 おばあちゃんは何とかという難しい病名を患った結果として、右半身に後遺症が残ってしまった。もっとも、母さんは「ふだんの生活にはさして支障をきたさないから、まあ、不幸中の幸いだったわ」と、ホッとした口調で言っていた。
 ただ、交通の便が悪い、どこか遠くの場所――それは、たとえばおばあちゃんが通っている病院だったりとかするのだけれど、そういう処に行くときは必ず、母さんが運転する車に乗って向かっている。
 おばあちゃんの主治医は、かなり腕が立つともっぱら評判。ただ、そこの病院までは、あいにく距離があったし、何より交通の便が悪かった。したがって、そこに向かうときはどうしても、母さんの世話にならざるを得なかった。
 
 実はおばあちゃんはきょう、定期検診の日だった。なので、これから母さんの車に乗って、病院へと向かう。
 おばあちゃんが通院する日で、しかも学校がお休みのときは、わたしもおばあちゃんと一緒に母さんの車に乗って病院に行くのが常だった。
 それなのに、どうしてだか、「まみはきょう、お留守番」と母さんににべもなく言われた。それも、怖い顔をして、きつく。
 どうしてよ……そうやって、わたしはぶうたれたし、さっぱり合点がいかなかった。ただ、驚いたのは「あたしもまみと一緒で、内心ぶうたれとる」と、おばあちゃんがこっそりわたしに耳打ちしたことだ。
 たしかに、おばあちゃんと母さんは血の繋がった親子なんだけど、なぜか、とても仲が悪った。それで、事あるごとにけんかばかりしていた。
 仲が悪い母さんの世話になるから、おばあちゃんはぶうたれてるの、というふうに、わたしはストレートに訊いてみた。
 すると、おばあちゃんは「うん、そう」と、あっさりと白状した。
 さらに、おばあちゃんは浮かない眉をひそめて「けれど、それにしたって、あれじゃね」と、ため息交じりに、こうつづけた。
「世の中ってのは、なかなかうまくいかんもんじゃね」と。
「え、なにがうまくいかないっていうの、おばあちゃん?」とわたしが眉根を寄せて訊くと、おばあちゃんは、こう返した。
「ヤブな医者は近くにたくさんおるんよ。でも、腕のいい医者ほど遠くにしかおらんのんよ。だから、うまくいかんっていうんよ。まったくもって、世の中ってのは皮肉なもんよね」
 おばあちゃんに、そうぶうたられてしまったわたしは「ふーん、そういうもんなんだ……」と適当にうなずくしかほかなかった。だって、世の中がうまくいかないっていうのは子ども心にもなんとなくわかったんだけど、皮肉っていう言葉の意味がさっぱりわからなかったんだもの。
 
 ところが、そんなおばあちゃんも不思議なことに、外出するときは愚痴をいつも、心の倉庫にしまうように心がけている。そればかりじゃない。
 外出先で、だれか顔見知りの人に出会って「おばあちゃんは、いい娘さんを持って幸せですねぇ」なんて声をかけられたりすると、「そうなんですよ。いい娘を持って幸せなんですよ」と澄ました顔で微笑んでいる。
 それを、傍らで聞いている母さんも「わたしもいい母親を持って幸せなんですよ」と、聞いているこっちが赤面するようなセリフをずうずうしく並べ立てている。
 そんな場面に遭遇するたびに、わたしはきょとんとし、「大人ってすごいなぁ」と内心苦笑を洩らしていた。
 
 ****
 
『雨にぬれたまいごのこいぬ』
 わたしが幼いころ、祖母の膝の上で聞いていた、絵本の中のおはなしだ。
 疲弊した地方――周の言葉が、かつて雨の音と一緒に聞いていた、その絵本の題名をふと、蘇らせていた。
 お話をした後にきまって、祖母がつぶやく言葉があった。
「まみ、雨の日はお外に出ちゃいけんのんよ。この仔犬のように迷子になって、びしょ濡れになっちゃうからね。そういう日は、暖かい居心地のいい部屋にいて、硝子窓の向こう側の風景を見てればいいんよ。わかったね」
 でもそれとは真逆なことを言う人もいた。
「この疲弊した地方での暮らしに、まみはこだわらなくていいの。都会に行けばたくさん仕事があって、色んな暮らし方が出来るわ。だから、うんと勉強して、先ずは東京の大学に進学するの。わかったわね」
 この疲弊した地方――そう、母の声だ。母はなぜか、自分の故郷を語るとき、その言い方に棘があった。理由はずいぶん後になって、わたしは知ることになる。
 もっともわたしは幼いころ、母が口にする『疲弊した地方』――には、少なからず抵抗を覚えていたように、思う。
 父はその言葉を耳にして、どんな表情を浮かべていただろう。
 そうですね、おばあちゃんの言うとおりですね、だったか、それとも、うん、母さんの言うとおりだな、だったか――。
 たぶん父は、おばあちゃんと母さんに気を使っていたのだろう。
 どちらかを選べば、選ばれなかったどちらかが傷つく。それを、知っていたのだ。
 そんな父は、疲弊した地方の実家に、どういう思いを馳せていたんだろう。
 とにかく、存在の薄い父だった。恐らくは、養子だという引け目があったのだろう。そういう存在だったから、父の記憶は、どこか霞がかってぼんやりとしている。
 母さんの意志通りに大学進学で上京してきたわたしは、学生時代にたった一度帰省しただけで、実家にはそれ以降、とんとご無沙汰だ。
 父の存在が希薄だったからこそ、いまでは、その存在がすごくいとおしくて懐かしい。
 父はどんな思いで、一人娘の旅立ちを見ていたんだろう。そしていまは、どういう眼差しをこのわたしに向けているんだろう。それを、わたしがたしかめる日は、いつか来るのだろうか……。
 わたしは母の意思に従った。それは、とりもなおさず、祖母の大反対を押し切ったということでもある。そして、わたしは、この街に来た。
 故郷を離れるときの、祖母のあの哀しげな眼差し。どうして、居心地のいいこの家を出ていくんだ、と訴えていた眼差し。

『雨にぬれたまいごのこいぬ』

 こいぬは  くびわをつけているのです。
 どうして  まいごになったのでしょう……。
 じぶんで  にげだしてきたのでしょうか?

 絵本の中の(くだり)がふと、わたしの頭をよぎる。
 わたしには、周に語っていない秘密がああった。
 故郷の風景。実家の父のこと。母の意志。祖母の想いを裏切ってしまったこと。それと――。
 とにかく、その後ろめたさが、わたしの心に小さな棘となって刺さっている。
 それが日常のふとした瞬間、鈍くうずくことが、わたしには、ある。


つづく
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み