第2話

文字数 3,732文字

 
 
 静謐な闇の中――。パタパタと硝子窓を叩く、雨音が聞こえる。
 指折り数えて待っていた日の前夜にかぎって、てるてる坊主を無情にも濡てらす、あの忌まわしい雨音が……。
 
 ハッとして、わたしはわれに返る。
 なんのことはない、雨音だと思っていたのはだれかからの電話を告げる着信音だった、とわたしは気づく。
 なにやってんだか。そう思って、苦い笑みを浮かべようとしたけれど、頬が強張っていて、それは中途半端に終わった。
 あいかわらず、着信音が――ふと、わたしは液晶画面に目をやる。
 そこに浮かぶ文字、田村周。わたしの大切なひとの名前。
 そういう名前なのに、いますぐにでも会いたいと願っている名前なのに、わたしは携帯電話を手にするのをためらってしまう。
 居留守……。一瞬、思った。でも、やめる。震える手でスマホを握り、耳に加える。
「あ、真美……」
「う、うん……」
「あのさ、大事な話があるんだ」
 心の底に響く低音。
 「ボーン」と時を告げる、あの柱時計のような低音の響き。この響きは、わたしにとって、不吉な予兆――。
「こんどの日曜日なんだけど、久しぶりに菜の花を見にいこうよ。その後で、ゆっくり食事でもしながら話しがしたいんだ」
 いつものように、淡々とした口調。だからこそ、かえってわたしの心をざわつかせる。
 3月の初旬、菜の花の頃。余寒の陽が射す影は、いまだ心許ない季節。
 「大事な話」――周の唇からこぼれ落ちた言葉。柱時計が奏でる低音の響きに似て、わたしにとっては不吉な予兆。
 でもその日は、幸いにも雨だった。朝から、冷たい雨が街を濡らし、二人が菜の花を愛でに行くことはなかった。
 めずらしく、わたしにとって、それは恵みの雨になっていた―ー。
 
 ――木曜のよる。
 リビングルームのフローリングに敷いたラグの上に寝ころがり、わたしは視線を、宙空に、ぼんやりとさまよわせている。
 午後から降り出した雨はまだやまないのかしらーーふと、そんな考えが頭をかすめる。
 わたしにとって、雨音は不吉な予兆の旋律。それが脳裏によぎったわたしは、深く、ため息ついて、窓に背を向けるように寝返りを打つ。
 わたしが暮らす気密性の高いマンションでは、雨音は聞こえない。物理的に分厚い壁は、わたしに安息な日々を与えてくれる代わりに、情緒的な何かを奪ってもいる、ようにも思える。
 いまにして思えば、わたしは雨が嫌いな子どもではなかった。
 
 ひっそりと佇む庭の木々の葉を叩く雫が奏でる旋律。
 
 硝子窓の向こう側に見える雨模様。その雫が奏でる旋律。そしてなにより、雨が洗い流していった後の清爽な空気の匂い――それぞれが、わたしにはいとおしく感じられたものだった。
 雨の季節に、空から落ちてきて街灯に照らされるその雫は、まるで宝石のように煌びやかで、わたしの心を優雅な気分にさせてくれた。
 とくに、地上を叩く雨の雫が奏でる旋律は、格別な響きを伴い、わたしの耳に触れた。かねてわたしが暮らしていた古めかしい屋敷の庭には、わりと大きな池があった。その池を囲むようにして、紫陽花やランタナなどの草花たちが色とりどりに季節を彩ってくれていた。
 新緑の候になると、それらの葉々が一斉に芽吹きはじめる。その葉を叩く雨の雫。くわえて、池の水面や玉砂利や屋根瓦などを叩く音。それが、ポリフォニーの旋律となって、わたしの小さな心を豊にしてくれたものだ。
 ところが、その雨も、移りゆく季節の中で、すべからく美しく綴られるべき思い出の頁を容赦なく濡らすようになった。
 それはたとえば、お正月の初日の出であったり春の日の菜の花畑であったり、あるいは、夏の夜の打ち上げ花火であったり、それとまた、秋の日の中秋の名月だったりとか、とにかく、そういった思い出の頁のことごとくを――。
 そうやって待ちわびる日がくるといつもきまって、雨は、灰色の空から落ちてきてわたしの大切な一日を台無しにした。
 パタパタと硝子窓を叩く雨音ーーそれは、いまでは、不吉な予兆の旋律へと変わっている。
 
