第16話 下着が見えているぞ
文字数 3,055文字
「阿喰さん、トイレへ行きたいのなら、そう言いなさい。恥ずかしいことではありませんから」と教師が言った。
「特にトイレへ行きたいわけではありません」俺は正直に答えた。
「阿喰くんは、恥ずかしがり屋なので、素直になれないんです」雑賀が言った。
「そうなのですか?」
「違います」と俺は言った。「何はともあれ、ひとまず、退室させて頂きたいのです」
「わかりました」教師は、なぜか疲れているようすだ。「それでは、体調が良くなったら戻ってきなさい」
「現在、すでに体調が良い場合は、どうすれば良いですか?」俺はきいた。
「良いから、黙って、さっさと出ていきなさい」雑賀が強い口調で言った。
俺は立ち上がり、教室を出ていった。苅部は心配そうに俺を見ていた。親指を立て、問題ない、気にするなという意志を示す。教師のせいで、随分と時間を食ってしまった。もう間に合わないかもしれない。俺は廊下を走った。校則違反ではない。廊下を走るべからず、などという文言は、校則のどこにも書かれていない。所詮は生徒会の出している努力目標である。無視しても構わなかった。
授業中ということもあって、校内は静けさに満ちていた。俺以外には、誰も歩いていない。日常と非日常の境界線上にいるような、そんな気がした。単なる錯覚だけれども。
俺はフルスピードで飼育小屋へと向かった。飼育小屋に近づいてからは、速度を落とし、音を立てないように気をつける。そっと、校舎の壁から顔を少しだけ出して、確認する。
目的の人物はそこにいた。
ハーモニーは、地べたにしゃがみこんでいた。人差し指と中指で細い煙草を持ち、口に運ぶ。そして白い煙を吐く。足もとにはコーヒーの缶が置かれていた。
「下着が見えているぞ」俺はハーモニーに言った。
ハーモニーは、素早い動作で股を閉じ、吸っていた煙草をコーヒー缶に入れる。ゆっくりと立ち上がり、スカートをぱたぱたと叩いて埃を払った。そして、無言で、俺をじっと睨んでいた。
無言のまま時間が過ぎていく。
ハーモニーは何も言うつもりがないようなので、俺が話すことにした。
「未成年の喫煙は、法律によって禁じられている」
「見られてたか」ハーモニーは、深く息を吐いた。「それで、どうする? 先生にでも言いつける? それとも、わたしを脅して、性的な要求でもする?」
「しない」俺は言った。「どちらもしない」
「いつから気づいてたの?」
「喫煙のことならば、気づいているというほど明確ではなかった。ただ、そうなのかもしれない、と感じただけだ」
ハーモニーは制服のポケットから、煙草ケースを取りだした。シガレットを一本つまみ、そして右手に持っていたライターで火をつける。煙を吸い、吐いた。
「おいしー」ハーモニーは言う。「授業をサボって吸う煙草って、最高」
「そんなに美味しいのか?」
「吸う?」ケースを俺のほうへ向ける。
「吸わない」俺は言った。「法律違反だ」
「煙草の美味しさを知らないなんて、可哀想」
「どこで買ったんだ?」
「パパが増税前に買ったストックを、ちょろまかしてる」
「泥棒は良くない」
「知ってる」そりゃ、知っているだろう。「それで、あんた、何が目的なわけ?」
「目的とは?」
「わたしを追い回して、煙草を吸えないようにしてさ。ただ、わたしをイライラさせたいだけなの? それとも、煙草をやめさせるって?」
「そのどちらにも興味はない」
俺は、ハーモニーを怒らせたいわけではなかった。未成年の喫煙は良くないと思うが、しかし、わざわざ介入するほどのことではない。殺人や窃盗であれば話は別だが、吸いたい人は吸えば良いと思う。煙草の親族相盗に関しても、それはハミル家の問題である。俺の管轄ではない。
「雑賀の靴を盗んだ犯人と会ったな?」俺は尋ねた。
「なんで?」ハーモニーは驚いているようだった。「見てたの?」
「いや、単なる想像だ。状態の綺麗な雑賀の靴を、きみが持っていたから。そして、あのとき、きみの制服は汚れていなかった。わざわざ探して、見つけたわけではない。よって、雑賀の靴を捨てようとしていた犯人と会った、と推測したに過ぎない」
推理というほどのことでもない。当てずっぽうである。
「ま、そんな感じ」ハーモニーは煙草で缶の口を叩いた。灰が中に落ちる。「ここで煙草を吸ってたら、靴を持ってた子と、偶然会っちゃってさ。お互い、気まずかったなぁ。結局、お互いに、何も見なかったことにしようって決まったんだけど」
「犯人は誰だ?」
「知らない子。髪が長くて、黒くて、なんか大人しそうな子だったけど。内気というか陰気というか、友達いないだろうなってタイプ」
「俺みたいなやつか」親近感がわいた。
