第48話
文字数 2,651文字
沈黙の気まずさに耐えきれなくなったわたしは、やむなく、眼差しを公恵に戻した。
で、どうなの?
公恵の目が、そう訊いている。
「も、もちろん、わかるわよ」
わたしはうなずいて、ことばをつづける。
「ほ、ほら、だって、わたしたちは……自由だもんね」
わたしはそう言って、口が酸っぱくなるのを感じた。だって、わたしはまだ、自由とわがままのちがいが、よくわかってなかったからだ。
ただ、それを聞いた公恵の目が、いくぶん和んだ。それで、なんだかわたしも、少し、元気がでたような気がした。
けれど、そう思ったのも束の間。ふいに、胸が鈍くうずいた。
「それにしても、跡取りとかはいなかったんだろうか……」
公恵の実家にくるとき、電車の中で、乗客の口の端に上っていたことば。
それは、わたしの胸に痛く突き刺さることばだった。その痛みに、わたしはうろたえてしまう。
「四年だけ、四年だけでいいのよ」
だれかのつぶやきが聞こえる。
そうだ、これは母さんのつぶやき。
はからずも、東京にきて、周と出会った。
結果として、祖母との約束を反故にしてしまった。わたしには、そのうしろぐらさが、少なからずあった。
跡取り――そのことばが、思わずよみがえらせる。故郷で、本屋を営むお父さんの姿を。
周りの店のほとんどことごとくがシャッターをおろし、いわゆるシャッター通りと化してしまった、故郷の駅前のアーケード街――。
そこで、負けてなるものかと、独り気を吐いて、けなげに仕事に勤しむお父さん……。
寡黙で、誠実で、ナイーブな人だった、わたしのお父さんは。
それだけに、彼が、その想いを表白することは、けっしてなかった。あくまでも、ただ寡黙に、淡々と、仕事に勤しんでいた。
わたしは、そんなお父さんが好きだった。もっともそれは、故郷にいるとき、面と向かって一度も口にしたことはなかった。だから、いまにして思えば、ということに、過ぎないのだけれど……。
ところが、母さんは、そんなお父さんに、物足りなさを感じているようだった。彼女はいつも、どこかつれない態度で、お父さんに接していた。
思春期に、そんな二人を見て育ったわたしは、人生って皮肉で満ちているなあ、とつくづく思ったものだ。
さっき、車内で、サラリーマンの男子たちが口にしていたお店は、たしか、この都会の路地裏で店舗を構える、お蕎麦屋さんのようだった。
つまり、跡取り問題は、地方だけではなく、この都会でもかなり深刻のようだ。
少子化にくわえて、三田教授が講義のときに語っていた、実存主義を認識した現代人の、価値観の多様性。
それが、従来の基準や規範のくびきから現代人を解き放ち、すっかり世界は自由になってしまったみたい。
実際、わたし自身がそうなのだから、他人のことをとやかく言えた義理ではない。
そこに持ってきて、SNSの台頭――。
「たしか、岡田さんとこって、娘さんがいたわよね」
いつの日か、シャッターで閉ざされた、お父さんが営む本屋。そこに貼り出された、閉店の知らせを告げる、A4判の白い紙切れ。
それを見た近所の人たちが、ひそひそ、とささやきあっている。
「いたわよ……でも東京にいったきりで、お店を継ぐ気はまったくないんだって」
「ふーん、そうなんだ。いまの世の中は、親は親、子は子、っていう割り切ってた風潮だもんね……でもさ、近所に本屋さんがなくなると、ちょっと不便になるわよね」
「たしかに……でも、あれよ。いまの若い子って、もっぱらネットで購入しているようだから、存外、そうでもないかもよ」
近い将来、お父さんが営む本屋も、そやって噂される日が、やってくるのだろうか?
