第23話

文字数 3,462文字

 その翌日――。
 職場のデスクの上で頬杖をつきながら、わたしは、ゆうべの公恵との会話をぼんやりと思い出していた。
 どのようなものか知る由もないが、公恵の実家ではいま、なんだかのっぴきならない事態が起きているらしかった。
 でもわたしは、あまり深入りしないでおこう、と自分に言い聞かせる。何分、わたしはいま、降って湧いたような状況に柔軟に距離をおいて眺める冷静さを失っている。
 なぜなら、空っぽで幸福だった心の余白に、にわかに濁った水が溢れてきたからだ……。
 
 わたしと公恵は学生時代に、ひょんなことから知り合った。それ以来なので、二人の付き合いもこの春で、かれこれ七年近くになる。
 それだけに、わたしは彼女の性分とか体質とかについて、だいたいのところは把握しているし、認識しているつもりだ。
 たとえば、体質でいえば、彼女は月のモノが、ことさら重かった。そういう日の彼女は、だから、すごく不機嫌になる。
 むろん、女の子の多くが、月に一度の現象に手を焼いている。それが、公恵はとくに顕著だった。
 おそらく、ゆうべもそうだったのよ――退社時間が迫った、平日とは違う週末の職場の空気の中で、ゆうべの公恵のことを、わたしは、そのように捉えて処理しようとしていた。
 実のところ、わたしはいま、自分のことでせいいっぱいだったので、彼女の問題にはあまり関わりたくなかった。
 
 事務所の白い壁に掛けられた丸い時計に、わたしはふと、目をやる。いかにも機能だけを優先させた、まるで飾り気のない時計に。
 時計の針は、五時三十分を指していた。 
 公恵との約束は、七時――。
 えーと、着替えを済ませ、お化粧を直して、それから――あ、やばい、ぼんやりしている暇はないわ。
 そう思ったとたん、何かが頭の中に影を落とした。
 急いでいる時に限って、わたしにはおうおうにして行く手を阻もうとする、そんな「何か」がひょっこり現れる。その懸念がふいに、頭をかすめた。
 いまにして思えば、それで、わたしはいつも、遅刻を余儀なくされてきた。けっして、言い訳なんかじゃない。
 だって、現に、こんなことがあったもの。
 幼い時分、家を出てしばらく行ったところで突然、篠づく雨に見舞われ、慌てて家に引き返し濡れた服を着替えていると、約束の時間に遅れてしまっていた――というような、どこか言い訳じみた体験が、現に、わたしにはあったのだ。それも、しばしば。
 きょうもまた、わたしの行く手を阻もうとして、「何か」が、虎視眈々と、チャンスをうかがっているらしかった。
「岡田くん、ちょっとわるい」
 あちゃ~、きょうの「何か」は、課長だった。
 机の上をきちんと整理して、「さてと」そう小さくつぶやいて立ち上がろうとしたその次の瞬間、はからずも、課長がわたしを呼んだのだった――。
「こんや中に、このデータを打ち込んでもらえないかな」
 周に会えないことにいじけていたわたしは最近、こうした課長のふいの指令にも二つ返事でうなずいていた。
 週末の夜は、だれもが、なにかとせわしないものだ。課にいるどの女の子も、それぞれが胸のうちに、それぞれの事情を抱えながら、そわそわと落ち着かない。
 こんなときは、だれに用事を頼んでも、すげなく首を左右に振られてしまうのがオチだ。
 如才ない課長のことだから、あの娘なら、とわたしに白羽の矢が立ったらしい。
 でもきょうのわたしは、いつもの従順なわたとはちがう。「はい」と二つ返事で、課長のふいの指令を受け入れる、そんな余裕はないのだ。
 ただ、いかんせん、優柔不断のわたしは、にべなく、ぴしゃっとしたもの言いで断る勇気はない。
 わたしは、だから躊躇する。
「真美はいつも、待ち合わせの時間に遅れるんだから……」
 ゆうべの公恵の声が、どこかでこだまする。
 そうだ、悠長なことは言ってられないんだ。はやく、ことわらなくちゃ――。
 うん⁈ ちょっと待って。
 するとそのとき、めずらしく、わたしの中で、何かがぱっと閃いた。
 この会社に就職して丸三年。こういう時のために、頼れる後輩の一人や二は作っておいた。
 なら、「はい」とうなずけばいい。それで、全てが丸く収まるのなら。
 ただ、そうはいっても、敵もしたたかだ。只というわけにもいかないのだから。
「ねえ、これお願い。今度、晩御飯おごるからさ」と両手を合わせて、「じゃあ、銀座のお寿司屋さんで手を打ちますか」と切り返される始末……。
 きょうも、その例外ではなかった。
 後輩に頭をさげたあと、心もとない福沢さんを恨めしそうにながめながら、やれやれ、とため息をつく、そんなわたしだった。 
 
