第18話 きみ、殴られるのは大丈夫なほうか?
文字数 3,438文字
ハーモニーが犯人と約束した時間は、放課後だった。
授業を大過なく終え、放課後。
はたして、犯人はどのような人間だろうか、と想像しながら廊下を歩いた。ハーモニーからの情報で、女子生徒だということはわかっている。会話が通じる相手ならば良いと思ったが、しかし、俺と会話の通じる人間など、この世界にどれだけ存在しているだろう。存在していないかもしれない。大抵の場合、会話が通じたと思っても、それは錯覚に過ぎない。
教室では、苅部、ハーモニー、雑賀の三人が待機している。あとで、犯人との会話内容を報告することになっていた。
飼育小屋につづく細い道を通り抜ける。そこにはひとりの女子生徒が立っていた。ハーモニーの言う通り、黒い髪だった。背は低い。一五〇センチ半ばだろう。彼女は俺に気づいたようで、軽く頭を下げた。
「ハーモニーからきいているかもしれないが、俺は阿喰だ」右手を出した。
「柳井(やない)です」彼女は、再度頭を下げた。
手を握り返してはくれなかった。
柳井は、どこか怯えるような目をしていた。おどおどとして、落ち着かないようすだ。
俺は変化球を投げられない。単刀直入に行くことにした。
「雑賀更紗の靴を盗んだのは、きみか」
「はい。ごめんなさい」また頭を下げる。
「俺に対しての謝罪は不要だ。俺の靴が盗まれたわけではない。きみに謝罪の意志があるのであれば、雑賀に謝れば良い。また、謝罪というのは、それを行うだけであれば簡単だ。幾らでも表面上をすまなそうに取り繕うことができる。問題は、誠意のある対応を行えるかどうか」
つまりは、損害を補填しろ、ということだ。言葉による謝罪に、大した意味はない。
柳井は何も言わず、下を向いて黙っている。
コミュニケーションが成立しているのかどうか、よくわからなかった。
「俺の言葉がきこえているならば、こちらを見て欲しい」
柳井は、そっと、卑屈な視線をこちらに向けた。上目遣い、というのだろうか。その動作は、自身が弱者であることを熟知しているように思えた。わたしは弱いので、許してください、と言っているように思えてならなかった。もちろん、すべて俺の錯覚かもしれない。
「雑賀のことを嫌いなのか」俺は言った。「もしかしたら、きみが雑賀に何かをされており、その正当な復讐ということも考えられる。そうであれば、ハンムラビ法典以来の、やや中世的な解決策ではあるが、問題はないとも言える」
「あの、違うんです」柳井は小さな声で言った。「わたし、雑賀さんのことは、嫌いじゃありません。ただ、仕方なかったんです」
「仕方なかった」俺は彼女の言葉を繰り返した。「どういう意味だろうか」
「えっと、その」柳井は言葉を探しながら話す。「ある人に、命令されたんです」
「実行犯はきみだが、首謀者が他にいる、ということか」
柳井は小さくうなずいた。
「首謀者の名前を教えて欲しい」
「それは、ごめんなさい。できません」
柳井は俺から視線を外し、また、じっと地面を見はじめた。あるいは地面ではなくアリを見ているのかもしれない。
「誰に命令されたのだろう」俺は思考をそのまま口に出した。「先輩か、友達か、それとも他の誰かだろうか。なぜ、犯人の名前を言えないのか」
俺の言葉に、柳井は反応を返さなかった。
「首謀者は、雑賀に悪意を持っているのか?」
首謀者の名前を言えなかったとしても、それくらいは言えるかもしれないと期待した。
「わかりません。わたしは、ただ命令されただけですから」
日本の刑法では、犯罪を実行した側と、命令した側、どちらに重い罪科が課せられるのだろう。俺は法律には詳しくない。ケースバイケースかもしれない。単に、唆されたというだけならば、実行犯のほうが罪は重いだろう。暴力などにより威圧され、無理矢理実行させられたという場合は、教唆犯のほうが罪は重いかもしれない。よくわからない。
