第一節 4

文字数 3,069文字

 珈琲を飲み終え、話題も一区切りついたところでエドガルドとイーサンはマヌエルに分院を案内してもらうことになった。
 一階にある教室を案内しながら、
「昼間は子供たちの授業を行ってますが、夜は大人向けの授業もやってます。識字率が低いので、まずは文字を読める人を増やすことが目標です」
 とマヌエルが説明する。
 エドガルドが特に興味を惹かれたのは、分院の裏庭にあるマヌエルの個人的な菜園だ。マヌエルはこの菜園で植物の品種改良を行い、ラハーダ自治区の土壌と気候に適した農作物の開発を行っていた。
 様々な農作物が植えられた菜園を眺めながら、エドガルドがマヌエルに尋ねる。
「この研究も宰相アバスカルからの依頼でやってるのか」
「いえ、これは私が好きで始めたことです。私は元々植物遺伝学に興味があって、この国に来る前も色んな研究をしていたんです」
 マヌエルは熱の籠もった口調で説明し始めた。
「この国の主食はじゃがいもです。じゃがいもは寒冷な気候に強いですし、ラハーダ自治区の土地は肥沃ですから、放っておいても育ちます。私はこの国で栽培されてきた従来種よりも栄養価の高いじゃがいも品種を作りたいと考えています」
 それから、と続けてマヌエルは菜園に植えられた麦の一種を引き抜き、エドガルドとイーサンに差し出してみせた。
「これは小麦とライ麦の交配種です。ライ麦の持つ寒冷への強さと高い栄養価を備えた小麦の開発を目指しています。私はライ小麦をこの国のもう一つの主食にしたいんです」
 マヌエルは人の好さそうなおっとりした雰囲気の持ち主なのだが、自分の興味ある分野に関しては熱くなる(たち)らしく、目を輝かせて語り続けた。
「今日の夕食にはこのライ小麦の試作品で作ったパンを出す予定です。ぜひ感想を聞かせて下さい」
「そうか。それは楽しみだ」
「私見では、パンの原料としてのみ評価するなら現時点でも及第点だと思います。ただ麺類の原料としてはあと一歩ですね。酒への応用はまだ試していません」
「まあ、パンはライ麦から作っても美味しいからな」
「学師エドガルド、私の努力を台無しにするようなことを言わないで下さい」
 正直な意見を述べただけのエドガルドは、マヌエルの盛大な抗議を受けてきょとんとした顔を見せた。二人のやり取りを横で聞いていたイーサンが苦笑し、
「そろそろ中へ戻ろう」
 と声を掛ける。
 夕食にはマヌエルの言葉どおりライ小麦から作られたパンが供され、これに鹿肉の煮込みと野菜が付いていた。なかなか豪華な食事である。ライ小麦のパンは酸味も強くなく、ふっくらと膨らんで食感も良く、マヌエルが及第点と自負するのも納得の出来である。
「王宮から返事があって、宰相アバスカルはお二人と明日の午後に会いたいそうです」
「分かった」
 食事の合間にマヌエルが昼間の話題について返事をした。
「私は朝から子供たちの授業がありますので、王宮まで案内することが出来ません。明日は王宮から迎えが来るそうです」
「あまり目立ちたくない。場所を教えて貰えれば自分たちで向かう」
「宰相アバスカルは心得た方ですから、目立たないように迎えを寄越すと思いますよ。反政府派の活動が盛んになってる今、王宮とあまり密接な様子を見せるとこの分院も襲撃の対象にされる危険がありますからね」
「それほど緊張が高まってるのか」
 エドガルドは眉を(ひそ)めて問うた。マヌエルはいつも少し笑っているように見える顔に最大限、厳しげな表情を浮かべて頷く。
「残念ながらこの国の人々は充分な教育を受けていませんから、情報を精査して自分で判断することが難しいのです。根拠のない噂が真実として広まって、容易に集団ヒステリーのような状態に陥るんです。政府がオイスの取り引きに関する新たな契約を第二ドームとの間に結んで以来、日に日に人々の間で怒りの気配が高まり、国を覆い尽くしつつあります」
