第二十四話、ポーラ、逃走
文字数 4,357文字
ポーラは、鏡の前でナイフで脇腹を刺した。横に引き、傷口に手を入れ、体の中に残っていた、つぶれた弾丸を取り出した。夜、傷口から血はほとんど出ていない。粘度の高い血液は垂れずに吸収され、ナイフで裂いた傷口もすぐに閉じた。
一週間ほど前、住んでいたマンションでのことを思い出した。
昼前、警告音に目を覚ました。二階から三階に上がる階段に警報音が鳴る術式を組み込んである。ベットから起き、耳を澄ます。階段を慎重に上る複数の人間の足音が聞こえた。一、二階に住む住人の気配はいつの間にか居なくなっていた。
服を着替え、通気管の覆いを剥がす。この部屋の通気管は地下室まで一直線に繋がっている。中に入ろうとしたとき、通気管の奥から人の声が聞こえた。
ポーラは、使い魔を呼び出し通気管に放った。小さなネズミ型の使い魔だ。視野を共有し、通気管を滑り落ちる。
地下室の通気管にたどり着く。そこから地下室へ入り込めるはずが、鉄板のようなもので塞がれており、地下室に入ることはできなかった。
やられた。どうやら逃げ道を塞がれたようだ。
何かを壊す音がした。
木やガラスを破壊する音、ドアや窓を壊しながら、こちらに近づいている。入念に準備された襲撃であることを、ポーラは理解した。
ここで迎え撃つしかない。
棚の中からいくつか薬品を取り出し、混ぜ合わせ、魔術で気化させた。ガスが発生する。吸った人間は肺がただれ死に至る。昔、人間に追い詰められたら、これを使えと、ブレア・モリンズに作り方を教わった薬だ。
室内を毒ガスが満たしていく。無色透明、匂いは少しあるが、人間が強く感じ取れるような匂いではない。
ポーラは焼け付くような肺の痛みを感じた。吸血鬼が滅ぶような強いガスではないが、再生能力が落ちている昼間では、少しつらい。喉や口の中が腫れ、咳きがでる。
部屋のドアの前に人間が来る気配がした。
ドアノブが吹き飛き、ドアが蹴破られる。銃を持った五人の男がうすい光と共に入ってきた。鏡を使って太陽の光を部屋まで運んできたようだ。人の家で、やっかいなことをしてくれるわね。ポーラは部屋の隅で縮こまった。
銃を持った男が、ポーラの名前を聞いた。答えるわけにもいかず、黙っていると、男は困ったような顔をした。まだ、毒ガスは効いていないようだ。男は手鏡を取り出した。男は、廊下から、部屋の中に入ってきている光を手鏡に反射させ、ポーラに向けた。
丸い、手鏡の光が、床を舐めるようにポーラに向かってくる。当たる。
「ひぃいいいい」
体が焼ける。熱い、痛い。ポーラは叫び声を上げた。
「撃て! 吸血鬼だ!」
男達は引き金を引いた。銃弾が撃ち込まれる。痛いが、太陽の光に比べれば、それほどではない。銃弾が肉体を破壊していく。脳が破壊されても、意識が残っていることが不思議だった。考えることだってできる。肉体を動かすのは、さすがに無理そうだった。頭が破壊されているため、辺りの様子はわからない。ただ肉体に残された神経が、ポーラに痛みを伝え続けていた。
銃撃がやむ。
目も耳も鼻も使えないため、部屋の様子はわからない。
破壊され尽くした肉体の再生が始まっていくのを感じた。
少しずつ音が入ってくる。苦しそうな呼吸音が聞こえた。自分のものではない。
毒ガスが効いたのだろうか。
目が再生される。
倒れている男達が見えた。口から泡を吹いて苦しそうにしている。
毒ガスが効いてくれたようだ。安堵する。
辺りに散らばった肉片をかき集める。再生能力が高い血筋であるため、治りは早い。
徐々に人の形を取り戻す。服を着る。
地下室以外から下水道へ出る方法を考えなければならなかった。毒ガスはもう無いため、地下室にいる人間を毒ガスで一掃する方法は採れない。
マンションの廊下は鏡により光に満たされている。行けるとしたら通気管だが、通気管を這い回っているところを人間に見つかれば、銃で撃たれ太陽の光で燃やされることになるだろう。それは避けたい。
銃で撃たれず、外に、下水道に行く方法はないものかと。ポーラは爪を噛み考えた。
窓を見る。光が入らないように、窓枠に木の板を打ちつけている。それを男達が鉄梃でこじ開けようとした形跡があった。
側溝ならどうだろうか。
外へ飛び降り、側溝のコンクリートのふたを開け中へ潜り込む。日差しは、洋服ダンスを背負って防げば何とかなるかもしれない。東に二十メートルも行けば、建物と建物の間にマンホールがあるはずだ。側溝の中を這い、その近くまでいき、側溝から出て、マンホールのふたを開け下水道に潜り込む。
できるだろうか。建物と建物の間で日陰になっているとはいえ、すさまじい痛みを味わうことになるだろう。そもそも、この時間帯、ビルとビルの間が、日陰になっているのかもわからない。
吸血鬼が、日中、外でまともに動けるのは、直射日光下で五秒から八秒、建物などの半日陰で、十五秒から二十五秒、といわれている。側溝からマンホールのふたまで、距離があればアウトだ。近くても、日陰になっておらず、日差しが降り注いでいたら、かなり難しくなる。ここから飛び降りて、うまく側溝の近くに落ちるのだって難しい。
かといってここに居ても、再び人間が乗り込んできたら、ポーラに抗うすべはない。銃が落ちていたが、使ったこともないし、使ったところで夜まで、この部屋で立てこもるのは不可能だ。
