第35話
文字数 1,995文字
「去年の秋ごろのことだったんだけどね……職場の上司から、俺、こう言われたんだよ。山田くん、うちのメキシコ工場にしばらくの間行ってくれないか、ってね」
ええ!! メキシコ⁈ そんな遠いところに――内心、わたしはそう思って、気が動転するのだった。
もっとも、わたしは地理にからきし疎い。なので、それが地球のどこにあるのかはそのとき、判然としなかったのだけれど……。
「すっかりうろたえてしまったよ。だって、寝耳に水のことだったからね……そればかりじゃない。何より、真美ちゃんのことだってあるし、そして何より、ほかにも解決しなきゃいけないことがあったんだ……なので上司に、少し考えさせてください、ってお願いしたんだ」
修一くんはそう言うと、グラスに注がれたビールをいっきに飲み干し、ふうー、とアルコールの滲んだ息を苦そうに吐き出していた。
たぶんわたしはそのとき、すっかりうろたえて、能面のように、血の気のひいた白い顔をしていたのだろう。
「もちろん、真美ちゃんのお母さんにも、電話で相談したよ」
え! そ、そうなの……。
わたしは心中穏やかでいられなかった。
だって、そんなこと一言も、母から聞いてなかったのだから。
「あたりまえのことだよね……なんたって真美ちゃんは俺を頼って上京してくるわけだし」
わたしは震える手で、空になった修一くんのグラスにビールを注ぎながら、「そ、それで、母は、なんて言ったの?」と少し咎めるような口調で訊いていた。
「おばさんはね、それは困ったわねえ……って、ほんとうに困ったような声でつぶやいてた。そりゃあ、そうだよね。おばさんにとっては、梯子を外されたようなものだもん……」
修一くんはそう言うと、ひりついた喉を潤すかのように、ビールを啜った。
その上で、「でもね……」と言って、次のようにつけ加えたのだ。
「そのとき、おばさん、こう言ってくれたんだ。メキシコに赴任したら、社内での貴方の評価が上がるんじゃないの、って。たしかに、上司から、そんなことを言われてるって返したら、だったら、このチャンスを逃す手はないわ。おばさんにも真美にも、貴方のチャンスの芽を摘む権利なんてないんだから、ってね」
この急な展開に、わたしはあの日茫然自失になって、二の句が継げないでいた。
「修一くん……そう、東京には修一くんがいるわ。きっと彼が、東京での真美の暮らしを応援してくれるはずだわ」
母が、祖母にそう言っていたのは、たしか、わたしが東京にくる前年の春だったと思う。
だとすれば、むろん母はそのとき、修一くんがメキシコに行くことは知らなかった。なら、そのときは仕方ないにしても、少なくとも前年の秋以降は、彼がメキシコに行くことを母は知っていた。それなのになぜ、わたしに、それを教えてくれなかったのだろう……。
もちろん母が言う通り、わたしに、修一くんの出世の芽を摘む権利などあるはずもない。それは、十分理解していた。
してはいたが、はたして母に、その事実を教えないという権利があっただろうか。いや、むしろ、親として、すべからくそれを伝えるべき義務が彼女にはあったなずだと、わたしには思えてならない。
母と、そして何より、修一くんに対する怒りがふつふつと湧き上がったわたしは「それで?」と、尖った声で、彼の次のことばを促していた。
「そ、それでね……」
おずおずと修一くんは口を開くと、ビールが注がれたグラスに手を伸ばして、それを一気に煽った。その余勢をかって、修一くんは「ほかにも相談しなくちゃいけない大事なヒトがいてね……そのヒトに相談したら、こう言ってくれたんだ。むしろ、行くべきよ。大丈夫、ニ三年ぐらいのことでしょ。それだったら、わたし待つわ、ってね」
言い終えた修一くんの頬が、にわかにほころんでいたのを、わたしは見逃さなかった。
それだけに、大事なヒトって、なによ、とわたしは舌を打ちたい気分でいた。
「彼女がそう言ってくれたおかげで、俺、腹をきめることができた。メキシコに行こうってね。それで先日、上司に了解の旨を伝えたってわけなんだよ……」
修一くんはそう言うと、テーブルに両手をついて、そういうわけだから、もうしわけない、と深々と首を垂れるのだった。
そ、そんなあ――思わず、わたしは絶句していた。
そうして、いまに、至っている。
そういうことがね、おばあちゃん、東京にきてすぐにあったんだよ。ちょっとひどいと思わない……。
あの日、流した涙はもう、すっかり乾いてしまった。
ただ、修一くんが深々と首を垂れていたあの日の姿が瞼の裏にくっきりと焼きついて、いつまでたっても、消えてくれないのが、ただひたすら腹立たしくてしょうがない。
というわけで、この街にくると、修一くんの面影が脳裏にいやおうなしに現れて、思わずわたしをうろたえさせるのだった。
つづく