第44話
文字数 3,400文字
わたしがこんや、公恵の実家に招かねている、その事情はおぼろげながら判明してきた。
でも――。
わたしには、忸怩たるものがあった。頬に含羞の色が浮かんでいるのが、自分でも、よくわかった。
わたしは周との関係がこじれていることで、患い、すっかり公恵の存在を忘れてしまっていたのだ。
でも公恵は、ちがった。彼女は、わたしを親友だと認めてくれている。だからこそ、いま、実家で起きているのっぴきならぬドラマを、わたしにも知ってほしいと思ってくれているのだ。
このように、公恵は、わたしを家族の一員のように扱ってくれている。それなのに、わたしは……なさけないことに、自分のことしか考えていなかった。
自分が傷つくことが怖いから、勝手に周の不実を嘆き、自分の不運に世の不条理を呪っていたのだ。
「真美は、ちょっとわがままなところがあるから、東京に行ったら、十分気をつけるんだよ」
思えば、性来わたしは、わがままな性分だった。
あれは、いよいよ、故郷を離れるという、その前日の晩だった。祖母が、わたしに注意喚起をうながしてくれたのは――。
「なにせ、ひとり娘だったからねえ、真実は。なんで、少々甘やかしすぎたかもしれないねえ……」
わがまま――思い当たる節が、たしかに、わたしにはあった。
なかんずく、あの記憶だけは、いま思い出しても、バツが悪いことこの上ない
「ねえ、ねえ、真美ってさあ……」
クラスメイトのひとりのつぶやきが、いまでも、耳の奥でこだましている。
あれは、わたしにとってのエポックメーキングとしての、高校二年の修学旅行――。宿泊したホテルの階段の、その踊り場。
クラスメイトのひとりが、ささやくような低い声で、わたしの悪口を言っていた。
「彼女、チョウ自己チューだと思わない?」
「うん、思う、思う」
「そうでしょう。きょういった美術館だけどさ、あんた、おもしろかった?」
「全然……だって、あたし、原宿で、お買い物がしたかったんだもの」
くしくも、通りかかった階段の下。そこでわたしは、クラスメイトが悪口を囁いているのを耳にしてしまった。
きっと、みんなも喜んでくれるにちがいない――勝手に、そうわたしはきめつけていた。思うに、自己チュウだったのだ、高校生のわたしは。自分の価値観が絶対的だ、と信じて疑わなかった。
でもそれは、大きな誤り、自惚れだった。なんたって、価値観の多様性が叫ばれる時代。だというのに、まだ高校生で、舌足らずだったわたしは、そのことが、まるでわかっていなかった。
いや、それより、悪口を言ってた女の子のほうが、道理にもとるんじゃないの、とすら思い込んでいた。
なによ、陰で、こそこそ言ってないで、文句があるなら面と向かって言えばいいじゃん、そんな感じで。
わたしの故郷の実家は、町一番の、本屋さんだった。もっとも、ちっちゃな町である。それゆえ、町には、たった一軒しか、本屋さんはなかったのだけれど……。
広大な敷地に建つ、目を瞠るほどの、立派な屋敷。広い庭に設えてある、築山のある、ずいぶんと大きい池。この立派な屋敷には、幼少期のころ、お手伝いさんさえもいた。
そこの住人だけに、町のあらかたの人が、わたしのことを認識していた。「あの娘、岡田屋さんのひとり娘だよ」と――。
ことに、祖母は、わたしのことを大変可愛がってくれた。実家の本屋を継いでくれる、大事な跡取り娘として。
そういったこともあって、わたしはとても、わがままな子に育ってしまったのだろう、と思う。
もっとも、それが許される、町でもあった。「自分が何者であるか」と問われたときに、自分は、かくかくしかじかの序列のなかにいるんだということがはっきりした。
当時、わたしは気づかなかった。それでも、まあ、クラスメイトの目は語っていたのだろう。
真美って、いけ好かない、ヤナ奴だよね、というふうに。
けれども、わたしは祖母に指摘されるまで、自分はそういう者だということを自覚し、認識していなかったのだ。
むしろ、周りのみんながこぞってチヤホヤするので、わたしは、人から愛される人間だとすら思っていた。
