第17話

文字数 1,704文字

 
 長い夢想から、ハッとわたしはわれに返る。
 テレビの画面の中にはまだ、雨に濡れた若者たちの姿があった。それで、長いと思っていたのも、実は短かったのだと、わたしは知る。
 昨年の秋の日に、彼らはつむじ風のように突然現れたかと思うと、わたしの幸福な時間をいやおうなしに奪っていった。
 そればかりじゃない。彼らは、この世界にたしかなつながりなどどこにもないという現実を、理不尽ながらも教えてくれた。

 社会人になったわたしは、自分を取り巻く環境が激変したことにとても、戸惑っている。
 学生時代は、会いたいときにいつでも連絡を取れたし、「ねえ、周。いま、ダリが来てるんだけど、観に行きたいなあ」と甘えることもできた。でもいまは、あの頃のように自由にはいかなくなっている。
 それより、いまは「時間のすれ違い」という不確かな環境の中で、どちらかが何かを我慢し犠牲にして、どちらかが共有された価値観の微妙なズレを調整しながら、愛を繋ぎ止めていかねばならない。
 たぶんその「どちらか」は、わたしなのだろう。
 なにしろ、周は日々の仕事に追われて、それどころの騒ぎではないからだ。上司の指示にしたがって、得意と失意とを胸に抱えながら、休む間もなく、列島を股にかけて行き来している。
「得意は取材がうまくいったときで失意は、その反対。今は失意のほうが断然多いけどね」
 苦笑交じりに、そう言って頭をかく周の顔がふと、脳裏に浮かぶ。
 その上、最近では「今度取材で、中国の深センに行くことになったよ」と、忙しさの中に海外出長までもが足し算されている。

 いまは、上司から与えられた仕事をコツコツとこなすことで、上司の信頼を勝ち取り、会社での評価を上げていく時期なのだろう。
 それは、とりもなおさず、周の人生の中でもっとも重要な季節にさしかかっているということでもある。もちろん、それはよくわかっている。
 それぐらいのことさえ気づかない女なんて、周の彼女でいられる資格などない、というふうに、他人にも言ってきたし、自分にも言い聞かせてきた。
 でもそれは、単にわかっていたつもりで、ほんとうはわかってはいなかったということを、わたしはわかっていなかったのだ。
 はからずも、昨年の秋の日、画面の中にいる若者たちが、それを教えてくれた。だからといって、彼らはけっして悪くない。彼らは、ただの石ころにすぎない。わたしは、「彼ら」という石ころに躓いてしまっただけなのだ。
 石ころというのは、きっかけとしてのメタファー。
 たぶんわたしはあの日、柱時計が「ボーン」と警告音を鳴らし、不吉の予兆を告げているのに気づいていたのだろう。
 にもかかわらず、それに抗って感情の赴くまま、胸のうちにくすぶっていた不満を爆発させていた。
 もっとも、きっかけとしての石ころは、彼らだけではないようなのだ。
 それは、形や姿や大きさを変えて、道のあちらこちらに転がっている。それだけに、いずれわたしは、それに躓く因果でいたらしい。
 周の言う通り、わたしは、現実から目を逸らしていたのかもしれない。いや、むしろ、不条理の傍らを黙って通りすぎてすらいたのかもしれない。
 そういうわたしに比べると、彼らの方がよっぽどましではないかということを、いまさらながらに、わたしは気づいている……。
 
 何気なく、わたしはテーブルの端っこに目をくれる。見ると、洗濯されアイロンをかけられた白いハンカチが、綺麗にたたんであるのが目に入る。
 あの日、周に手渡されたハンカチだ。返そう返そうと思って、いまにいたっている、そんなハンカチでもある。
 ジッと見ていると、なんともいえず甘酸っぱい何かが胸にこみ上げて、それが、白いハンカチをかすかに滲ませる。
 いけない、いけない――かぶりを横に振って、わたしはハンカチから目を離し、ふとテレビの画面に視線を転じる。
 相変わらず、雨に濡れた若者たちの姿が、そこにはあった。わたしは、わざとらしく、目をゴシゴシとこすって、彼らに向かって、ぽつり、つぶやく。
「あの日、わたしたちだけでもそっとしておいてくれたらよかったのに……エゴイズムかもしれないけどね」
 
 
つづく
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