 自社ビルのエントランスホールに降りた。
 わたしはそこで、改めて、時計に目をやる。
 どうやら、約束の時間にはなんとか、間に合いそうだ。
 入口の自動ドアの前に立つ。ドアが開いた瞬間、外気が、ヒューと頬を撫でた。
 え! 雨?
 その肌触りが、わたしに、冷たい雨を予感させる。
 パタパタと硝子を叩く、雨音。
 わたしにとって、雨音は不吉の予兆の旋律――。
 ふうーとため息をついて、天上を仰ぐ。
 見ると、薄墨色の雲から糸を引くように降り落ちる雨の雫が街あかりに照らされ、キラキラ、と硝子の破片のように煌めいているのが目に入る。
「ひと雨ごとに、春が近づいてくるようです」
 ゆうべ、テレビの天気予報で、さながらジュモーのお人形さんのような顔をした予報士がカメラに向かって、つくりものらしき笑みを浮かべて、そう語りかけていた。
 彼女の言う通り、曇天の空から、春らしい雨が降り落ちてくる。折しも季節はもうすぐ、春。 
 
 漆黒の闇の中で街灯に照らされガラスの破片のように煌めく雫――。 
 
 目の前にある風景が、どうも、呼び水になったらしい。ある風景が、突然、わたしの脳裏に蘇った。
 それは、わたしが、遠い故郷の祖母の膝の上に座っている風景。
 思わず目頭が熱くなる。郷愁をふと、わたしは覚えてしまう。
 わたしは近ごろとても、涙もろい。
 それというのも、ある不安に怯えているからだ。どのような不安かというと、わたしをつなぎとめてくれている糸がプツンと音を立てて切れてしまいそうな、そのような不安に――。
 いまにして思えば、わたしは幼少の折にも、それと同じ不安を覚えたことが、あったのだ。
 小学校の運動会――。
 綱引きをしていたわたしは、もう限界、もういいや、と心の中で叫んで綱を握る手を離そうとする――。
「真美ちゃん、まだ手を離しちゃダメ!」
 そういう目をして、わたしを見ていた友達。
「もう少し頑張れば勝てるんだから、離さないで!」
 その目はあの日、こうも語りかけていた。
「手を離したら、仲間外れにするからね」
 あれは、みんなから疎外されて、ひとりぼっちになってしまうという不安だった。
 だから、「その糸からも手を離しちゃダメよ」という声が、どこかから聞こえてくる。
「離したら、あなたのいとしい男(ひと)も離れていくんだよ」という声が、どこからか――。
 そのような不安に苛まれながら、わたしは、涙もろくなっている。
 
 かねてわたしは、ややこしい事情にうまく折り合いをつけて、一筋縄ではいかぬ社会という海原を要領よく泳いでいくのが、成熟した大人だ、というふうに、信じてきた。
 けれど、わたしはいま、そうした事情にうまく折り合いをつけられずにいる。いや、それよりむしろ、暗くて深い海の底に水没しようとすらしている。
 だとすれば、わたしはちゃんとした大人になれなかったのだろうか――。泳ぎ方のへなちょこな未熟な大人に育ってしまったのだろうか。
 それとも、人を愛することのややこしさと、大人になることのややこしさとは、別の問題なのだろうか。
 思えば、来し方の祖母は幼いわたしを膝の上に乗せて優しく髪をなでながら、こう語りかけていたものだ。
「真美は生まれたこの町にずっといて、暖かいぬくもりに包まれていればいいんだからね」
 ただ、逆に、母と修一くんは「真美は、この町を出て見識を深くするのよ」と、優しさの中にも強い意志を滲ませて、わたしの背中を強く押すのだった。
 祖母の言う通りに、わたしはずっと、あの町のぬくもりに包まれていたほうがよかったのだろうか。
 背伸びしないで、わが家にいるような安心感の中にいて、硝子窓の向こう側の雨の景色を眺めながら、わたしを幸せにしてくれるだれかを、ただ待っていればよかったのだろうか。
 それは、わからない。
 その答えはいま、周の胸の中――。


つづく
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み