ポーラは覚悟を決めた。
縦長の洋服ダンスのとびらを壊し中を空にする。いざというとき、日の光を和らげる目的で、常備していた発煙筒に火を付ける。煙が吹きでて、部屋に煙が充満する。
両手に手袋をはめ、頭から厚手のカーテンをかぶった。手で、窓にはめてある木の板を外す。吸血鬼の力だ。板は簡単に剥がれた。それと共に光が入ってくる。手袋越しに、くるまっているカーテン越しに、太陽の光が、ナイフのように突き刺さる。
痛みに耐えながら、窓の木の板をすべて剥がす。窓の真ん中部分を吸血鬼の力で力一杯押した。窓が割れ、窓が枠ごと外に落ちる。
影に入り一息つく。右手の手袋の中から煙が吹きだしている。指先の感覚が無い。手袋を外すと、灰化した指先が砂のように落ちてきた。灰化した部分を叩いて落とす。ピンク色の筋繊維がゆっくりと、盛り上がる。
普通の怪我とは違い、太陽に焼かれた傷の治りは遅い。再生を待っている暇はないので、かけた指のまま手袋をはめ、カーテンを体に巻き付ける。とびらを外した百八十センチ程度の高さの、縦長の洋服ダンスを頭からかぶる。残りの発煙筒に火を付ける。
側溝の位置を頭に思い浮かべながら、洋服ダンスと共に外へ飛び出した。
洋服ダンスで、できるだけ体を隠しながら、気が狂いそうな痛みと熱さの中、落下する。
着地の瞬間、足を出す。
石畳の歩道に着地する。足首の骨が折れ、腰骨が割れる。吸血鬼だからといって、骨が丈夫になるわけではない。筋肉で吸収できない分は骨に来る。洋服ダンスが地面にぶつかり一瞬跳ね上がる。
直射日光は、洋服ダンスで防いでるが、日差しが足元から入ってくる。足の皮膚が焼け、めくれ、筋肉が引きつる。
発煙筒をばらまく。発煙筒の煙が辺りに広がり、日光の痛みが少しやわらぐ。
毒ガスだ! 逃げろ! という声が聞こえた。発煙筒を毒ガスだと勘違いしているのだと、ポーラは理解した。これで少しは時間が稼げる。
手袋をした手で道路を触りながら側溝のふたを探した。目はほとんど見えない。窓から飛び降りた際、地面から反射する光が目に入り、脳の奥まで焼き切れていた。
細い直線の溝があった。それをたどっていく。ふたを開けるための穴があった。穴に指を入れ、持ち上げ、側溝の中に潜り込んだ。
狭いが、小柄なポーラにとっては、中を移動するには、それほど苦ではなかった。腕を使い芋虫のように這い進んだ。落ち葉や土があったが、乾燥してため、思ったより不快感はなかった。コンクリート製のふたには、ふたを持ち上げるための穴があいているため、そこから入る日光は、厚手のカーテンをかぶっていても、ポーラの頭から尻までを順に焼いた。
しばらく進んだ後、小さなネズミ型の使い魔を召喚した。それを側溝のふたの穴から外へ押し出す。視野を共有し、外からマンホールを探す。
五メートルほど行った先の右手に、建物と建物の隙間が見えた。そこにマンホールがあるはずだ。
ポーラはネズミ型の使い魔と併走する形で、急いで前へ進んだ。右に曲がるマンホールのふたがあった。マンホールの近くまで側溝の中を進んだ。
建物と建物の間、マンホールのふた周辺に、日差しが入り込んでいた。マンホールの中に入るためには日差しの中を移動しなくてはならない。
他に、マンホールはないのかと、ネズミ型の使い魔を走らせた。
銃撃音がした。おそらく、ポーラと共に落ちた洋服ダンスに銃弾を撃ち込んでいるのだろう。このままだと、ポーラが側溝の中にいることがすぐにわかってしまう。
時間が無い。
使い魔を呼び戻した。
側溝からマンホールまで、二メートル程度だ。ポーラは覚悟を決めた。
厚手のカーテンを体に巻き付け、側溝のふたを跳ね上げた。
カーテン生地を突き抜けた太陽の光に、皮膚が蒸発する。
遮蔽物のない場所で、太陽の光の下に居ると言うだけで、いくら着込んでいても、だめなのだ。
「きひぃいいいい」
痛い。
あまりの苦痛に、使い魔との、視野の共有を維持できない。マンホールのふたの上へ移動させ、鳴き声を鳴かせることにした。鳴き声の方に歩く。
頭皮がずるりと向けて、毛髪が灰になってずれ落ちる。
唇がめくり上がり、口中がひからび、舌が砂のようになる。
左の耳がつまったように聞こえなくなり、右の耳も聞こえなくなった。使い魔の声が聞こえなくなる。
勘を頼りに、マンホールへ向かう。
左足が動かなくなり倒れる。足の灰化が進み動かない。這うように進む。手に何かが触れた。動いている。召喚したネズミ型の魔物だ。ここにマンホールがある。
手で探る。指は、ほとんど残っていない。へこみがあった。マンホールのふたを開ける専用の工具を差し入れるための穴を見つけた。そこに、右手の親指の根元をねじ込む。他の指は、もう崩れ落ちていた。通常は専用の工具がなければ、ふたを開けることはできないが、吸血鬼の筋力で無理矢理ふたを持ち上げ転がした。親指が手首の辺りまで裂けた。
マンホールの中に、手を入れる。暗闇が感じられた。マンホールの穴の中に、頭から滑り落ちる。暗闇へ。
そのまま頭から落ち、下水道の中を這うように逃げた。
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