第四節 7

文字数 3,436文字

 まず、イーサンが地下に広がる空間に投げ出され、地面に落下した。続けて落ちてきたユーニスの身体を受け止め、地面を転がってその場を離れる。そこへ、上からエドガルドが飛び降りてくる。
 イーサンと違って両足で地面に着地したエドガルドは、すぐにエスプランドル仗を振りかざして頭上へエネルギーを放つ。天井に穿たれていた穴はこれで塞がった。
 イーサンは特殊スコープを外して辺りを見回した。岩に囲まれた洞のような空間で、目の前を仄かに発光する水が脈々と流れている。エドガルドの誘導により、三人は地下水脈に辿り着いたのだった。
「すごい」
 ユーニスは水脈を目にするのは初めてなのだろう。感嘆の声を上げたきり、魅了されたように仄かに発光する水の煌めきを見つめている。その様を見たイーサンも、初めて水脈を目の当たりにした時の感動を思い出した。
「水に入ってフィゴの匂いを洗い流そう」
 冷静なエドガルドの提案が、二人を現実に引き戻す。イーサンはユーニスの腰を抱えて水脈の方へ歩き出した。ユーニスは腕を突っ張り、
「大丈夫、歩けるわ」
 と主張したが、イーサンに、
「溺れられたら困る」
 とすげなくあしらわれ、大人しく従った。
 エドガルドは二人の様子に構わず、一人でさっさと水脈の中に入っていく。
「髪も入念に洗っておけ」
 とだけ言い置くと、エドガルドは水の中へ潜ってしまった。
 初めてエドガルドと水脈を訪れた時のことを思い出していたイーサンは、また二人で一緒に泳ぎたいと思った。とはいえ、ふらついているユーニスを放っておくこともできず、彼女が身体を洗っている間ずっと横について支えていた。ユーニスが身体を洗い終えると、今度は自分も頭から何度も水を浴びる。
「そろそろ良いか」
 水浴びを終えて岸へ戻ろうとしたところで、濡れた衣服を皮膚に張り付かせたユーニスが落ち着かない様子で水中に留まっていることにイーサンは気付いた。イーサンは上衣を脱ぎ、ユーニスの肩に掛けてやる。身体の大きなイーサンの上衣は、ユーニスの身体を膝あたりまですっぽりと覆った。
「少しはましだろう」
「ありがとう」
 ユーニスが俯いたまま礼を述べる。
 そのとき音もなくエドガルドが水面へ戻ってきた。密着しているイーサンとユーニスを無表情に一瞥し、さっさと岸に向かう。
 イーサンはどことなくばつの悪い気分に陥ってユーニスから身体を離し、(おか)に上がったエドガルドの方へ目を遣った。薄手の生地が完全に透けてエドガルドの引き締まった肢体を浮かび上がらせている。イーサンはエドガルドにも上衣を掛けてやりたい気分になったが、エドガルドは気にする風もなく髪を絞っている。うなじが露わになり、焼き印の痕と刺青がイーサンの目に映る。イーサンは暫く熱心にエドガルドの後ろ姿を見つめてから、ユーニスの手を引いて陸に上がった。
 エドガルドは携帯用の熱源機の電源を入れて二人を待っていた。辺りの温度が上昇し、濡れた身体が温まっていく。
「イーサン、お前はここで彼女を見ていてくれ」
「何処かへ行くつもりなのか」
「馬を連れて来る。今の彼女の状態では、これ以上歩くのは難しいだろう」
 一人で行くのか、という言葉をイーサンは呑み込んだ。あれだけの野獣の群れを一人で片付けたエドガルドである。イーサンの助けなど必要としないのは明らかだった。
 イーサンは左手を伸ばし、指の背でそっとエドガルドの頬を撫ぜた。エドガルドが驚いたように目を見開く。
「少し温まってからにしろ。お前は体温が低いんだから、あまり身体を冷やすな」
「いや、時間が惜しい。日が沈む前に分院に戻りたい」
 言葉では断ったものの、イーサンの気遣いが嬉しかったらしく、エドガルドは小さな笑みを浮かべた。濡れた睫毛に覆われた榛色の瞳が、水脈からの光を反射して多彩な色に煌めく。
 不意に、もう随分と長いことエドガルドに触れていないことを思い出し、イーサンはエドガルドの頬に置いた手に少しだけ力を込めた。
「気を付けろよ」
「ああ。ありがとう」
 エドガルドを送り出したイーサンは、熱源機の前に座り込んでいたユーニスの向かいに腰を下ろす。
「寒くないか」
「大丈夫よ」