それが、上京すると、一変する。当たり前のことだけれど、この大都会で「あの娘、岡田屋のひとり娘だよ」なんて、だれひとりとして知りはしない。
それどころか、わたしはこの街で、その他大勢のひとりにすぎなかった。上京した当初は、ひとりぼっちの寂しさを持て余しながら、眠れない夜を数えるという日々を、むなしく送っていたものだ。
皮肉ながら、それで、祖母の言いつけは守れていた。わがままな自分をさらけださないようにという、あの戒めは。ま、それはそうだ。だれとも口を利かないという日々が、しばらく、つづいたのだから。
そんなとき、わたしはひとりぼっちの部屋の片隅で、膝を抱えながら、ひとりごとのようにつぶやくのだった。
実はあんたは、高校生のころクラスメイトからね、こんな陰口たたかれてたんだよ。
真美って、チョウ自己チュウで、ヤナ奴だって、ね――。
「わたしさあ、田舎にいるとき、とても、ヤナ奴だったんだよね」
この街にきて、だんだん、公恵と親しくなるにつれ、わたしは、彼女に自分の過去を素直に披露するようになっていた。
「ふーん、そっか……でもさ、自分はそういう人間だと自己を把握し、認識しているんでしょ。だったら、エライわよ」
そう言って、公恵は、うんうんと大きくうなずいていた。
「こう言ってはなんだけどさ、たいがいの人がそのことに気づかなくて、彼女ってめんどくさいわよねぇ、って、いつの間にかスポイルされているんだよ……」
もし、そうやってスポイルされたらさ、結局人生を無為に過ごすことにしかならないし、その上、そうした生をチョイスした人って、生涯索漠たる思いを抱えて生きていかなければならないの――億劫がることなく、ただわたしの話を聞いてくれる人が、幸いにも、わたしにはいてくれた。
それが、公恵だったし、なにより、わたしの大好きな周だった。
「九時を回ったらね……」
わたしの夢想を破って、急に、おばさんがひとりごとのようにつぶやいた。
ハッとして、わたしはおばさんの顔を見る。いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべて、おばさんは、わたしたち二人を見守ってくれていた。
「大分、お客さんもはけると思うの。そしたら、お父さんを、ここによこすから。それまで、二人で仲良く待っててちょうだいね」
おばさんはそう言うと、何か甘酸っぱいほのかな匂いをのこして、階下のお店へと降りていった。
「二人で仲良く待っててちょうだいね……」
そのおばさんのことばを聞いた瞬間、何かが込み上げてきた。
思わずわたしは、わが家にいるよな安心感を覚えてしまう。公恵同様に、おばさんも、わたしを家族の一員として扱ってくれている……。
よすがのない東京にきて、わたしは、こんなにも暖かい人たちの愛に包まれている。
なのになぜわたしは、彼らのことに思いを馳せずに、自分自身のことばかりを患っているのか。
パタパタと硝子窓を叩く雨音が聞こえた。
雨音は、わたしにとって、不吉の予兆の旋律――。
周に、ずっと、隠していた故郷の事情。それがバレてしまったのは、節分の日の夜のことだった。
周はあの夜、他人行儀なわたしの態度に、ただ力なく首を振って、なんともいえない眼差しを向けていた。
いまでも、あの眼差しが、ひどく、痛く、胸に突き刺さっている。
なんのことはない、周が、わたしに愛想を尽かしたのは、この独りよがりの、わがままのせいだったのだ。それがこんや、はっきり、わかったような気がした。
みじめな気分だった。自分に、舌を打ちたい気分でもあった。
わがままな自分をさらけ出さないようにと努めたつもりだが、結局、それはつもりのままだった。
そんな自分が、とても、くやしかった。
やれやれ――ため息をついて、わたしは、おばさんがお茶を注いでくれた湯呑み茶碗を、手に取った。それを、一口啜る。
でもそれは、上手く、喉を通ってくれなかった。まるで、いまのわたしをあざ笑うかのように……。
やれやれ――またひとつため息を重ねて、わたしは改めて、それをごくんと飲み込んだ。
