第20話 愛と同様、美にも性別は無関係である
文字数 3,047文字
「池永(いけなが)さんに、命令されたの」
池永という名前に、心当たりはなかった。
そもそも、俺は名前を記憶するのが苦手だ。よって、ほとんどの人間の名前に心当たりがないとも言える。
「命令されたというのは、雑賀の靴を盗み、捨てろと命令されたという意味か」
「そう」柳井はうなずいた。「クラスのボスって感じで、命令されたら、断れなくて」
「なぜ断れない?」
「波風を立てたくないから。わたし、もうすぐ転校するんだよね。だから、揉めごととか、起こしたくないなって」
「留学って……入学して一ヶ月でか?」
「そうなの」柳井は微笑む。「お父さんの仕事の都合で、アメリカに行くから」
「ふーん」どうでも良かった。「その、池永というやつの命令を断らなかった結果、雑賀との揉めごとに発展している。どうせ転校するなら、命令を無視すれば良かったのでは?」
俺の質問に、柳井は微笑んだまま答えなかった。
まあ良い。問題はそこにはない。
「その池永というやつは、強いのか?」
「強いかどうかは、わからないけど、華奢で、美人だよ。スタイルも良いし」
「雑賀やハーモニーと比べると、どちらが美人だ?」
「雑賀さんたちのほうが、さすがに上だけど」
「きみと比べたら?」
「なかなか残酷なことをきくねぇ……」
「俺は、かなり思いやりのある人間だ」そう自己評価をしていた。「柳井も、なかなかの美人だと言える。雑賀やハーモニーよりも、少し格が落ちるのは否めないが、それでも美人だ。苅部と良い勝負だな」
「男の子と良い勝負してもなぁ」
愛と同様、美にも性別は無関係である。
「でも、ありがとうね」柳井は微笑んだ。
「きみは、雰囲気が、随分変わったようだ」俺は、思ったことを率直に述べた。「もっと、内気で、陰気な少女だと想像していた」
「うん、普段は、そうだけどね。でも、きみの前だと、違うみたい」
「俺の前では、演技をしているということか?」
「どちらかというと、こっちが素かな。家でも、お母さんとかには、こんな感じ」
「俺は、きみのお母さんではない」
「知ってる」柳井は短く答えた。
そりゃ、知っているだろう。
「きみ、家はどこだ?」
「おっと。そこまでは、まだ、気を許してませんからね」
「帰る方向が一緒であれば、共に帰ろうと言うつもりだった」
「えっとね、バスなんだけど」
「俺は電車だ。ということで、一緒に帰るとしても、校門までだな」
「もう帰るの?」
「これ以上きみを拘束するのも、可哀想だ。家に帰りたいだろうし、話は、また今度きかせてもらおうと考えた次第だ。犯人も池永だとわかったことだしな」
「今日は、暇だから、もうちょっとお話しても良いけど」
「そうか、それは助かる」俺は言った。「どこか、座って話せる場所があると良いんだが」
「それなら、食堂は? いまは、人も少ないと思うし。それとも、わたしと一緒にいるのは、嫌?」
「無論、嫌ではない」
「じゃあ、行こう」
柳井が先導する形で、食堂へと向かった。昼食時とはうってかわって、がらんとしている。食堂で働いている人も、ほとんど帰ってしまったらしい。売店には、三十代くらいではないかと思われる女性が、気怠げに座っていた。昼に売れ残ったパンが割引で売られている。あとは、シャープペンシルや消しゴム、ノート、それに御菓子などが、狭いテーブルに並べられていた。
食堂内には、生徒が点在している。テーブルを囲み、歓談する声が、やや騒がしかったけれども、我慢できないほどではない。その集団から、非常に高い頻度で笑い声がきこえてくる。この世界に、それほどまでに面白いことがあるのだろうか。不思議なものだった。
窓際の小さな丸テーブルについた。向かい合うような形で椅子が置いてある。生徒の間では、このテーブルはカップル席と呼ばれている。
「それで、ききたい話って、何?」柳井は、じっと俺の眼を見た。
「綺麗な目だな」
「え? うん、ありがとう」
すぐさま本題に移る。
「雑賀のロッカーの鍵は、どうやって開けたんだ?」
「ああ、それはね、鍵をもらったの」
「誰からもらったんだ? どんな鍵だ? いま、持ってるか?」
「そんなにたくさん質問されても、答えられないよ」
「ひとつずつ、答えやすいものから答えれば良い」
「もう返したから、いまは持ってない。鍵は、池永さんから渡された。鍵は小さかったよ。そうだね、家庭科の、裁縫セットに入ってる、糸通しみたいなサイズ。持ち手の部分が、五円玉くらいかな」
俺の思考は五秒ほど糸通しに奪われていた。どのようなものだったのかを思いだすのに時間が掛かったのだ。俺は裁縫が苦手だった。しかし、糸通しのことを考えている暇ではなかった。本題に戻らなければならない。
「マスターキーだな」俺は言った。「池永が、どうやって入手したかわかるか?」
「それは知らないけど、でも、先生から借りたんじゃないかな」
「先生から、そんな簡単に、借りられるものなのか?」
「わからないけど」
まずは、鍵の管理方法などを調べる必要があった。一旦、教師側にアプローチをする必要がある。ひとまず、浜砂先生を利用しようと考えた。
「柳井に協力して欲しいことがある」
「うん。わたしにできることなら、良いよ」
「俺が、自分のロッカーに財布を入れる。その財布から、千円を盗んで欲しい」
「なんで、そんなことしないといけないの?」
「説明すると長くなる」俺は言った。「頼んでも良いだろうか」
「うん、まあ、良いけど。それって、盗むっていう表現、変じゃない?」
俺は、その疑問には答えなかった。
柳井と共にロッカールームへと移動する。俺はロッカーに財布を入れ、鍵をかけずに扉を閉めた。そのあと、すぐに柳井がロッカーを開けて、俺の財布を取りだし、千円札を手に取った。
「はい。これで良いの? わけわかんないけど」
「その千円札は、しばらく持っておいて欲しい」
「えっと、預かっておくってことで良いの?」
「そうだ。後で返してくれると嬉しい」
「うん、そりゃ、返すけどさ。これ、なんの意味があるの?」
「俺は嘘を吐けないんだ」
柳井は、俺の言葉を理解できなかったようだ。
その後、柳井と別れ、俺はカウンセリング室へと向かった。ドアをノックすると「どうぞ」という声がきこえてきた。部屋に入ると、浜砂先生の後ろ姿が見えた。彼女は、部屋の奥に置かれている机に向かっている。キーを叩いている音がきこえた。パソコンを使っているのだろうか。くるり、と椅子を回転させて、彼女はこちらを見た。
「阿喰か」浜砂先生は言った。「何か悩みでも?」
「実は、ロッカーに入れていた財布から、お金が盗まれまして」
「それは、なんというか、面倒……じゃなくて、由々しき事態だ」息を吐く。「勘違いということは?」
「ありません。俺は自身の金を一円単位で、しっかり管理しています」
「犯人に心当たりはあるか?」
俺は答えなかった。何を言っても嘘になりそうな気がしたのだ。話を変えることにする。
「恐らく、犯人はロッカーのマスターキーを使用したのです。鍵が、どのように管理されているのか、そして、いまどこにあるのかを教えてください」