そしてまた、それに似た現実が、ここ、公恵の実家でも、いままさに起きようとしている。
「結局、家を飛び出したきりで、一度も、戻ってなかったんだよねえ、あいつ……」
ついさっき吸ってたのに、公恵はまた、タバコに手を伸ばしている。それに、例のライターで火をつけると、口をすぼめて強く吸い込んだ煙を、あいつということばとともに天井に向かって、勢いよく、吐き出した。
灰皿には、火をつけたと思う間もなく押しつぶされたタバコの吸殻が、無造作に、何本も転がっている。
それを、うつろな眼差しで眺めていたわたしは、ふと思う。
彼女の心の中にあるわだかまり。それを灰皿に、無理やり、ねじ伏せているみたいだな、と。
「今年はさあ、ウチで開催していた、毎年恒例の新年会をパスしちゃったでしょ。頭の隅っこに、それが、妙に引っかかっていてね。いつものように、あんたたちが、ひょいと店に寄ったら、って思うとね。だって、あんたたちに、お父さんがどういう反応を見せるか。考えただけでも、ゾッとするもの」
おととしまでの、わたしたちだったら、たぶんそれは、ありえたのだろう。でもこのお正月にかぎっては、それどころの騒ぎではなかった。
それで、いくぶん上の空で「そうだね……」と発した声は、どこか空虚なものになっていた。
うん⁈ どうした?
そんな表情を浮かべて、公恵がわたしをチラ見する。
けれどすぐに眼差しを前に戻すと、彼女は眉をひそめて、ことばをつづけた。
「母さんからも、何度か連絡があったんだ。このまま、うやむやにはできないよ、ってね。もちろん、わかっていたわよ。でもさ、なんたって年度末。仕事に追われて、なかなか時間が取れなかった……ただ、浩介が、すごく心配していてね。お父さんに望まれない結婚なんて、到底、俺には考えられない、なんて言っちゃったりしてさ。だから、いつか、はっきりさせなきゃって思ってた。それが、こんやだったってわけ。悪いとは思ったんだ。でもどうしても、真実には知っておいてほしかった……」
公恵はそう言うと、わたしに顔を向けて、ちらり舌を出して肩をすくめた。
やれやれ――ため息交じりに、わたしは内心つぶやきを洩らす。
といって、結局、憎めないんだようなあ、と。
するとまさにそのとき、柱時計が「ボーン、ボーン」という不気味な音を立てて、八時、ちょうどを告げた。
ドキッとして、肩がピクンと跳ね上がる。
のみならず、階下から、どし、どし、という足音までもが聞こえてきた。まるで心で持て余している感情を、一歩ずつ踏み潰すような感じで。
これから、この部屋で繰り広げられるであろう、愁嘆場――それを想像して、わたしは、いますぐにでもこの場から逃げだしたい、そうした衝動に駆られていた。
つづく
で、どうなの?
公恵の目が、そう訊いている。
「も、もちろん、わかるわよ」
わたしはうなずいて、ことばをつづける。
「ほ、ほら、だって、わたしたちは……自由だもんね」
わたしはそう言って、口が酸っぱくなるのを感じた。だって、わたしはまだ、自由とわがままのちがいが、よくわかってなかったからだ。
ただ、それを聞いた公恵の目が、いくぶん和んだ。それで、なんだかわたしも、少し、元気がでたような気がした。
けれど、そう思ったのも束の間。ふいに、胸が鈍くうずいた。
「それにしても、跡取りとかはいなかったんだろうか……」
公恵の実家にくるとき、電車の中で、乗客の口の端に上っていたことば。
それは、わたしの胸に痛く突き刺さることばだった。その痛みに、わたしはうろたえてしまう。
「四年だけ、四年だけでいいのよ」
だれかのつぶやきが聞こえる。
そうだ、これは母さんのつぶやき。
はからずも、東京にきて、周と出会った。
結果として、祖母との約束を反故にしてしまった。わたしには、そのうしろぐらさが、少なからずあった。
跡取り――そのことばが、思わずよみがえらせる。故郷で、本屋を営むお父さんの姿を。
周りの店のほとんどことごとくがシャッターをおろし、いわゆるシャッター通りと化してしまった、故郷の駅前のアーケード街――。
そこで、負けてなるものかと、独り気を吐いて、けなげに仕事に勤しむお父さん……。
寡黙で、誠実で、ナイーブな人だった、わたしのお父さんは。
それだけに、彼が、その想いを表白することは、けっしてなかった。あくまでも、ただ寡黙に、淡々と、仕事に勤しんでいた。
わたしは、そんなお父さんが好きだった。もっともそれは、故郷にいるとき、面と向かって一度も口にしたことはなかった。だから、いまにして思えば、ということに、過ぎないのだけれど……。
