第15話

文字数 3,151文字



昨年の秋の日の風景のつづき
 
 
  風とは呼べないおだやかな空気が、目の前を通り過ぎていく人々の影を、さながら蜃気楼のようにたゆたう。
 ベンチに腰をすえたわたしたちは雨上がりの澄んだ空気の匂いにつつまれながら、しばらくの間、その風景をぼんやりと眺めていた。
 言葉では言い表せない風景が目の前に横たわっている。
 ここは、小さな宇宙。たった二人だけしか存在しいない、摩訶不思議な宇宙なのだ――ふと、そんな妄想を、わたしは弄ぶ。
『絵画というものは、言葉では言い表せない心の風景をキャンバスの上に表現するものである』
 およそ、そのような感じの文面を、わたしは、だれかの絵画の企画展の挨拶文で目にしたことがある。
 ふーん、そういうもんなんだ、と感心していたのをふと、目の前の風景が思い出させる。
 すると突然、シスレーの絵画が脳裏に浮かび、それが、目の前の風景とピタリ綺麗に重なった。彼の絵画には、目の前にある風景のような清々しい風が流れて、澄んだ空気の匂いさえも感じられた。
 わたしはかねて、彼の絵画を見ていると、いつも、不思議な気分に襲われたものだ。都会に憧れていたわたしが、なぜだかフランスの田舎町に行ってみたくなるのだ。
 少女時代のわたしは、ああいう美しい風景画を描ける大人になれたらいいな、という憧れをたしかに持っていた。本当は、わたしは美大に進学したかったのだ。
 そして、やがてパリに渡り、セーヌ川の畔にイーゼルを立て、彼と同じ風景を描いてみたかった。それが、青春期に描いた淡い夢だった。
 かといって、わたしは故郷にいるとき、それを口にしたことは一度もない。祖母の、あの想い。それを忖度したら、とてもじゃないが、口に出せたものじゃなかった……。
 なにしろ祖母は、わたしが実家を継ぐことだけを生き甲斐にして、あの古めかしい屋敷で退屈な日々を過ごしていたのだから。
 
 
 心地よい喧騒が耳に優しく触れる。それを破るようにして、遠い記憶の中にある懐かしくもあり、そしてせつなくもある声が、耳の奥というより、心の奥でこだまする。
 どうやら、シスレーを思い出したことが、そうさせたみたい。
「お母さん、ちょっと聞いて。可愛い孫には旅をさせろっていうわ。だから、とりあえず四年、四年だけでいいのよ。真美に都会の空気を吸わせてあげて。お願いだから」
「本当に、四年だけなんだね。絶対だよ。約束だからね」
「ええ……わかったわ」
 懐かしい声。それは、祖母と母とが会話をする声。
「大学を卒業したら帰ってくるからね、おばあちゃん」
 祖母に、そういう約束をして、わたしは故郷を後にしていた。それなのに、わたしは、その約束をあっさり反故にしてしまった
 胸が鈍くうずく。とっくに、その約束の期限は過ぎているからだ。
 ただ、罪悪感はあっても、後悔の念はない、というふうに、わたしは自分に言い聞かせてきた。
 それはそうだ。だって、この街にきたからこそ、周に出逢えたのだから。
 もし故郷に留まっていたら、その上、卒業して直ぐに帰郷していたら、こんな素敵な出逢いはなかったはず。
 それを思えば、わたしがこの街に、こうして存在していることはけっして偶然ではなく、必然だった――そのように信じることで、わたしは自分の選択を正当化し、罪悪感をやり過ごそうとしていた。 
 本当に、正解だったの?
 最近、わたしの中で、もうひとりの自分がそうささやきかける。
 それも無理からぬこと。いま、周との距離が微妙になっている。
 だとしたら、やっぱり、不正解だったんじゃないの、というふうに、ささやきかけるのだ。
 でもわたしは、ちがう、ときっぱり首を横に振る。
 たとえこの先、二人の未来がどうなったとしても、この街にきたからこそ、わたしの物語ははじまったのだから、そうけなげに信じて。
 
