第46話

文字数 3,279文字

 
「あいつさ――逃げちゃったんだよね」 
 あいつさ、ということばを、いかにも憎々しげに、公恵は言った。 
 あいつ――それが、公恵の姉の和美さんであることは、かなり鈍感なわたしにも、容易に想像がついた。 
 おそらくは「あいつ」が公恵一家をのっぴきならぬ事態に陥れた、まさに、その張本人だったのだろう。 
 
「あいつって……和美さんのこと?」 
 わざわざ訊くまでのことはない、とわかっていた。けれど、あえて彼女の名前をことばにしないと、この話しは、これ以上先に進めない。わたしには、なぜか、そう思えてしかなかった。
 カチッ――。
 またもや、ライターの音。 
 目の端で、公恵をチラリ覗く。
 さもふてくされたように、椅子の背もたれにだらしなく身体を預け、吐き出す煙に乗せて、ふう一と大きく息をついている。
 その煙草の灰を、公恵は大義そうに、ガラスの灰皿に落とした。それから彼女は、ポツリとつぶやいた。 
「去年のいま頃のことだったんだよね……」
  去年のいまごろ――それにしても、とわたしは、いまさらながらに思う。
 ずいぶんとご無沙汰しちゃったなあ、と苦笑交じりに。
「たぶん真美は、顔馴染みじゃなかったと思うんだ。たまに、一人で、ふらりと店に寄って、カウンターに腰を据えて食事をしていく、田所さんっていう男の人はね。そうだなあ、年のころは、三十をちょっと過ぎたくらいだったかなあ……」
 田所……記憶の糸を手繰り寄せる。その名前と一致する男の人の顔は、やはり、思い浮かばなかった。 
「無口なヒトでね……いつもカウンターの端っこに座って、難しそうな本を読んでたの。頭のよさげな、一見学者然とした感じの人だったわ。ほら、うちって、オーガニック野菜を栽培している農家さんと契約してるじゃない」
「うん、そうだったね」
 間髪を入れず、わたしはうなずく。
「その野菜を使った料理も、この店の売りの一つだもんね」
  わたしはそう言うと、視線を、公恵の横顔に移した。 
「その人さ、どうも、それがお気に入りだったみたいでね……それをつまみにして、黒霧島のお湯割を、独り、ちびちびやっていたわ」 
 ひょっとして、その男と和美さんができちゃった? その結果として、この家を飛び出しちゃった? 
「そうなんだよねえ……」
 まるでわたしの胸のうちを覗いてきたかのように公恵はつぶやくと、口をすぼめて、煙草を強く吸った。 
「家族はさ」
 煙草の煙が苦いのか、あるいは、その事実が苦いのか。いかにも苦々しそうに、公恵は、ことばを継いだ。
「誰も気がつかなかった。二人ができちゃってるってことをね。あの勘の鋭い母さんでさえ、全然気づかなかったって言うんだもん。だとしたら、父さんなんて尚更だよね……」 
 皮肉口調で、そう言った公恵の表情が、やっといつもの、彼女らしい顔つきになっていた。 
 
「その田所さんがさ」
 公恵が、淡々と、ことばをつづける。
「転勤で、京都に行くことになったっていうのは、母さんも知ってたらしいの。それが、去年のいまごろの話よ。田所さんが京都に転勤しちゃった三日後に、あいつ、家を飛び出しちゃったのよね。最初は、誰も状況が掴めないでいたらしくてね……お父さんなんか、捜索願を警察に出せって、母さんに怒鳴って言うのよ」 
「そこで、勘のいいおばさんが、気づいたってわけ?」 
「そういうこと。母さんが、『田所さんと一緒?』ってメールしたら、『ごめんなさい』って一言だけ、あいつから返信があったんだってさ……」 
 その後の、おじさんが大変だったという。 
 店なんて、やってられねえ。俺が、京都に行って和美を探し出す。見つけたら、縄に縛りつけてでも家に連れ戻してやる――そう言って、きかなかったらしい。 
 京都の何処にいるかわからないのに、無駄足になるのにきまってる。だから、およしなさい――そう言って、おじさんをなだめるのに、おばさんは一苦労したそうな。 
 だからといって、おじさんが、おいそれと諦めきれるはずもない。 
 怒りのやり場に困ったおじさんは、浅草中の飲み屋を歩き廻り、そこで、誰彼かまわず愚痴をこぼした挙句の果てに、体調を崩して、しばらく寝込んでしまったのだと。 
 不謹慎ながら、それを聞いたわたしは、にわかにほほをゆるめていた。 
 どうやら、こういう場面では、出て行く側も出て行かれた側も、結局のところ、女の方が度胸が座ってるってことね、そう思って。 
 
