第40話

文字数 2,896文字

「いらっしゃいませ」
 お店のとば口で立ち尽くしていると、件の新人バイトさんが近寄ってきた。
「お一人様ですか?」
 店員さんとして、そう尋ねるのは、むしろ自然の数だ。なので、それに異議申し立てするつもりは到底ない。
 でもわたしは、お客じゃない。この店の娘の親友として、わたしは今夜、ここにきている。
 それを、伝えようとした。
 けれど、それより先に、彼女から「お一人様でしたら、こちらにどうぞ」とカウンター席に座るように勧められた。
「あ……はい」
 ふいをつかれ、少しうろたえたわたしは、ことばに詰まってしまう。
 悲しいかな、わたしは決定的に目はしがきかない。したがってこういう場合、とっさに、気の利いたことばが口をつかないのが常だ。
 それよりむしろ、悲しくなって、涙目になってしまうのがオチである。
 やむなく、わたしはすがるような眼差しを、カウンターのなかへと投げた。
 見ると、うつむき加減で調理に余念がない、公恵の父親が目に入る。
「さあ、こちらにどうぞ」
 バイトさんが、そう念を押す。
 こっちは、忙しいの。だから、ぐずぐずしないでよね、とでも言いたげな目つきで――。
 ますます、わたしは泣きたい気分になる。
 でも、運よく、その声におじさんが反応してくれた。ひょいと首を挙げて、おじさんが、わたしの方を見たのだ。
 一瞬、視線が絡み合う。
 お⁈
 おじさんは目と口の両方を丸くした。その表情に一瞬、子どもっぽさが宿り、無垢な少年らしい顔つきになった。 
 可笑しかった。
 わたしは思わず、クスッと笑って、ちょこんと首を垂れた。
「おじさん、こんばんわ。ご無沙汰してます」
 ただ、わたしはそのとき、とっても泣きたい気分だった。だから、たぶんわたしのその笑みは、なんともぎこちないものになっていたのだろう。

「よっ……」
 そう言って、おじさんは片手を挙げて見せた。
 おや⁈
 そのとき、わたしは首をかしげていた。
 口調はいつもと同じだけれど、どことなく声に張りがないように思えたからだ。
「とんとご無沙汰だったじゃねえか、真美ちゃん……」
 つづけてそう言ったおじさんの顔も、どことなく寂しげだったし、その声も、なんだか威勢がなかった。
 おしさんは生まれも育ちも、ここ、浅草だ。だから、おじさんはいつも、巻き舌でまくし立てるように喋る。おまけに、からかい口調で、半畳入れたりもする。
 でもきょうは、ちがった。きょうはなぜか、ひどく顔色が冴えないし、冗談を口にするような雰囲気はこれっぽっちも垣間見られなかった。
 ふいに、胸が鈍くうずく。
 公恵のウチで、何かのっぴきならない事態が生じているのかもしれない――さっき、脳裏に浮かんだ不安が、ふたたび、胸をかすめたからだ。

 するとそのとき――。
 カウンターのとば口にかかっている暖簾がひらりとめくり上がり、ひとりの女性が、ひょいと顔を覗かせた。
 公恵の母親だった。
「あら」
 わたしを見ると、驚いたように、目を丸くしたおばさんだった。けれどすぐに、その目を細めると、「真美ちゃん、久しぶりじゃない」と優しく声をかけてくれた。
「解語の花」
 おばさんはこの界隈で、そう人口に膾炙するほどの、美貌の持ち主。
 久方ぶりに目にしたその美貌に、改めて、わたしは羨望の眼差しを向ける。
 容の整った唇。スッと鼻筋が通った顔立ち。人好きのする切れ長の眼。わたしでなくても、だれしもが思わず、うっとりさせられる。 
 わたしは、安堵のため息とともにつぶやいた。
「おばさん、こんばんわ……大変ご無沙汰しちゃって……」
 そう言うかいわないうちに、わたしはバイトさんを押しのけるようにして、おばさんの元へと駆け寄った。
 わたしのその勢いに、おばさんは一瞬、戸惑ったような顔をした。けれどすぐに、眉を伸べて、おばさんは「こんやはここで、公恵と待ち合わせ?」と、存外なことばを口にした。 
 え⁈ 
 目をぱちくりさせて、わたしは、おばさんを二度見した。
 いったい、どういうことよ、と内心フンガイして。
 てっきり、こんや、わたしがここにくることを、おばさんは承知していると思っていた。
 でも、存外、そうではなかった……。
 わたしはちらり、お店の時計に目をくれる。
 時計の針はちょうど七時をさしていた。
「じゃあ、七時にね……遅れないでね」
 ゆうべ、公恵は、しつこいくらいくどく、そう念を押していた。
 わたしがくることをおばさんに伝えてないどころか、言い出しっぺの、当の本人が遅刻だなんて。
 あんまりだわ。
 わたしは、むしょうに、腹が立ってしょうがなかった。
 ただ、そうだとすれば、あの謎が解ける。
 道理で、わたしの指定席に先客がいるはずだわ、と。
 ただ、謎は解けたが、心情としては首をひねるわたしがいる……。

「そ、そうですか……」
 非難めいた口調で、わたしは、ひとりごとのようにつぶやく。
「公恵からは、何にも連絡がなかったんですね……」
 つぶやいたわたしは、またもや、疎外感に苛まれ、ひどくやるせない心持ちになる。
「聞いてないわ……だって、そうでしょう」
 わたしの心情を慮ったか、おばさんが言い訳がましく言う。
「あの娘から、そういう連絡があったらさ……」
 おばさんはそこでことばを区切ると、左奥のテーブルに目を転じて、「あそこの席、いつものように、リザーブしているもの」と言って、肩をすくめて見せた。
「そ、そうですよね……」
 ため息交じりに、わたしはうなずき、「こんや七時にどうしてもウチにきてほしいって、ゆうべ、彼女から電話をもらったんですけどね」とさびしそうに笑った。
「あら、そうだったの……」
 間髪を入れず、おばさんはうなずくと一瞬、憐憫の笑みを浮かべた。
 けれどすぐに、「それにしても、七時とはねぇ……あの娘、いったい、何考えてんだか」と仔細ありげにつぶやき、人好きのする切れ長の眼を厨房のなかへと向けた。
 くしくも、おじさんが、ちょうど、おばさんに眼差しを向けていた。
 でも、目が合ったとたん、おじさんはなぜか、プイッと顔をそむけた。そしておじさんは、ふたたび、まな板の上に眼差しを落とすと、何か調理をしはじめた。
 わたしには、そのことがなぜかひどく残酷で切ないことのように思えてならなかった。

 硝子窓をパタパタと叩く雨音。
 雨音は不吉の予兆の旋律――。
 
 浮かない眉をひそめて、おじさんは包丁を握っていた。しかもそれと同時に、まな板に刻まれる包丁のリズムが、どこか荒々しく、ザラザラと、耳にふれてしかたなかった。まるで、おじさんのいまの感情を忠実に表白するかのように――。
 どうやら、杞憂じゃなかったようね――またひとつ、ため息交じりに、わたしは思う。
 わたしが抱いた不安は、思い過ごしで終わってくれなかったんだ、と。やっぱり、この家ではいま、何かのっぴきならない事態が生じてるようだ、とも。
 またしても、雨音が聞こえた。
 不安は強まるばかりだった。
 ただ、わたしがとても心配しているのに、おばさんたら、おじさんのその素っ気ない素振りを見て、さも可笑しそうに「ぷっ」と吹き出していた。


つづく
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