 
「パパ、待って!」
 ふいに、そういう声がした。ハッとして、わたしはわれに返る。視線の先に、小さな男の子。よちよち歩きをしながら、父親を追いかけている。
 その無垢な声が、わたしに教えてくれる。
 こんな貴重な時間の中で、遠い昔に思いを寄せて感傷に浸っているなんて、もったいなくない、というふうに。
 そうだね――なんともいえない甘酸っぱい想いが胸に込み上げてくる。周に悟られないように、ほんの少しそっぽを向いて、ため息と一緒に吐き出した。
 そうしておいてから、何事もなかったかのような顔をして、頬を、周の肩に寄せた。
 周の匂いが、ふんわり、とわたしの鼻孔を擽る。この幸福な一瞬――永遠につづいてほしい、と何かに祈って瞳を閉じた。
 耳触りのいい周囲の喧騒が、まるで子守唄のようにわたしの耳にふれる。それが、わたしを夢の世界へと誘ってくれる。
 この魔法がずっと解けないで、と実に切実にわたしは祈って、この居心地のいい空間に心を沈めていた。 だが――。
 人生は皮肉で、社会は矛盾で満ちている、とはいみじくも言ったものだ。
 ある日突然、自然の脅威が、あたり前の日常を不条理のうちに奪い取ってしまうように、この幸せな一瞬を、何者かかがいやおうなしに奪い取ろうとする。
 だしぬけに、長閑な空気を破って青山通りの方から不穏なざわめきが、足元をさらうようにして押し寄せてくるのだ――。
 だれかが何かを叫んでいる。エキセントリックなリズムが耳に喧しい。それらが混在した喧騒が、次第に、音量を増して、少しずつ、そして確実にわたしたちの方へ向かって近づいてくる。やがて、それはわたしたちの目の届く処で止まり、大きな黒い人の塊となって現れた。
 エキセントリックなリズムと思えていたのも、実はそれはラップのリズムで、それに合わせてマイクを手にした若者が何かを叫んでいる。
 陽だまりに溶けた耳触りのいい喧騒が、一瞬にして耳障りな騒音へと豹変する。それが、わたしの幸せな気分を遠慮なく駆逐する。
 耳を澄ますと、マイクを手にした若者は「ケンポウマモレ!ケンポウマモレ!」と叫んでいる。黒い塊も、それに合わせて大きな声をあげている。
 石ころを投げつけられた硝子窓がガチャンと音を立てて割れ、その破片がスローモーションのようにゆっくり降下し、やがて石畳みの上にチャリンと落ちる。
 目の前の長閑な景色が、そういった戯画的な場面のように、無残にも、破壊されて崩れ落ちていく。
 ふいに、周の肩から顔を離したわたしは、黒い塊に尖った眼差しを投げる。せっかく、幸福な気分に浸っていたのに、それを意地悪く破る場違いな集団に、わたしはムッとした顔を見せるのだ。
 憤懣やる方ない感情が心の壁を穿って溢れ出す。たぶんわたしはとても、醜い顔をして、すごく尖った眼差しを彼らに投げているのだろう。
 そうしたわたしの心情の変化を、どうやら、勘の鋭い周はいとも簡単に察したようだ。
「俺はね、………」
 はたして、周が何かをつぶやいた。
 え⁈ 
 自分の中に閉じこもっていたわたしは、ハッとして、われに返る。いま、何て言ったの?
 おもむろに周の顔に視線を転じて、わたしは「いま、何か言った?」と、おずおずと尋ねてみる。
 さっきまで穏やかな表情をしていた周がそれを一変させて、冷ややかな微笑を浮かべて答える。
「俺はね、偉いと思うけど、って言ったの」
 パタパタと硝子窓を叩く、雨音。雨音は、不吉な予兆の旋律――。
 気がかりな、その予感に、わたしの心が激しくゆり動かされる。
「俺はさ、その主張がどうであれ、自分の意志を声に出して主張している彼らは、偉いなって思っている。安全な場所にいてパソコンでこそこそつぶやいているヤツらより、よほどマシだとね」
 そう言って、周は、まっすぐな眼差しを彼らに向けた。
 わたしは一瞬にして毒気を抜かれ、思わず絶句――。


つづく
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み