「いや、あんたよりは、百倍まともだと思うけど」ハーモニーは言う。「とりあえず、そういうことはやめなって言っておいたから、もう大丈夫だと思うよ」
「靴を弁償させる必要がある」俺は言った。「犯人を捕まえたい。協力して欲しい」
「あんたに協力したら、わたしの喫煙を、その子がばらすでしょう?」
「なるほど」俺は言った。「しかし、協力してくれないと、俺がばらすかもしれない」
「脅迫するわけ?」
「脅迫はしたくない。善意による協力を申し出て頂ければ助かる」
「それが脅迫なんだって」ハーモニーは、もう一度、煙草に口をつけた。ゆっくりと白い煙を宙に吐く。「うん、わかった。じゃあ、あんただけを犯人に会わせてあげる。雑賀とか苅部には秘密ね。そのあとは、自分でなんとかしてよ」
「わかった。それでいこう」
「あの子のクラスとか、調べて、またあとで伝えるから。明日まで待って」
そこで、五時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「戻ろう」俺は言った。「随分、授業を放棄してしまった」
「はいはい」ハーモニーは缶に煙草を突っ込み、そしてポケットから香水を取りだした。全身にくまなく振りかける。「これでオッケー」
あの甘ったるい香りは、つまり煙草の臭いを消すためのものだったのである。
「煙草をやめる気はないのか?」
「どうして、やめなきゃいけないの?」
「法律違反だし、それに健康にも悪い」
「他人に迷惑をかけてないから、良いじゃない」
「少なくとも、きみの父上には迷惑を掛けている」
「それはお互い様だから良いの」
ハミル家の事情は、俺にはわからない。
「じゃ、行きましょう」
ハーモニーが先導する形で、第三多目的教室へと戻った。
「お帰り」苅部が微笑で迎えてくれる。「随分、長いトイレだったね。先生、心配してたよ」
「トイレに行っていたわけではない」
「でも、廊下を走ってたでしょ? 急いでトイレに行ったんじゃないの?」
「違う」俺は言った。「ハーモニーと、秘密のことをしていた」
「なにそれ。卑猥」苅部が顔を朱に染める。
「ノット卑猥」ハーモニーが言った。「ちょっと、話をしてただけ」
「どんな話?」苅部が尋ねた。
「それは言えない」俺は言った。
「阿喰くん、最近、秘密が多いよね」
「秘密のない人間なんていない。苅部にだって秘密があるだろう。それと一緒だ」
「まあ、そりゃ、そうだけど」
「男は、秘密があればあるほど魅力的だ」俺は、いまはなき姉の言葉を引用した。
「特にトイレへ行きたいわけではありません」俺は正直に答えた。
「阿喰くんは、恥ずかしがり屋なので、素直になれないんです」雑賀が言った。
「そうなのですか?」
「違います」と俺は言った。「何はともあれ、ひとまず、退室させて頂きたいのです」
「わかりました」教師は、なぜか疲れているようすだ。「それでは、体調が良くなったら戻ってきなさい」
「現在、すでに体調が良い場合は、どうすれば良いですか?」俺はきいた。
「良いから、黙って、さっさと出ていきなさい」雑賀が強い口調で言った。
俺は立ち上がり、教室を出ていった。苅部は心配そうに俺を見ていた。親指を立て、問題ない、気にするなという意志を示す。教師のせいで、随分と時間を食ってしまった。もう間に合わないかもしれない。俺は廊下を走った。校則違反ではない。廊下を走るべからず、などという文言は、校則のどこにも書かれていない。所詮は生徒会の出している努力目標である。無視しても構わなかった。
授業中ということもあって、校内は静けさに満ちていた。俺以外には、誰も歩いていない。日常と非日常の境界線上にいるような、そんな気がした。単なる錯覚だけれども。
俺はフルスピードで飼育小屋へと向かった。飼育小屋に近づいてからは、速度を落とし、音を立てないように気をつける。そっと、校舎の壁から顔を少しだけ出して、確認する。
目的の人物はそこにいた。
ハーモニーは、地べたにしゃがみこんでいた。人差し指と中指で細い煙草を持ち、口に運ぶ。そして白い煙を吐く。足もとにはコーヒーの缶が置かれていた。
「下着が見えているぞ」俺はハーモニーに言った。
ハーモニーは、素早い動作で股を閉じ、吸っていた煙草をコーヒー缶に入れる。ゆっくりと立ち上がり、スカートをぱたぱたと叩いて埃を払った。そして、無言で、俺をじっと睨んでいた。
無言のまま時間が過ぎていく。
ハーモニーは何も言うつもりがないようなので、俺が話すことにした。
「未成年の喫煙は、法律によって禁じられている」
「見られてたか」ハーモニーは、深く息を吐いた。「それで、どうする? 先生にでも言いつける? それとも、わたしを脅して、性的な要求でもする?」
「しない」俺は言った。「どちらもしない」
「いつから気づいてたの?」
