第一節 5

文字数 2,752文字

 深夜、イーサンは隣の部屋の扉が開く微かな音で目を醒ました。足音は殆どしなかったが、続いて部屋の前を人が通る気配があった。そっと扉を開けて廊下の様子を窺うと、合金仗を手にしたエドガルドが階段を下りて行くところだった。後を追おうとしたイーサンは、すぐに考え直して部屋の中へ戻った。代わりに特殊スコープを装着して暗視モードを起動し、窓から外の様子を窺う。暫くするとエドガルドが建物から出てきて、闇夜のなか合金仗を振るい始めた。
 最初のうち、エドガルドの動きには微かな乱れがあった。イーサンはティエラ棒術の会得者ではないが、エドガルドの棒術は何度も見てきている。エドガルドの動きがいつもと異なっていることはすぐに分かった。悪夢を見たのだ、とイーサンは察する。棒を振るうことで恐怖を鎮めようとしているのだろう。
 イーサンが見守る中、エドガルドの動きは徐々にいつもの静かで流れるようなものになっていく。空も薄らと白み始める頃になって、エドガルドはようやく部屋へ戻った。イーサンはベッドに身を沈め、深い溜息を漏らす。
 ヴァリエンテ族の里でもエドガルドは悪夢に(うな)されていた。イーサンが心配して声を掛けても、エドガルドは全くイーサンを頼ろうとしなかった。今も、エドガルドはイーサンの部屋を訪れることもなく、独りで棒を振るい続けていた。
 マラデータ王国を発って以来、正確には悪夢から目醒めたエドガルドの求めをイーサンが拒んで以来、エドガルドは自分の内面をイーサンに見せようとしなくなった。イーサンはこのところ、あのときエドガルドの求めを拒んだのは取り返しの付かない過ちだったのではないかという考えに囚われている。
 エドガルドの奥底に眠る自傷の欲求に、イーサンは気付いてなかった訳ではない。度を超した苦痛に晒されたとき、人間の脳は苦痛を快楽と認知することによって精神を守ろうとする場合がある。脳にそのような防衛本能が備わっていることを知っているイーサンは、エドガルドの中に潜む自傷の欲求に気付いていても、よしんばそのことにエドガルドが快感を覚えたとしても、エドガルドを軽蔑するようなことは全くなかった。イーサンがエドガルドの求めを拒んだのは、たとえ脳内で快楽に変換されようと、あれがエドガルドにとって本当は苦痛でしかない行為だと分かっていたからだ。
 だが、あの時の自分の判断は間違っていたのではないかという考えを、今のイーサンは拭えなくなっている。
 イーサンは大きく嘆息してから瞼を閉じた。
 その日の午後、エドガルドとイーサンを迎えに王宮からの遣いが分院を訪れた。マヌエルの言ったとおり、迎えの者は目立たぬ装いで馬に乗って現れた。エドガルドとイーサンはそれぞれ自分の馬に乗り、遣いの後について王宮へと向かった。
 道中、イーサンは隣を往くエドガルドの横顔を盗み見た。顔色があまり良くないのは、睡眠不足だけが原因ではないだろう。
 王宮に着くと、二人は簡易的な謁見の間のような場所へ通された。王宮には王族に拝謁するための正式の謁見の間が別にある。二人が通されたのは宰相が客を迎えるための部屋だった。それほど広い空間ではないが天井が高く、それなりに豪華な調度が設えられている。護衛の兵士が二名、扉の両側に控え、宰相セベロ・アバスカルは部屋の奥の壁画の前に立っていた。
「ようこそ、おいでくださいました」
 正面に立って頭を下げるエドガルドとイーサンを、セベロは満面の笑みを浮かべて迎えた。
「学師エドガルド、昨日は本当にありがとうございました。学師マヌエルから、もうひとり学師の方がこの国へいらっしゃるとは聞かされていましたが、まさか命を救って頂くことになるとは思ってもいませんでしたよ」
「昨日の襲撃者を捕まえることは出来たのか」
 (おもて)を上げ、正面から真っ直ぐにセベロの目を見つめてエドガルドが尋ねる。セベロは表情を曇らせた。
「残念ながら取り逃がしてしまいました。おそらく町中(まちなか)に協力者の家があって、そこに逃げ込まれたんだと思います」
「あの武装集団の正体は分かってるのか」
「〈ラハーダの自由〉という反政府組織です。ここ数年は鳴りを潜めていたんですが、最近急に動きが活発化してきたんです」
 エドガルドが質問を畳み掛けても、セベロは嫌な顔ひとつ見せずに答えを返す。
「〈ラハーダの自由〉はこれまでもあなたの命を狙っていたのか」
「狙っていたのかもしれませんが、以前は昨日のように実行に移すだけの力は持っていませんでした。それが最近では、私だけでなく王族や貴族、その周りの人々の命が危険に晒されています」
 探るような眼差しをイーサンへ向けて、今度はセベロが質問をする。
「お連れの方は都市の方ですか。我が国では一般市民の間にも都市への根強い反発があります。〈ラハーダの自由〉の活動が過激化している今、都市の方は町中を歩いてるだけで襲われる危険があるので、なるべく建物の外に出ないようにお願いしてるんです」
「保護スーツを着てないのに、見ただけで都市人と分かるものなのか。衣服もエドガルドと同じようなものを身につけてるのに」
 若干困惑したようにイーサンが問うと、セベロは知的な笑みを浮かべて答えた。
「生まれ育った文化環境というものは、どうしたってその人物の顔立ちに表れるものです。あなたの見た目は教育を受けた育ちの良い都市人そのものですよ」
 イーサンは複雑な表情で黙り込んだ。ティエラ山で潜入捜査をしていたときも、イーサンはプラシドに早々に正体を看破された。カオス世界で自分は異質な存在なのだということを自覚させられずにはいられない。
「こんな辺鄙な先住民国家を訪れる都市人は、オイスの取り引きに関係する人間しかいません。ですが、あなたはそういう都市人の一人ではなさそうだ」
 エドガルドはこの時まで、イーサンの身分をセベロに告げるかどうか決めあぐねていた。だが、マヌエルがセベロを支持している以上、この国でのエドガルドたちの活動がセベロ寄りになることは避けられないだろう。ならばイーサンの身分についても明かしておいた方が得策だと判断する。
「彼はイーサン・ロウ少尉。連盟治安維持官だ」
「連盟治安維持官」
 思わずといった様子でセベロが声を上げる。
「なぜ学師のあなたが連盟治安維持局の人間と行動を共にしているのか、とても興味がありますね」
「昨日あなたを襲った〈ラハーダの自由〉について、気になる噂を耳にした」
 セベロは少しのあいだ思案し、真剣な声を出す。
「どうやら立ち話で済ませられる話題ではないようですね。こちらへいらして下さい」
 そう告げると、セベロは壁画の右側の壁へと向かった。そこには、壁の装飾と連続しているため一見しただけでは見落としそうになる扉があった。
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