こんどは上手く喉を通ったのだけれど、なんだかその味はとても、にがかった。
つづく
でも――。
わたしには、忸怩たるものがあった。頬に含羞の色が浮かんでいるのが、自分でも、よくわかった。
わたしは周との関係がこじれていることで、患い、すっかり公恵の存在を忘れてしまっていたのだ。
でも公恵は、ちがった。彼女は、わたしを親友だと認めてくれている。だからこそ、いま、実家で起きているのっぴきならぬドラマを、わたしにも知ってほしいと思ってくれているのだ。
このように、公恵は、わたしを家族の一員のように扱ってくれている。それなのに、わたしは……なさけないことに、自分のことしか考えていなかった。
自分が傷つくことが怖いから、勝手に周の不実を嘆き、自分の不運に世の不条理を呪っていたのだ。
「真美は、ちょっとわがままなところがあるから、東京に行ったら、十分気をつけるんだよ」
思えば、性来わたしは、わがままな性分だった。
あれは、いよいよ、故郷を離れるという、その前日の晩だった。祖母が、わたしに注意喚起をうながしてくれたのは――。
「なにせ、ひとり娘だったからねえ、真実は。なんで、少々甘やかしすぎたかもしれないねえ……」
わがまま――思い当たる節が、たしかに、わたしにはあった。
なかんずく、あの記憶だけは、いま思い出しても、バツが悪いことこの上ない
「ねえ、ねえ、真美ってさあ……」
クラスメイトのひとりのつぶやきが、いまでも、耳の奥でこだましている。
あれは、わたしにとってのエポックメーキングとしての、高校二年の修学旅行――。宿泊したホテルの階段の、その踊り場。
クラスメイトのひとりが、ささやくような低い声で、わたしの悪口を言っていた。
「彼女、チョウ自己チューだと思わない?」
「うん、思う、思う」
「そうでしょう。きょういった美術館だけどさ、あんた、おもしろかった?」
「全然……だって、あたし、原宿で、お買い物がしたかったんだもの」
くしくも、通りかかった階段の下。そこでわたしは、クラスメイトが悪口を囁いているのを耳にしてしまった。
きっと、みんなも喜んでくれるにちがいない――勝手に、そうわたしはきめつけていた。思うに、自己チュウだったのだ、高校生のわたしは。自分の価値観が絶対的だ、と信じて疑わなかった。
でもそれは、大きな誤り、自惚れだった。なんたって、価値観の多様性が叫ばれる時代。だというのに、まだ高校生で、舌足らずだったわたしは、そのことが、まるでわかっていなかった。
いや、それより、悪口を言ってた女の子のほうが、道理にもとるんじゃないの、とすら思い込んでいた。
なによ、陰で、こそこそ言ってないで、文句があるなら面と向かって言えばいいじゃん、そんな感じで。
わたしの故郷の実家は、町一番の、本屋さんだった。もっとも、ちっちゃな町である。それゆえ、町には、たった一軒しか、本屋さんはなかったのだけれど……。
広大な敷地に建つ、目を瞠るほどの、立派な屋敷。広い庭に設えてある、築山のある、ずいぶんと大きい池。この立派な屋敷には、幼少期のころ、お手伝いさんさえもいた。
そこの住人だけに、町のあらかたの人が、わたしのことを認識していた。「あの娘、岡田屋さんのひとり娘だよ」と――。
ことに、祖母は、わたしのことを大変可愛がってくれた。実家の本屋を継いでくれる、大事な跡取り娘として。
そういったこともあって、わたしはとても、わがままな子に育ってしまったのだろう、と思う。
もっとも、それが許される、町でもあった。「自分が何者であるか」と問われたときに、自分は、かくかくしかじかの序列のなかにいるんだということがはっきりした。
当時、わたしは気づかなかった。それでも、まあ、クラスメイトの目は語っていたのだろう。
真美って、いけ好かない、ヤナ奴だよね、というふうに。
けれども、わたしは祖母に指摘されるまで、自分はそういう者だということを自覚し、認識していなかったのだ。
むしろ、周りのみんながこぞってチヤホヤするので、わたしは、人から愛される人間だとすら思っていた。
