第二節 3

文字数 3,581文字

 ノエミが家に帰り着いたのは、陽もすっかり沈んでしまった後だった。丸太材で建てられた家の玄関を開けると、六、七歳の赤毛の女の子が飛び出してきてノエミの足に抱きついた。ノエミの娘、ペネロペである。
「おかえり」
「ただいま、ペネロペ。良い子にしてた」
「うん。今日は午前中は分院に行ってお勉強したの。帰ってきてからは、ひいおじいちゃんのお手伝いしたよ」
「偉いわね」
「お手伝い頑張ったからお腹がぺこぺこだよ。早くご飯食べよう」
 ペネロペに手を引かれ食堂へ向かうと、食卓には既に夕飯の準備が為されていた。ノエミが驚いていると、台所から鍋を抱えた小柄な女性が出てきた。
「おかえりなさい、ノエミ。ちょうど夕食の準備が済んだところよ。台所を使わせて貰ったわ」
「ありがとう、リタ」
 女性はカルロスの母親のリタである。ノエミの祖父とリタの両親は隣同士でじゃがいも畑を営む古い友人だった。リタの両親が亡くなった後、隣家の畑はカルロスが継いでいた。今でも重機を共有するなど、一家は協力し合ってじゃがいも畑を営んでいる。
「ノエミ、帰ったのか」
「ただいま、おじいちゃん」
 ノエミの祖父トマスが食堂へやって来たところで、四人は食事にありついた。じゃがいもと他の何種類かの野菜を干し肉と一緒に煮込んだだけの簡単な料理だが、滋養が良く身体も温まる。
「ひいおじいちゃんの作ったじゃがいも美味しいね」
 にこにこして感想を述べるペネロペに微笑んでみせてから、ノエミは済まなさそうに祖父に話し掛けた。
「明日は私も朝から畑仕事をやれるわ。最近は家を空けることが多くてごめんなさい」
「畑のことは儂一人でもなんとかなるから、心配するな。リタも手伝ってくれてるしな」
「手伝うなんて、とんでもない。トマスさんの方こそ、うちの畑を何から何まで面倒見てくれて。カルロスがもう少し畑の仕事をしてくれたら良いんだけど」
「カルロスには大事な仕事があるんだ、分かってやりなさい。お前さんとこの畑は儂が責任持って面倒を見るから」
「トマスさん」
 強い口調でトマスに諭され、リタは弱々しげに俯いてしまった。その様を横目で眺め、リタは息子が〈ラハーダの自由〉のリーダーであることすら分かっていないのではないか、とノエミは思った。
 ノエミが初めて会った時から、リタは弱々しく頼りない女性だった。体つきも華奢で、カルロスのような体格の良い男の母親であるとは信じがたい。年齢もあまり離れていないこの母親のことを、カルロスは子供の頃からずっと必死に守ってきた。
 リタは十二歳の時に辺境部隊の男たちに攫われ、監禁された。数ヶ月後に戻ってきた時には、腹にカルロスを宿していたのである。母を襲った不幸だけでなく、身体の半分に都市人の血が流れているという事実が、カルロスにいっそう強く都市人を憎ませるのだとノエミは知っていた。そして、カルロスの中に燃え盛る都市への憎しみを煽ることで、ホセがうまく彼を操っているように思えて仕方がなかった。今日も、ラハーダ自治区が再び都市の植民領にされると聞けばカルロスが見境をなくすことを承知した上で、ホセはわざとああいう言い方をしたのだとノエミには思われた。
「どうした、ノエミ。食事中に考えごとか」
「ごめんなさい、少しぼんやりしてたわ」
 ノエミは曖昧に笑って誤魔化し、リタに話し掛けた。
「そうだ、リタ。カルロスは遅くなりそうだから、今日は泊まっていってね」
「え、いいの」
「もちろんよ。ペネロペも喜ぶわ。そうよね、ペネロペ」
「うん。寝る前にみんなでゲームしよう」
「いいわよ」
「約束だよ」
 食事を終えたノエミが風呂を済ませて居間に戻ってくると、ゲームをすると張り切っていたペネロペはソファで眠り込んでいた。
 ソファに腰掛けたリタが、ペネロペの赤毛を指で優しく解き梳きながら、
「ペネロペはよく眠ってる。疲れてたんでしょう」
 と言って微笑んだ。
「今日はよく働いてくれたからな」
「寝室に運んでくるわ」
 ノエミがペネロペの小さな身体を抱え上げる。続けてリタも立ち上がった。
「私も疲れてるみたい。もう休ませてもらおうかしら」
「いつもの部屋を使って」
「ありがとう」
 リタが客間に入るのを見届けてから、ノエミはペネロペを子供部屋まで運び、寝台に寝かせた。思ったより部屋が冷えていたので、熱源機を付ける。すやすやと眠る穏やかな寝顔を少しのあいだ眺め、額にキスをして部屋を出た。
