第37話

文字数 2,199文字


 初めて訪れた成田空港の出発ロービー。ひんやりとして、広々とした空間。
 自国にありながら、そこに流れていた空気は、どこか異国情緒らしきものを感じさせていたように、わたしには思われた。
 ふふん、これからわたしたちは、日常生活の時間とはぴたり重なり合わない時間をすごすんだぞ――そうとでも言いたげな、いままさに異国へと旅立とうとする邦人の群れ。
 楽しかったよ、またくるね――そう言ってくれてることを切に願う、母国へと旅立とうとする異邦人たち――。
 そういった彼らが引く、いくつものキャリーバックの響きが、広々とした空間に渾然一体となって轟き渡り、思わず旅愁を誘うのだった。
 いま、わたしの耳にふれている浅草の裏路地のキャリーバックの響き。それと、成田空港のロビーで耳にしたキャリーバックの響きとが、わたしのなかできれいに重なっていた。

 わたしはあの日、メキシコに旅立つ修一くんを見送るために、成田空港の出発ロビーを訪れていた。
 その前日の夜――。
 アパートのベランダに吊るしてある、わざわざ故郷から連れてきたてるてる坊主を仰ぎ、わたしは、神妙な顔でそれに手を合わしていた。
「どうか明日は、雲ひとつないすっきりと晴れ渡った空にしてくださいね」
 修一くんの旅路の無事を願って、わたしは、年季の入ったてるてる坊主に、そう祈っていた。
 もちろん、その気持ちに噓偽りはなかったが、けれど、それとはちがう気持ちもわたしにはまた、あったのだ。 
 わたしにとって、雨音は不吉の予兆の旋律――。
 修一くんのこともさることながら、自分にも不幸が起きませんようにと、わたしは心底祈っていたのだ。なんのことはない、要は、おためごかしだったというわけ。
 にもかかわらず――。
 朝、目が覚めて頭上を見上げたら、空は、どんよりとした灰色の雲に覆われていて、気が滅入るような冷たい雨が街を濡らしていた。

 初めて足を運んだ北ウイングのロビー。目にするもの耳にするもののすべてが、いたって新鮮だった。
 チェックカウンターで手続きをする人たちや、たくさんの荷物を乗せたカートを押している人たち。
 彼らこぞって、日常ではうかがい知れない雰囲気――窮屈な日常から抜け出す解放感と同時に非日常へとタイムスリップする高揚感、そのような雰囲気を、無意識のうちに、発散させていた。
 それらが、ここに流れている空気を蚕食して奇妙な気配となって、わたしを包んでいた。 
 それに包まれていたわたしは、修一くんが旅立つ寂しさに苛まれながらも、みょうに心を浮き立たせていた。
 けれど、それも束の間のことだった。

 修一くんはあの日、わたしをロビーの片隅に連れて行くと、柱の陰にぽつんと佇んでいた女性を掌で指し、はみかみながら、こう言ったのだ。
「彼女が以前、俺が言っていた大切なヒトなんだ」
 スラリと伸びた長い肢。うりざね顔にある人好きのする切れ長の目。ショートカットの茶色の髪。こんがりと焼けたスレンダーボディ――。
 それとは対照的に、透き通るような白い肌。後ろで束ねた長い黒髪。どんぐりまなこにややぽっちゃりとした体躯――。
 それは、とりもなおさず、わたしとは真逆のタイプの女性を、修一くんは選んだということだった。それがとても、ショックでしょうがなかった。
 狐顔の彼女はそんなわたしの心情など歯牙にもかけず、その頬をゆるめて、「ナガサワカスミです。こんごとも、よろしくね」と言って、甘い香りをふわっと漂わせながら、ペコリとお辞儀した。
 その香りが、みょうに鼻孔をくすぐり、わたしをいっそう不愉快な気分にさせるのだった。

「……は、はあ」
 その挨拶にあいまいにうなずいたわたしは、ひょっとして、この彼女が、という目をして、修一くんに訊いていた。
 一瞬、居心地の悪い沈黙が降りた。
 はにかんでいた修一くんが、にわかに、その表情を引き締めると、わたしにとってはあまりに残酷なことばを、こう口にした。
「そうなんだ、彼女がね、俺のね……婚約者なんだ」
 それを聞いた瞬間、わたしは、重い何かがずしりと心の底に落ちてきたような、あまつさえ、冷たい何かに足元をさらわれてしまったような、そういった気分に襲われていた。
 それでも、わたしは引きつった頬をなんとかゆるめ、それでいて、どこか冷めた目で、こわばった頬の修一くんと満面の笑みをたたえる彼女を、交互に、眺めていた。
 あのとき、わたしはなぜか、空港のロビーにいたのに、冷たい雨が硝子窓をパタパタと叩く音が耳にふれた、ような気がしていた。
 わたしにとって、雨音は不吉な予兆の旋律――。
 だから、雨が降らないようにって、あんなにお願いしたじゃない。
 ベランダに吊るしてある、ちょっとくたびれてしまったてるてる坊主を思い浮かべ、わたしは、そう気色ばむのだった。

 かつてわたしは、父の書斎に忍び込み、デスクの上に置いてあったパソコンで、修一くんとの血縁関係を検索して、思わず頬をほころばせていたものだ。
 ただ、あのときはまだ、恋心とは呼べない輪郭のない淡い感情だった、と思う。
 やがて、思春期を迎えると、その淡い感情にくっきりとした輪郭ができる。 
 するとそれが、胸のうちに甘酸っぱい何かを連れてくるようになり、すっかりわたしをうろたえさせるのだった。
 いまにして思えば、あれが、わたしの初恋――だったのだろう。


つづく
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