それが、上京すると、一変する。当たり前のことだけれど、この大都会で「あの娘、岡田屋のひとり娘だよ」なんて、だれひとりとして知りはしない。
それどころか、わたしはこの街で、その他大勢のひとりにすぎなかった。上京した当初は、ひとりぼっちの寂しさを持て余しながら、眠れない夜を数えるという日々を、むなしく送っていたものだ。
皮肉ながら、それで、祖母の言いつけは守れていた。わがままな自分をさらけださないようにという、あの戒めは。ま、それはそうだ。だれとも口を利かないという日々が、しばらく、つづいたのだから。
そんなとき、わたしはひとりぼっちの部屋の片隅で、膝を抱えながら、ひとりごとのようにつぶやくのだった。
実はあんたは、高校生のころクラスメイトからね、こんな陰口たたかれてたんだよ。
真美って、チョウ自己チュウで、ヤナ奴だって、ね――。
「わたしさあ、田舎にいるとき、とても、ヤナ奴だったんだよね」
この街にきて、だんだん、公恵と親しくなるにつれ、わたしは、彼女に自分の過去を素直に披露するようになっていた。
「ふーん、そっか……でもさ、自分はそういう人間だと自己を把握し、認識しているんでしょ。だったら、エライわよ」
そう言って、公恵は、うんうんと大きくうなずいていた。
「こう言ってはなんだけどさ、たいがいの人がそのことに気づかなくて、彼女ってめんどくさいわよねぇ、って、いつの間にかスポイルされているんだよ……」
もし、そうやってスポイルされたらさ、結局人生を無為に過ごすことにしかならないし、その上、そうした生をチョイスした人って、生涯索漠たる思いを抱えて生きていかなければならないの――億劫がることなく、ただわたしの話を聞いてくれる人が、幸いにも、わたしにはいてくれた。
それが、公恵だったし、なにより、わたしの大好きな周だった。
「九時を回ったらね……」
わたしの夢想を破って、急に、おばさんがひとりごとのようにつぶやいた。
ハッとして、わたしはおばさんの顔を見る。いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべて、おばさんは、わたしたち二人を見守ってくれていた。
「大分、お客さんもはけると思うの。そしたら、お父さんを、ここによこすから。それまで、二人で仲良く待っててちょうだいね」
おばさんはそう言うと、何か甘酸っぱいほのかな匂いをのこして、階下のお店へと降りていった。
「二人で仲良く待っててちょうだいね……」
そのおばさんのことばを聞いた瞬間、何かが込み上げてきた。
思わずわたしは、わが家にいるよな安心感を覚えてしまう。公恵同様に、おばさんも、わたしを家族の一員として扱ってくれている……。
よすがのない東京にきて、わたしは、こんなにも暖かい人たちの愛に包まれている。
なのになぜわたしは、彼らのことに思いを馳せずに、自分自身のことばかりを患っているのか。
パタパタと硝子窓を叩く雨音が聞こえた。
雨音は、わたしにとって、不吉の予兆の旋律――。
周に、ずっと、隠していた故郷の事情。それがバレてしまったのは、節分の日の夜のことだった。
周はあの夜、他人行儀なわたしの態度に、ただ力なく首を振って、なんともいえない眼差しを向けていた。
いまでも、あの眼差しが、ひどく、痛く、胸に突き刺さっている。
なんのことはない、周が、わたしに愛想を尽かしたのは、この独りよがりの、わがままのせいだったのだ。それがこんや、はっきり、わかったような気がした。
みじめな気分だった。自分に、舌を打ちたい気分でもあった。
わがままな自分をさらけ出さないようにと努めたつもりだが、結局、それはつもりのままだった。
そんな自分が、とても、くやしかった。
やれやれ――ため息をついて、わたしは、おばさんがお茶を注いでくれた湯呑み茶碗を、手に取った。それを、一口啜る。
でもそれは、上手く、喉を通ってくれなかった。まるで、いまのわたしをあざ笑うかのように……。
やれやれ――またひとつため息を重ねて、わたしは改めて、それをごくんと飲み込んだ。
こんどは上手く喉を通ったのだけれど、なんだかその味はとても、にがかった。
つづく