第15話 俺はお腹が痛いわけじゃない

文字数 3,161文字


「何か用?」ハーモニーは腕を組み、立ち止まる。

「特に用事があるわけではない」

「じゃあ、なんでわたしを待ってたの?」

「なんでもない。気にしないでくれ」

「気にするなって言われても」ハーモニーは眉をひそめる。「あんた、本当にわけわかんない」

 この世界にいるすべての人間は、概ね、わけがわからないと言える。わけのわかる人間などいるのだろうか。俺はそんなことを考えた。

 ハーモニーは溜息を吐いて、歩きはじめた。その後を追う。

「ちょっと。なんでついてくるの?」

「なんでもない。気にしないでくれ」俺は、さきほどと同じ台詞を言った。

 ハーモニーは三秒ほど俺を睨んでいたが、早足で歩きはじめた。置いていかれないように、急いでついていく。ロッカールームに到着した。ハーモニーが靴を履き替えている隙に、俺もフルスピードで履き替えた。こういうこともあろうかと、今日はすぐに脱げるよう、紐靴ではなくマジックテープで止められる靴にしておいた。

「ストーカー」

 そう吐き捨て、ハーモニーは第三多目的教室へと向かって歩いていく。

 俺は無言で、ハーモニーの後を追った。

 教室へと入り、ハーモニーはすっかり定番となった位置にバッグを置いた。俺も自分の席にバッグを置く。そのあと、ドアの隣に立った。いつでもハーモニーを監視できる状態だ。

「雑賀さん……わたし、いまストーカーに悩んでいるの」ハーモニーは俺を見て言った。

「そう。良かったじゃない。それは、愛されていることの証左でもある」

「愛が重すぎるんだよね」そう言って、ハーモニーは席へ着いた。

 しばらく、俺はドアの隣に立ち、ハーモニーを観察していた。そうしていると苅部がやって来る。始業七分前だった。

「あれ? どうしたの? 座らないの?」苅部が俺にきいた。

「諸事情があってな」

「監視されてるの」ハーモニーはそう言って、立ちあがった。

 こちらへと近づいてくる。そのまま、ドアを出ていった。俺もその後を追った。

「ついてくるな」

「俺の行動を規制する権利が、きみにあるだろうか?」

 俺の言葉を無視し、ハーモニーは進んでいく。そのまま女子トイレへと入っていった。

「あんたの行動は規制できないけど、入ってきたら、通報するからね」

「致し方なし」俺は女子トイレの前で待つことにした。

 待機すること一分程度。ハーモニーがハンカチで手を拭きながら、トイレから出てきた。どうやら小用だったようである。雑賀にトイレについて話すなと言われているので言わないけれど。

 俺は近づいていって、ハーモニーの匂いを嗅いだ。

「バカ。なにすんの。変態」

「確認だ」

「トイレのあとの匂いを嗅ぐとか、あんた本当にバカでしょ。気持ち悪いんだけど」

「仕方のないことなのだ」

 ハーモニーの匂いを嗅ぎたくて嗅いでいるわけではない。

 やむにやまれぬ事情があるのだ。

 ちなみに、香りは普通だった。問題はないと言える。

 そのまま、ハーモニーは教室へ戻っていった。俺もすぐ後を歩く。

「こいつ、トイレにまでついてきたんだけど」

 皆にきこえるようにだろうか、やや大きな声で言った。

「阿喰くん、ハーモニーさんのこと、好きなの?」苅部がきく。

「好きではない」

「もし、好きなんだとしても、そういうのは、良くないと思うなぁ」

「好きではない」誤解を招きかねない表現だと気づいた。「恋愛感情を抱いていないというだけであり、積極的に嫌いだとか、そういう意味ではない。ハーモニーが傷つく必要はない」