ところが、母さんは、そんなお父さんに、物足りなさを感じているようだった。彼女はいつも、どこかつれない態度で、お父さんに接していた。
思春期に、そんな二人を見て育ったわたしは、人生って皮肉で満ちているなあ、とつくづく思ったものだ。
さっき、車内で、サラリーマンの男子たちが口にしていたお店は、たしか、この都会の路地裏で店舗を構える、お蕎麦屋さんのようだった。
つまり、跡取り問題は、地方だけではなく、この都会でもかなり深刻のようだ。
少子化にくわえて、三田教授が講義のときに語っていた、実存主義を認識した現代人の、価値観の多様性。
それが、従来の基準や規範のくびきから現代人を解き放ち、すっかり世界は自由になってしまったみたい。
実際、わたし自身がそうなのだから、他人のことをとやかく言えた義理ではない。
そこに持ってきて、SNSの台頭――。
「たしか、岡田さんとこって、娘さんがいたわよね」
いつの日か、シャッターで閉ざされた、お父さんが営む本屋。そこに貼り出された、閉店の知らせを告げる、A4判の白い紙切れ。
それを見た近所の人たちが、ひそひそ、とささやきあっている。
「いたわよ……でも東京にいったきりで、お店を継ぐ気はまったくないんだって」
「ふーん、そうなんだ。いまの世の中は、親は親、子は子、っていう割り切ってた風潮だもんね……でもさ、近所に本屋さんがなくなると、ちょっと不便になるわよね」
「たしかに……でも、あれよ。いまの若い子って、もっぱらネットで購入しているようだから、存外、そうでもないかもよ」
近い将来、お父さんが営む本屋も、そやって噂される日が、やってくるのだろうか?
そしてまた、それに似た現実が、ここ、公恵の実家でも、いままさに起きようとしている。
「結局、家を飛び出したきりで、一度も、戻ってなかったんだよねえ、あいつ……」
ついさっき吸ってたのに、公恵はまた、タバコに手を伸ばしている。それに、例のライターで火をつけると、口をすぼめて強く吸い込んだ煙を、あいつということばとともに天井に向かって、勢いよく、吐き出した。
灰皿には、火をつけたと思う間もなく押しつぶされたタバコの吸殻が、無造作に、何本も転がっている。
それを、うつろな眼差しで眺めていたわたしは、ふと思う。
彼女の心の中にあるわだかまり。それを灰皿に、無理やり、ねじ伏せているみたいだな、と。
「今年はさあ、ウチで開催していた、毎年恒例の新年会をパスしちゃったでしょ。頭の隅っこに、それが、妙に引っかかっていてね。いつものように、あんたたちが、ひょいと店に寄ったら、って思うとね。だって、あんたたちに、お父さんがどういう反応を見せるか。考えただけでも、ゾッとするもの」
おととしまでの、わたしたちだったら、たぶんそれは、ありえたのだろう。でもこのお正月にかぎっては、それどころの騒ぎではなかった。
それで、いくぶん上の空で「そうだね……」と発した声は、どこか空虚なものになっていた。
うん⁈ どうした?
そんな表情を浮かべて、公恵がわたしをチラ見する。
けれどすぐに眼差しを前に戻すと、彼女は眉をひそめて、ことばをつづけた。
「母さんからも、何度か連絡があったんだ。このまま、うやむやにはできないよ、ってね。もちろん、わかっていたわよ。でもさ、なんたって年度末。仕事に追われて、なかなか時間が取れなかった……ただ、浩介が、すごく心配していてね。お父さんに望まれない結婚なんて、到底、俺には考えられない、なんて言っちゃったりしてさ。だから、いつか、はっきりさせなきゃって思ってた。それが、こんやだったってわけ。悪いとは思ったんだ。でもどうしても、真実には知っておいてほしかった……」
公恵はそう言うと、わたしに顔を向けて、ちらり舌を出して肩をすくめた。
やれやれ――ため息交じりに、わたしは内心つぶやきを洩らす。
といって、結局、憎めないんだようなあ、と。
するとまさにそのとき、柱時計が「ボーン、ボーン」という不気味な音を立てて、八時、ちょうどを告げた。
ドキッとして、肩がピクンと跳ね上がる。
のみならず、階下から、どし、どし、という足音までもが聞こえてきた。まるで心で持て余している感情を、一歩ずつ踏み潰すような感じで。
これから、この部屋で繰り広げられるであろう、愁嘆場――それを想像して、わたしは、いますぐにでもこの場から逃げだしたい、そうした衝動に駆られていた。
つづく