第二節 5

文字数 2,817文字

 夢の中、ぼやけた天井を背景に、持ち上げられた自分の脚が揺れるのをエドガルドはぼんやりと眺めていた。腹の奥を突かれて嘔気が込み上げ、顔を横に向けて口から胃の内容物をだらだらと溢す。胃の中はとうに空になっていて、床に流れ落ちたのは少量の黄色い液体だけだった。
 体内から男が出て行き、俯せにされたかと思うと別の男が今度は後ろを犯す。もはや下半身の感覚はなく、局所の痛みは感じなくなっていた。ただ全身がばらばらになりそうな苦痛と、間断なく続く嘔気がエドガルドを苛んでいた。男が身体を乱暴に揺さぶる度、エドガルドの顔は吐物にまみれた床に擦られる。再び込み上げてきた胃液を、エドガルドは力なく咳き込みながら吐き出した。
 いつまで続くのだろう、この苦痛に終わりは来るのだろうかと霞みがかった頭で考えたところで視界が暗転し、意識が遠のく。次の瞬間、エドガルドは再び揺れる自分の脚をぼんやりと見上げていた。視線を彷徨(さまよ)わせると、自分を見下ろす宝石のような青い瞳と目が合った。エドガルドの背筋を恐怖が駆け上る。先ほどまで自分を組み敷いていた第二ドーム軍辺境部隊の兵士たちは姿を消し、代わりにそこに居たのはエドガルドの大切な幼馴染みだった。
 喉まで出かかったやめてくれという言葉を、エドガルドは寸前で飲み込む。拒絶も哀願も意味をなさないことは()うの昔に学んでいた。行為そのものよりも、自分の言葉に全く耳を傾けず、瞳に狂気だけを宿らせて自分のことを見てもいないアダンのことが、エドガルドは恐ろしくて堪らなかった。
 エドガルドは、自分が意志を持たぬただの物になってしまったように感じた。抵抗してもしなくても、どうせ結果は同じなのだという諦めが、毒のように全身を蝕んでいく。エドガルドは感情を殺し、身体の力を抜いてアダンの好きなようにさせた。ただ時間が過ぎ去り、この狂気の時間が終わるのを待った。
 だが徐々に、苦痛とは異なる感覚が下半身から這い上がってきて、エドガルドは絶望と(おそ)れに息を呑んだ。物のように横たわっているつもりなのに、身体が自分を裏切り反応を示し始める。こうなると感情を殺していることが出来ず、エドガルドの精神は生身の肉体に引き摺り戻されてしまう。こんなことは望んでいないはずなのに、自分の身体が何故こんな反応を示すのか、エドガルドには理解できなかった。
(エドガルド)
 そのとき不意に、狂気しかなかったアダンの瞳にはっきりとした意志の光が宿った。目の前の人物が、中身だけ別人に入れ替わってしまったような奇妙な感覚に襲われ、エドガルドははっとする。
(やっと見つけた)
 先ほどまでエドガルドを映してもいなかった青い瞳が真っ直ぐにエドガルドを捉え、歓喜に輝く。両腕を押さえつけられ、唇を重ねられたところで、エドガルドは目の前に居るのがいつも悪夢で見るアダンではないことを確信した。
(会いたかった、エドガルド)
(アダン)
 エドガルドの頭の中に直接アダンの思念が響く。エドガルドの方も、口を塞がれているにも拘わらずアダンに呼び掛けることが出来た。
 状況を理解できず、エドガルドが茫然としていると、アダンは、
(エドガルド、エドガルド)
 と熱に浮かされたように繰り返し名を呼びながらエドガルドの身体を揺さぶり始めた。
(やめろ)
 エドガルドが悲鳴のような声を上げるのにも構わず、アダンは顔も手も足もエドガルドの身体にぴたりと密着させ、全身でエドガルドを犯す。誤魔化しようのない快楽が込み上げてきて、エドガルドは必死で拒絶の言葉を発した。
(いやだ、やめろ)
 アダンの動きも、快楽も止まることはない。エドガルドは遂に堪えきれず、決して呼ぶまいと決めていた名を呼んだ。
(イーサン)
 途端にアダンの全身から凄まじい怒りの気配が立ち上り、エドガルドの世界を覆い尽くす。体内を犯されるだけではない。強烈な独占欲が自分の全てを縛り、侵していくのをエドガルドは感じた。何が起こっているのか全く分からなかったが、先ほどまでとは比べものにならぬほどの激しい苦痛に襲われ、エドガルドは必死に藻掻(もが)いた。
(イーサン、助けてくれ)
(私の前でその名前を呼ぶな)
 イーサンの名を呼べば、益々アダンの逆鱗に触れることになる。頭では分かっているのに、エドガルドはイーサンの名を呼ぶのを止めることが出来なかった。
(イーサン、イーサン)
 圧迫が強くなり、エドガルドの全てが押し潰されそうになっていく。息も出来ず、自我すら呑み込まれそうだった。意識が遠のき、朦朧とし始めたとき、
(学師エドガルド)
 と自分を呼ぶ静かな声がエドガルドの脳裡に響いた。
 エドガルドは必死に目を開き、辺りの気配を探る。すると、アダンの怒りが荒れ狂う世界の片隅に、ごく小さな(なぎ)の空間があるのを感じ取れた。そちらに目を向けると、遠くに灰色の瞳の青年が佇んでいるのが見える。
(衝撃が来るぞ。備えろ)
 青年、オスバルドはそう告げるや否や、全身から鋭い気を発した。閃光が走り、辺りに充満していたアダンの怒りと独占欲、そしてエドガルドの上にのし掛かっていたアダンの幻影が霧散する。エドガルド自身も衝撃に吹き飛ばされ、現実の世界へと押し戻されていく。
(目を醒ましたらアルマの許へ来てくれ)
 頭の中でオスバルドの思念が響いた直後、エドガルドははっと覚醒した。目を開けると、心配げな表情で自分を覗き込んでいるイーサンと目が合った。右肩に痛みを覚え、エドガルドは微かに眉を寄せる。イーサンの左手が強い力でエドガルドの右肩に食い込んでいた。(うな)されるエドガルドを心配し、必死に揺り起こそうとしていたのだろう。
 青ざめた顔で身を起こすエドガルドに、イーサンが本気の心配を滲ませて声を掛ける。
「普通の魘され方じゃなかったぞ。それに、どれだけ揺すっても目を醒まさなかった」
「心配を懸けてすまない」
 すぐ傍にある体温の高いイーサンの身体から伝わってくる熱が、先ほどまで見ていた夢の冷たい感触を追い払ってくれるように思え、エドガルドは思わずイーサンに縋り付きそうになった。だがすぐに、マラデータ王国を出たあと二人の間に起こった出来事を思い出し、衝動を抑え込む。
 俺はお前を痛めつける手伝いをするつもりはない。
 あの時イーサンに告げられた台詞は、抜けない棘のようにエドガルドの胸に刺さっている。苦痛でしかないはずの悪夢に肉体の昂ぶりを覚え、あろうことかイーサンに慰めを求めた。自分でも気付いていなかった自傷の欲求をイーサンに看破され、あれ以来エドガルドは深い羞恥に苦しめられていた。
 イーサンから身体を離して立ち上がり、内心の葛藤を押し隠した抑揚のない調子でエドガルドが告げる。
「行くところがある。俺のことは気にせず寝ていてくれ」
「こんな真夜中に何処に行くんだ」
「オスバルドに会いに行く」
 それ以上は説明せず、イーサンが引き止める間もなくエドガルドは部屋を後にした。
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