第8話

文字数 2,112文字



 ハッとわれに返った。
 わたしはマグカップに向けていた眼差しをふと、テレビの画面に移す。
 コマーシャルが終わり、画面に、野外の風景が映し出される。都会の闇夜を、撮影用の照明が明るく照らしている。その燈に照らされた雨の雫が、キラキラ、美しく、切なく、光っている。
 それが、わたしに教えてくれる。どうやら、街はまだ、冷たい雨に濡れているようだ、と。
 ふいに、カメラが、びしょ濡れになっている若者の美しい顔を、ズームでとらえた。ラップのリズムに乗せて、若者は雨の中「ケンポウマモレ! ケンポウマモレ!」と拳を突き上げて、叫んでいる。
 ふと、それが既視感となって、わたしの心をざわつかせる――。
 ふたたび、画面が変わる。カメラはここでは、ライトアップされた国会議事堂を舐めるようにして引いて見せる。
 作り手は、何を狙って、このような演出をしているのだろう。ふと考えて、わたしは内心苦笑を洩らす。
 周の影響を受けすぎよ、と自分にそう私語(ささや)いて。
 そう自分をたしなめながらも、周なら、ここで何て言うだろう、と思わずわたしは考えてしまう。
「これはね、建物にひそむ権力者と雨の中で声をあげている若者たちの、その温度差を暗示させる、そうした演出なんだよ」
――だろうか。
 
 
 季節は、春。初夏の陽光の温もりと寒の戻りの冷たさ。
 そういう温度差のある、ちぐはぐな季節。それは、いまの周とわたしのちぐはぐな距離感と、どこか似ている――。
 撮影用の照明に照らされている雨の雫が、キラキラと光って一瞬、あの秋の日の木漏れ日の光を思いださせる。
 木漏れ日の中を、落ち葉を踏みしめがら、周と肩を並べて歩いた、あの日を――。
 若者の叫び声。届かない、その声。もどかしい温度差。
 そう、昨年の、あの秋の日も、画面の中と同じような風景の中に、二人はいたのだ。それはまだ、わたしが「好き」という感情だけで全ての課題が解消されると信じていた、そんな秋でもあった。
 
 
****
 
故郷の風景 その三
 
 
 もはや身体的には大人になったわたしだけど、複雑な謎を解く知恵は、まだまだ幼稚だ。
 それでも、たとえ世界は混沌として謎だらけだとしても、真実はいつもひとつ! とTVの中で少年探偵は毅然と言っている。
 思考回路がとても単純なわたしは、それに影響されて、少女探偵を気取ってみる。
 そして、自分をこう鼓舞する。
「謎を解いて、真実を見つけるのよ、まみ」
 そんなふうに、自分を鼓舞した少女探偵のわたしは、では、謎を解く鍵は、と首をかしげる。
 少し考えて、そうだ、とわたしは頬をほころばせる。
 謎を解く鍵は、父さんの書斎にあるわ、と思って。
 父さんがいないときを見計らって、念には念を入れて、おばあちゃんと母さんの目もこっそり盗んで、けれど、胸をどきどきさせながら、わたしは、父さんの書斎へと忍び込む。
 そこで、父さんが読んでいる、かなり難しい本に目を凝らしていると、わたしは偶然、「大人とは――」という興味深い文面と出会った。
 そこには『大人とは、ややこしい状況に上手く折り合いをつけて生きていくものである』と、記してあった。
 ややこしい状況に上手く折り合いをつけて――なるほど、だからか、とわたしの目から鱗が落ちる。
 ああやって、おばあちゃんと母さんはつき合っていけるのか、とわたしは知ったのだ。
 そればかりじゃない。この『目から鱗が落ちる』ということばも、その本の中で知った。
 二人同士のときは仲が悪くとも、人前に出るとその感情を無理やりねじ伏せ、何食わぬ顔で接することができる――そうした折り合いが、大人には大事なんだ、とその本は伝えていた。
 それを知ったわたしは、大人とはかくも器用な生き物なんだと感心して憧れるとともに、そういう大人にはなりたくないな、とちょっと腰が引けていた。
 またそこには、それとは別に、こんな慣用句も添えられていた。
『狐と狸の化かし合い』
 これには、すっかりうろたえた。大人とは、器用な生き物というより、むしろ、ずる賢い生き物なんだな、と眉をひそめて。
 ただ、そう思ったわたしは一方、クスリと微笑んでもいた。
 だって、うちのクラスのお子ちゃま男子たちには、まだまだこんな高度な考えはできないだろう、と思ったからだ。
 かといって、わたしは微笑んだ後、いつも言いようのない寂しさに襲われている。
 なぜなら、大人に憧れながらも、わたしは大人になるのを怖がってもいるからだ。
 わたしはいま、微妙な季節の狭間で漂い揺れながら、心の置き場を探している。
 時に、そんなわたしの頭の中を、別の謎がかすめることがある。
 思えば、あの二人はなぜ、あんなに仲が悪いのだろう、という素朴な謎が――。
 そんなことに思いを馳せながら、わたしは何気に、ガラス窓の向こうの景色に目をやる。
 空を灰色に覆っていた雲はもはや、薄墨色の絵の具で塗りつぶした、そのような不気味な色に変わっていた。たぶん雨は、まもなく街を冷たく濡らし、わたしを、ひどく憂鬱な気分にさせるのだろう。
 それにしても、今日は寒い。
 温風ヒーターのメモリを、わたしはためらいなく、MAXにした。


つづく
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