「あんたに嫌われてたとしても、まったく傷つかない」ハーモニーは言った。

 それから俺は、一日中、ハーモニーを追いかけることになった。休み時間、教室を出る度に、ハーモニーの後をつける。徐々に、ハーモニーの機嫌が悪くなっていった。これも、事前に予想していた通りである。しかし、俺に尾行されているから怒っているのか、あるいはべつの理由から怒っているのかは不明だった。

 四時間目の授業は物理だったが、ハーモニーは授業中、ずっと貧乏揺すりをしていた。いつもならばずっと眠っているはずだ。眠れないほど感情が高ぶっているらしかった。後ろに座る雑賀が、不快そうに、じっと睨んでいた。

 結局、その日は、昼まで、ずっとハーモニーから甘ったるい香りが漂ってこなかった。

 昼休みに入ってすぐ、ハーモニーは弁当箱を持って立ちあがった。

「切れそう」すでに切れているのでは、と思った。「いまから、ついてきたら殴るから」

「しかし、俺の行きたい方向にハーモニーがいる場合は、どうするんだ?」

「先にどこに行きたいのか言っておいてくれたら、そっちには行かない」

「どこに行きたいのかは、気分次第で決まる」

「教室から出るな」

「それは困る」トイレにも行けなくなってしまう。

「こいつ、捕まえておいて」ハーモニーは苅部を見ながら言った。

「うん」苅部はうなずく。「阿喰くん、今日はちょっとおかしいよ。なんで、ハーモニーさんに、そんな嫌がらせをするの?」

「彼がおかしいのは、いつものことでしょう」俺が反論しようとしたところで、雑賀が口を挟んだ。「ハミルさん、あなた、阿喰くんに後ろをつけまわされて、何か困ることでもあるの?」

「困るっていうか」ハーモニーは言った。「嫌でしょ。普通に」

「なにか、後ろめたいことでもあるのかしら?」挑発するように微笑む。

 なぜか、雑賀が協力してくれているようだった。

「今日は、やけに気が立っていますね」雑賀がハーモニーを見て言った。

「立ってない」ハーモニーは語気を荒げる。「いい。わかった。そこまで言うなら、もう教室から出ないから。監視でもなんでも好きにしたら」

 そういって、ハーモニーは席に座り、机に持参していたサンドイッチを広げはじめた。

 雑賀もひとりで食事を摂りはじめる。

 苅部は、何も食事を持ってきていなかったので、ひとりで学食へ行かせることにした。

「ついてきてくれないの?」

「ちょっと忙しくて、手が離せない状態だと言える」

「なんで、ハミルさんを追いかけてるの?」と苅部が小声で質問する。

「それは言えない」

「ふーん。まあ、良いけどね」

 ちょっとすねているようだった。面倒くさいやつだ。

 苅部は、ひとりで教室を出ていく。

 結局、ハーモニーは昼休みの間、一度も教室を出ることはなかった。

 しかし、五時間目の現代文の授業中、ハーモニーは不意に手を挙げた。

「すみません、先生、ちょっと体調が悪くて、保健室に行ってもよろしいでしょうか」

 女性の教師(名前は不明)に了承されたあと、ハーモニーは、ぐったりとしたようすで席を立ちあがる。少し体が揺れていた。ふらついている、という表現が正しいか。先生が、保健室へ同行しようかと申し出たが、ハーモニーはそれを断り、ひとりで教室を出ていく。その瞬間、こちらを見て、にやりと笑った。仮病なのだろう。

 俺は慌てなかった。むしろ好都合だと言える。

 ハーモニーが教室を去ってから三十秒後、俺は教師に退室したい旨を伝えた。

「えっと、理由は? 阿喰さんも、体調不良ですか?」

「秘密です」嘘は、つけなかった。

「バカ」雑賀が小さな声で言ったが、きこえていた。あるいはきこえるように言ったのかもしれない。「先生、阿喰くんは、お腹が痛いみたいです。昼休みから、ずっとお腹を気にしてましたから」

「俺はお腹が痛いわけじゃない」

 嘘はつかないのだ。

 雑賀は、深く溜息を吐いた。
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