 和美さんが、ホールを元気に駆け回っていたころの姿が、なんともいえず懐かしく思い出される。 
 何年前だったか、おじさんが「和美がさ、婿養子を向かい入れて、この店を継いでくれるって言いやがってよお」と、顔をくしゃくしゃにしながら言っていた。あの顔が、わたしは、いまでも忘れられない。 
 そんな和美さんに、どのような心境の変化があったというのだろう? 
「ところで、真美はさ、出された料理の中で好きな食べ物は一番最後に残しておく、そういうタイプだったよねえ」 
 急に、話題が変わった。 
 わたしは一瞬、それに戸惑い、けげんそうな表情を浮かべて、公恵の横顔をチラ見する。
 わけもなく、故郷の祖母の顔が一瞬、そこに重なる。
 ああ、そういえば――ふいに、遠い昔の記憶が頭をかすめる。
「そうよ、わたしはね。それで、幼い頃、よく祖母にたしなめられたもんだわ。みっともないからやめなさいって、渋い顔をされてね」
 自分から話しを振ったくせに、公恵はわたしのことばなど歯牙にもかけず、マイペースで、話題を進めていく。
「あたしは、その逆なの。ほら、あたしって、やたらせっかちな性分じゃない」
  そう言って、彼女は、自分で大きくうなずいた。
 その仕草が可笑しかった。公恵らしくて。思わずわたしは「ぷっ」と吹き出してしまう。
 公恵は、たしかに、せっかちな性分だった。 
 彼女の中では、時間が、わたしより十分ぐらい進んでいるように思えてしかたなかった。
 何事も冷静にテキパキ処理して、もたもたしている頼りないわたしを、公恵はいつも、涼しげな眼差しで眺めていた。 
 良くいえば彼女は、ちゃんとした信念を持った行動力のある女と言えたし、逆に、悪くいえば、頑なで融通の効かない、そんな女とも言えた。 
 ま、もっとも、わたしが、他人のことをとやかく言えた義理ではないのだけれど。
 
 でも――ふと、わたしは首をかしげる。
 和美さんの話しとこの話しに、何の繋がりがあるのだろう、と思って。
 そう思っていたら、どこか遠くを見るような目をして、公恵が言った。
「お姉ちゃんはさ、あたしとは全く逆のタイプだったわ」 
 あいつが、お姉ちゃんに変わっていた。 いくら憎んでいても、やはり、そこは姉妹なのだろう。
「お姉ちゃんも真美と一緒で、好きな食べ物を一番最後に取っておくタイプだったわ。もしかするとお姉ちゃんは、恋愛という好きな食べ物を一番最後まで残しておいたのかもしれないわ……人は見かけによらないわよね。はたから見ると、一見人が良さげに映るようだけど、その実、彼女は最後に一番美味しいところを持っていく、けっこうエグい女だったのかもしれないわ……ま、いまにして思えば、って話だけどさ」
 そう言って、公恵は、やれやれ、という感じで力なく首を振った。
 ことばを、どういうふうにかけてあげればいいか、わたしにはわからなかった。
 だから、余計なことは言わずに、口をつくんでおくことにした。
「にしても、あれよね」
 沈黙を破って、公恵が口を開く。
「むしょうに、腹が立ってしょうがないわよね。なんだか、やられたって感じだもの」
 なるほど、とわたしはうなずく。
 血は争えないようね、と。
 おじさんが、おいそれと諦めきれなかったように、娘の公恵もまた、胸にくすぶったままのわだかまりを持て余しているらしい。
「あいつったらさ、あたしにめんどくさいしがらみを残して、独り、さっさと出て行っちゃうんだもんね……やってられないわよ、まったく」
 そのことばが、やけに痛く、胸にぐさりと突き刺さっていた。


つづく
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