 その言葉を聞いて、鍵はやはりオイスの契約にあるとエドガルドは改めて確信する。
 食事を終えたエドガルドは、マヌエルに礼を述べてイーサンと共に食堂を後にした。
「ご馳走さま。あなたの育てたライ小麦で作ったパンは、確かにとても美味しかった」
 去り際のエドガルドの言葉を聞いて、マヌエルは満足そうな笑みを浮かべて二人を見送った。
 廊下を進みながら、イーサンがエドガルドに話し掛ける。
「俺たちも慎重に動かないと、この分院に迷惑を掛けることになりかねないな。宰相が襲われてるところを助けたから、既に〈ラハーダの自由〉に目を付けられてるかも知れない」
「ああ」
 エドガルドはイーサンの方をじっと見て、考え込む素振りを見せた。
「どうした」
「この国の連盟に対する感情がどういうものなのか、学師マヌエルに聞いておけば良かった。連盟はこの国の独立の後ろ盾のようなものだから、反感はないだろうと考えていたが、そう単純にはいかなさそうだ」
「そこまで理解できている人間は一握りかも知れないな。連盟は都市だけで構成されてる組織じゃないが、都市寄りの組織だと思われてる可能性は充分ある」
 宛がわれた並びの部屋の前に着き、エドガルドは足を止めて、
「昼間はああ言ったが、確かにお前が都市人だとばれないようにした方が良い」
 と言った。
 イーサンはエドガルドが分院に都市人が滞在していると噂が立つことを心配しているのかと思ったが、続くエドガルドの言葉で勘違いに気付いた。
「この国に居る間は必ずふたり一緒に行動しよう」
「俺を心配してるのか。エナジー銃と防護シールドは肌身離さないようにするから、大丈夫だ」
 エドガルドが小さく首を(かし)げる。
「なんだ」
「ろくに武装もしてない市民に襲われて、お前にためらいなく相手を撃てるとは思えない」
 イーサンは驚いてエドガルドを見下ろす。エドガルドの言葉は核心を突いていた。自分の身が危険に晒されれば、相手が市民であろうとイーサンは撃つだろう。だが、正当防衛だと頭で分かっていたとしても、全く罪悪感を覚えずにいることは難しい。
 イーサンは左手の指の背でエドガルドの頬をそっと撫ぜ、優しく笑った。
「分かった。自分の身は自分で守れると言いたいところだが、お前の言うとおりにしよう」
「うん」
 エドガルドは安堵したように頷く。イーサンはエドガルドの頬から手を離し、
「じゃあ、また明日」
 と言い置いて部屋に入って行った。
 頬に触れていた熱が失われ、エドガルドは漠然とした心細さを覚えながらイーサンの背中を見送る。
 宛がわれた部屋に入ったエドガルドは、自分以外に誰もいない部屋に置かれた寝台を目にして不意に恐怖に襲われた。眠るのが怖いと、はっきり感じた。こんな感覚に襲われるのは数年ぶりのことである。アダンによる軟禁から解放されて直ぐの頃は、エドガルドは悪夢を懼れて薬の力を借りなければ眠ることすら出来なかった。ティエラ山の庵で朝から晩までビトと棒を打ち交わしている内に徐々に眠れるようになっていったが、眠ることへの恐怖はその後何年ものあいだエドガルドを苦しめた。
 忘れかけていた感覚を思い出し、エドガルドは溜め息を()く。自分のこの恐怖心がアダンに付け入る隙を与えているのだと強く自覚した。恐怖を意思の力で乗り越えることは難しいと、エドガルドは嫌というほど知っている。だが、恐怖心に押し潰されず、恐怖を抱えたまま前に進むことなら出来るとも知っていた。
 必死に登ってきた道から滑り落ちた気分だったが、また一歩一歩登っていけば良いのである。何があっても前に進むしかないのだと、エドガルドは自分に言い聞かせた。
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