 食堂ではトマスが独り食卓に腰掛けて、じゃがいもから造られた蒸留酒を飲んでいた。
「お前も一杯どうだ」
「お相伴に(あずか)ろうかしら」
 向かいの席に腰掛け、ノエミも酒を(あお)り始める。暫くは当たり障りのない会話が続いたが、そのうちに酒の回ってきたトマスが低い声で尋ねてきた。
「それで、計画は順調に進んでるのか」
「ええ、とても順調よ」
「本当だな。あの女が女王になったらラハーダは地獄に逆戻りだぞ。また国中に都市人がはびこって、独立なんてものは夢か泡のように消えてしまう。そうなったら儂らは一生、奴隷のままだ」
 トマスはホセとそっくり同じことを口にした。それはホセの言うことが真実だからなのか、ホセが人々の信じたがることを口にしているせいなのか、ノエミには判断が付かなかった。
「本当よ、おじいちゃん。〈先住民の血〉がお金も武器も援助してくれるから、何もかもとてもうまくいってる。今度は武器の扱い方も訓練して貰えるらしいの。だから心配しないで」
「もう少し若ければ儂もお前たちを手伝えたのになあ」
 トマスが心底残念そうな声を上げる。ノエミは苦笑して祖父を(なだ)めた。
「カルロスはここ最近〈ラハーダの自由〉の運動に掛かり切りよ。私もしょっちゅうカルロスに呼び出されてるし、おじいちゃんまで活動に加わってたら誰が畑を管理するの」
「そうだな」
 トマスは透明の酒が入ったグラスをぐっと呷り、憎しみの籠もった口調で訴えた。
「ノエミ、約束してくれ。必ず政府を倒し、都市人に報いを受けさせると。セベロ・アバスカルはよりにもよってスウィフト社と契約を更新したんだぞ。お前の父親を殺したスウィフト社とな。あんな男を宰相の座に就かせておく訳にはいかん」
「分かってる、おじいちゃん」
「都市人も、都市人に協力してきた王室も、儂は絶対に許さんぞ。いつか必ず、あいつらに報いを受けさせる」
 子供の頃から数えきれぬほど聞かされてきた呪詛の言葉を、トマスが再び吐いた。その双眸に(たぎ)る怒りは、カルロスのものとそっくりだ。
「少し飲み過ぎよ。おじいちゃんもそろそろ寝た方がいいわ」
 ノエミは祖父の肩を優しく抱きかかえ、寝室まで送って行った。廊下を進む間も、寝台に寝かしつけた後も、トマスは「都市人を許すな」「報いを受けさせろ」と繰り返していた。ノエミはその度に、「分かったわ」「約束する」「私に任せて」と言って祖父を(なだ)めるのだった。
 ようやく祖父が眠りに就き、ノエミは食卓に戻ってグラスに新たな酒を注ぎ独り呷った。知らず、ノエミの口から深い溜め息が漏れる。
 自分の世界はあまりにも憎しみに満ちている、とノエミは思った。
 ノエミの父親はオイスの採掘を行う鉱山夫だった。父はノエミが七歳のときに鉱山の事故で死んだ。以前から杜撰な安全管理を指摘されていた鉱山会社は、遺族への補償を全く行わなかった。ノエミの母は実家に戻り祖父の手伝いをするようになったが、植民領だった当時のラハーダでは収穫の大部分を不当に安い値段で行政府が強制的に買い上げており、トマスのじゃがいも畑だけではいきなり増えたふたり分の食い扶持を賄うことが出来なかった。生活が立ちゆかなくなり、ノエミの母は辺境部隊の兵士に身体を売るようになった。トマスとて平気のはずはなかったが、娘が都市人に身売りするのを見て見ぬ振りするしかなかった。そのノエミの母も、数年後に客の辺境部隊兵に殺された。当然、先住民の売春婦を殺したくらいのことで都市人が裁かれることはなかった。
 以来、「都市人を許さない。奴らにいつか報いを受けさせる」というのがトマスの口癖になった。
 幼い頃から怒りと憎しみに満ちた世界で育ってきたせいで、ノエミ自身の感覚はもう麻痺している。だが、これからペネロペが生きていく世界は喜びや希望に満ちていて欲しいとノエミは願う。
 不意に、ノエミは嘗て〈ラハーダの自由〉を率いていた男の知的な眼差しを思い出した。セベロの薄茶色の双眸には、間違いなく憎悪以外の光、理想や希望といったものが宿っていた。その光に、ノエミは惹かれた。だが結局は裏切りに遭い、セベロもノエミの憎しみの対象となった。
「セベロ」
 思わず名を呟いてしまい、ノエミは込み上げる苛立ちを呑み込むようにぐっと酒を呷った。先ほどまで美味しいと思って飲んでいた酒が急に苦く感じられ、ノエミは乱暴にグラスを置いた。
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