「喫煙のことならば、気づいているというほど明確ではなかった。ただ、そうなのかもしれない、と感じただけだ」
ハーモニーは制服のポケットから、煙草ケースを取りだした。シガレットを一本つまみ、そして右手に持っていたライターで火をつける。煙を吸い、吐いた。
「おいしー」ハーモニーは言う。「授業をサボって吸う煙草って、最高」
「そんなに美味しいのか?」
「吸う?」ケースを俺のほうへ向ける。
「吸わない」俺は言った。「法律違反だ」
「煙草の美味しさを知らないなんて、可哀想」
「どこで買ったんだ?」
「パパが増税前に買ったストックを、ちょろまかしてる」
「泥棒は良くない」
「知ってる」そりゃ、知っているだろう。「それで、あんた、何が目的なわけ?」
「目的とは?」
「わたしを追い回して、煙草を吸えないようにしてさ。ただ、わたしをイライラさせたいだけなの? それとも、煙草をやめさせるって?」
「そのどちらにも興味はない」
俺は、ハーモニーを怒らせたいわけではなかった。未成年の喫煙は良くないと思うが、しかし、わざわざ介入するほどのことではない。殺人や窃盗であれば話は別だが、吸いたい人は吸えば良いと思う。煙草の親族相盗に関しても、それはハミル家の問題である。俺の管轄ではない。
「雑賀の靴を盗んだ犯人と会ったな?」俺は尋ねた。
「なんで?」ハーモニーは驚いているようだった。「見てたの?」
「いや、単なる想像だ。状態の綺麗な雑賀の靴を、きみが持っていたから。そして、あのとき、きみの制服は汚れていなかった。わざわざ探して、見つけたわけではない。よって、雑賀の靴を捨てようとしていた犯人と会った、と推測したに過ぎない」
推理というほどのことでもない。当てずっぽうである。
「ま、そんな感じ」ハーモニーは煙草で缶の口を叩いた。灰が中に落ちる。「ここで煙草を吸ってたら、靴を持ってた子と、偶然会っちゃってさ。お互い、気まずかったなぁ。結局、お互いに、何も見なかったことにしようって決まったんだけど」
「犯人は誰だ?」
「知らない子。髪が長くて、黒くて、なんか大人しそうな子だったけど。内気というか陰気というか、友達いないだろうなってタイプ」
「俺みたいなやつか」親近感がわいた。
「いや、あんたよりは、百倍まともだと思うけど」ハーモニーは言う。「とりあえず、そういうことはやめなって言っておいたから、もう大丈夫だと思うよ」
「靴を弁償させる必要がある」俺は言った。「犯人を捕まえたい。協力して欲しい」
「あんたに協力したら、わたしの喫煙を、その子がばらすでしょう?」
「なるほど」俺は言った。「しかし、協力してくれないと、俺がばらすかもしれない」
「脅迫するわけ?」
「脅迫はしたくない。善意による協力を申し出て頂ければ助かる」
「それが脅迫なんだって」ハーモニーは、もう一度、煙草に口をつけた。ゆっくりと白い煙を宙に吐く。「うん、わかった。じゃあ、あんただけを犯人に会わせてあげる。雑賀とか苅部には秘密ね。そのあとは、自分でなんとかしてよ」
「わかった。それでいこう」
「あの子のクラスとか、調べて、またあとで伝えるから。明日まで待って」
そこで、五時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「戻ろう」俺は言った。「随分、授業を放棄してしまった」
「はいはい」ハーモニーは缶に煙草を突っ込み、そしてポケットから香水を取りだした。全身にくまなく振りかける。「これでオッケー」
あの甘ったるい香りは、つまり煙草の臭いを消すためのものだったのである。
「煙草をやめる気はないのか?」
「どうして、やめなきゃいけないの?」
「法律違反だし、それに健康にも悪い」
「他人に迷惑をかけてないから、良いじゃない」
「少なくとも、きみの父上には迷惑を掛けている」
「それはお互い様だから良いの」
ハミル家の事情は、俺にはわからない。
「じゃ、行きましょう」
ハーモニーが先導する形で、第三多目的教室へと戻った。
「お帰り」苅部が微笑で迎えてくれる。「随分、長いトイレだったね。先生、心配してたよ」
「トイレに行っていたわけではない」
「でも、廊下を走ってたでしょ? 急いでトイレに行ったんじゃないの?」
「違う」俺は言った。「ハーモニーと、秘密のことをしていた」
「なにそれ。卑猥」苅部が顔を朱に染める。
「ノット卑猥」ハーモニーが言った。「ちょっと、話をしてただけ」
「どんな話?」苅部が尋ねた。
「それは言えない」俺は言った。
「阿喰くん、最近、秘密が多いよね」
「秘密のない人間なんていない。苅部にだって秘密があるだろう。それと一緒だ」
「まあ、そりゃ、そうだけど」
「男は、秘密があればあるほど魅力的だ」俺は、いまはなき姉の言葉を引用した。