 時に、人は、石ころに躓いて、その場に立ちつくしてしまうことがある。でも、めぐる季節は人の心の事情に寄り添うことなく、少しずつ、そして確実に、足跡を残して進んでいく。
 季節の移ろいは、得てして自分の居場所や暮らしの形さえも一変させてしまう。
 わたしもまた、新しい季節の中にいる。大学進学のために上京してきたわたしは、卒業してもなお、東京での暮らしをつづけ、未知の世界へと旅立とうとしている。
 退屈な一日というのは、あんなに長く感じられるのに、それが重なった歳月は、あっという間に過ぎていく。早いもので、季節は駆け足で過ぎていき、この街での暮らしに七度目の春を連れてこようとしている。それはまた、大学時代から付き合いはじめた周との春が、はや六度目を迎えることを教えてくれてもいる。
 新しい春が来るたびに、わたしは、またひとつ幸せな一年が積み重なるものだと期待していた。
 でもそれは、勘違いだった。いまのわたしは、この世界に人をつなぎ止める確かなものなど何もないということをいやおうなしに思い知らされている。
 パタパタと硝子窓を叩く、雨音が聞こえる。
 気密性の高いサッシの窓をすり抜けて、不吉な予兆の旋律が、わたしの耳に聞こえてくる。
 
「時間のすれ違いが原因なんです……」
 TVのワイドショーなんかで、よく耳にすることば。芸能人が、離婚の原因を語る時の常套句――。
 かねてわたしは彼らが口にする別れの理由に、もっぱら異を唱えていたものだ。
 そうじゃない、あなたたちは『好き』だという感情が薄れてしまったから、別れてしまったんだわ。なのに、そういう言葉で本質をごまかし、むしろ自分を慰めているのよ――そんなふうに、わたしは彼らの言葉に異を唱えていたものだ。
 それと同時に、あくまでそれはテレビの中の出来事であって、わたしには全く無縁のことだとさえ思っていた。
 『好き』だという感情さえあれば、二人の間に溝は生まれないし、それさえあれば「時間のすれ違い」という理由だけで二人を結ぶ糸はそう簡単には切れないと、心底信じていた。
 まして、その感情さえあれば二人に襲いかかるすべての問題など、いとも簡単に解消出来る、そう信じてもいた。
 
「うきよとは、無情にも、地続きなもんなんだな」
 いつか周が口にしていた言葉がふと、脳裏に蘇る。
 あれは、いったい、どんな場面で聞いたんだっけ?
 ――そうだった。なんの番組だったかは忘れたけれど、たしか、二人でTVを観ている時だった。
 どこかの国の不幸が、ある日突然、よその国に飛び火した――そういった状況を伝える番組だった、と思う。
 それを観ていた周が、その言葉を発したのだ。それを聞いたわたしは「うきよって?」と周に首をかしげて見せた。
「うきよっていうのはいま、『浮世』って書くんだけどね」
 人差し指で、周が宙に文字を書く。
「ああ、浮世絵の浮世ね」
「そう。でもそれは江戸時代からで、平安時代には『憂き世』って書いていたんだ」
 ふたたび、周が人差し指で、文字を書く。
「憂鬱の、憂ね」
「うん。これは、この世はつらいことで溢れているという意味。つまり、つらさっていうのは対岸の火事じゃなく、地続きなもので、いつ自分もつらさを味わうか、わからないってことさ」
「ふ~ん、なるほどね」
 わたしはあの日、周の言葉をなにげなく聞いていた。
 はからずも、わたしの眼前に、それが、にわかに姿を現したではないか。
 大学時代のわたしは、彼が側にいることはあたりまえのことだと信じて疑わなかった。ところが、お互いが社会人となり、それぞれの仕事を持つようになると、たまに会うことがあたりまえのようになっていた。とくに、周はいま、仕事に追われ、二人で共有する時間をなかなか作ってくれない。
「時間のすれ違い」
 TVの中の対岸の火事が、突然、わたしの日常に輪郭を成して現れたのだ。皮肉なことに、自分がその状況に立たされて初めて、わたしは『好き』だという感情だけで二人の問題は解消できない、と思い知らされた。
 好きなのに、なぜか離れていく、二人の心の距離――そんな皮肉が、男と女の間にはあるということを。
 周のことがたまらなく好きで、たまらなくいとおしいと思うからこそ、あんなに近かった彼の姿が、だれよりも遠くに映ってしまう。人の心とは、なんともややこしいものだ。
 雨は、ただ雨として降っているだけなのに、心のありようひとつで、それをいとおしく思ってみたり、逆に、忌まわしく思ってみたりもする。それは、人が、だれかを『好き』になるのと同じことでもある。心のありようひとつで、好きになったり、逆に、嫌いになったりもするのだから――。
 本当は、まだ好きなのに、ずっと一緒にいたいと願っているのに、けれど、やっかいなことに、それとはちがう結末が待っている。
 まだ雨は、この街を濡らしているのだろうか。それがまた、ふと頭をかすめる。
 ラグの上に寝っ転がっているわたしは、さっきからずっと、無機質な壁をぼんやりと眺めていた。けれども、次第に、それが滲んで見えてくるのだった……。


つづく
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