 ユーニスは両手で足を抱え膝の上に顎を乗せていたが、不意に顔を上げてエドガルドが去って行った方にじっと目を向けた。先ほどエドガルドが開けた穴は塞がり、ただの岩壁があるばかりだ。
「彼はなんというか、すごいわね」
 他に表現を思いつかないと言いたげにユーニスは頭(かぶり)を振った。
「あの獣も彼が殆ど一人で追い払ってしまったし、棒一本で地面に穴を開けて私たちをここまで逃がしてくれた。あの手首の刺青(しせい)、ティエラ教義の学師でしょう。ティエラ教義の学師って、皆あんなことが出来るの」
「いや、あいつは特別だ」
 端的に答えつつ、イーサンはもやもやとした気分を味わう。そう、エドガルドは特別だ。本心では野獣を殺したくなかったはずなのに、イーサンですら辟易とする殺戮を実践し、今も一人で野獣の彷徨(うろつ)く森の中へ戻って行ってしまった。何もかも、エドガルドがティエラ・ゲレロという、他の者には不可能なことも成し遂げることの出来る特別な存在だからだ。エドガルドの傍に居ることで、自分に何が出来るのだろうかとイーサンは考えずにいられない。
「ここは何処なの。私は何処に連れて来られたのかしら」
 自分の考えに耽っていたイーサンは、ユーニスの質問を受けて我に返った。
「ラハーダ自治区という先住民国家だ」
「名前も聞いたことのない国だわ」
「俺も今回ここへ来るまでは知らない国だった。元は第二ドームの植民領で、七年前に独立を果たした。オイスという地下資源が採れる」
「稀少な鉱物資源の採れる国をドームが手放すなんて、珍しいわね」
 ユーニスの口調にドームへの非難が籠もっているのを聞き取り、イーサンは興味を惹かれて彼女の方へ目を向ける。そこでようやく、イーサンはユーニスが保護スーツを着ていないことに気付いた。
「保護スーツを着ていないな。混血なのか」
「混血の都市人が珍しいの。自分だって保護スーツを着ていないじゃない」
「俺のは後天的な体質だ。昔は保護スーツなしではカオス世界で過ごせなかった」
ユーニスは顔を上げ、じっとイーサンを見つめる。ユーニスの瞳は大きく、とても綺麗な榛色をしている。澄んだ双眸はどこかエドガルドを彷彿とさせ、イーサンをどきりとさせた。
「さっき、連盟治安維持官と名乗ったわよね」
「ああ」
「連盟治安維持官が私を助けに来るとは思ってなかった」
「じゃあ、誰が救出に来ると考えていたんだ」
「夫に雇われた傭兵かしら。誰も助けに来ない可能性も考えてた」
 肩を竦めて投げ遣りに答えるユーニスの反応を、イーサンは意外に感じた。
 ジェラルド・ベラミーは妻を盾にされ、カオス世界の監獄の中から〈ラハーダの自由〉に武器を供与し続けた。キャベンディッシュによると、連盟が脱獄を持ち掛けても、ユーニスの安全が確認できるまでは刑務所を出る気はないと答えたという。話だけを聞けば、ジェラルド・ベラミーは妻を心から愛し、大切にしているように思える。だが、目の前にいるユーニスの口調は、とても夫の愛情を信じている妻のものには聞こえない。
「俺たちはジェラルド・ベラミーに雇われた訳じゃないが、救出を依頼してきたのはあんたの夫だ。正確にはラハーダ自治区の宰相が依頼を受け、俺たちを頼ってきた」
「どういうこと。話がよく理解できないわ」
 イーサンは少々迷いつつ、これまでの経緯を簡単にユーニスに説明した。
「じゃあ、ジェラルドは私のために、この国の反政府組織に武器を供与してるっていうの」
「俺が聞いた話では、そういうことになってる」
 聞かされた話をどう受け止めれば良いのか分からないというように、ユーニスは顔を歪めた。先住民への人道支援を行う財団を運営しているくらいだから、父親から夫に受け継がれた家業をユーニスがどう捉えているかは想像に難くない。違法な武器供与を行うことで夫が自分を守ったと知り、かなり複雑な心境に陥っているのだろう。
 熱源機の前に掛けて干しておいた上衣の湿り具合を確認しながら、イーサンがユーニスに声を掛ける。
「今のうちに十分身体を温めておけ。ラハーダ自治区は緯度が高い。地上に戻れば冷えるぞ」
 腰をずらして熱源機の方へ近寄っていくユーニスを見て、エドガルドが濡れた衣服のまま地上に戻っていったことを思い出し、イーサンは顔を顰めた。
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