「きみ、殴られるのは大丈夫なほうか?」
「え? わたし、いまから殴られるんですか?」柳井は怯えているようだ。「そんなの、大丈夫な人なんていませんよ」
「俺は誰にも暴力を振るうことはない。ただ、雑賀はわからない。きみも知っての通り、とても凶暴な人間だ。覚悟をしておいたほうが良いだろう」
「謝っても、許してもらえないですよね」
「わからん。あの靴は二万円だと言っていた。きみは、幾らなら払える?」
「ごめんなさい。いま、自由に使えるお金は、そんなになくて」柳井は言った。「いまは、五千円しかありません。来月には、お小遣いが一万円入ります」
俺よりは随分と金を持っていると言える。
「ひとまず、雑賀に謝りに行こう。五千円を出して誠心誠意詫びれば、殴られないはずだ。万が一、殴られそうになった場合は、俺が盾になろう」
「ありがとうございます」柳井は俺に近づいてきた。「阿喰さんでしたっけ。お名前は?」
「阿喰有史」俺は答えた。「あまり興味はないが、一応、礼儀として、きみの名前もきいておこう」
「保美(やすみ)です」柳井は、少しむっとしたようだった。「柳井保美」
「良い名前だ」俺は御世辞を言った。「英語にすると柳井レストだな」
「なぜ、英語にする必要があるんですか?」柳井は言った。「保美は、美を保つと書きます」
「だとすれば美保になるぞ」
「保たれる美と書きます」と言い直した。
それならば、英語にすると柳井キープビューティだ、と思ったが、口には出さなかった。
それから俺と柳井は、第三多目的教室へと向かうことになった。俺が二メートルほど先を歩き、その後ろを、のろのろと幽霊のように柳井がついてくる。俺は柳井の歩調にあわせるため、存分にスピードを落としていたのだが、それでも少しずつ離れていった。途中で何度か振り返って、柳井がいることを確認しなければならなかった。
第三多目的室のドアの前に立ったところで、柳井が俺の制服を掴んだ。
「ちょっと待ってください。落ち着かせてください」
「存分に落ち着くと良い」
「落ち着けと言われて、落ち着けるものでもありませんけど」
「それならば、いつ行っても同じだ。きみが、誰かに命令されたという境遇を知れば、雑賀も少しは同情してくれるかもしれない。しかし、その媚びるような目はやめたほうがいい。きっと、雑賀は苛立つだろう」
「媚びてません」柳井の語調は、強くなっていた。少し苛立っているようだった。
「そう。それくらい強気なほうが、良いかもしれない」俺は言った。「深呼吸をしてくれ」
俺の命令通り、柳井は息を吸い、吐いた。
「財布から五千円を出しておくと良い」
柳井が千円札を五枚取りだした。
それを確認してから、俺は教室へとつづくドアを開けた。
雑賀の普段使用している机の近くに、苅部とハーモニーが立っていた。全員が、こちらに視線を向ける。背後で柳井が硬直したのが、空気を通して伝わってきた。雑賀は俺の背後に、射貫くような視線を向ける。柳井は、俺の服をそっと掴んだ。手が震えていた。怯えているのかもしれないし、あるいは、そのように演技をしているのかもしれない。
「柳井だ」俺は横に移動し、柳井の姿を皆に見せた。「雑賀の靴を盗んだ犯人のようだ」
「そう」雑賀は言った。「謝罪に来たの?」
「申しわけございません」柳井は、深々と頭を下げた。「あの、これ、少ないですが」
頭を上げて、握っていた五枚の千円札を雑賀のほうへと持っていく。
「あなた、わたしをバカにしていますね?」雑賀は柳井を睨みつける。
「足りない分は、毎月、少しずつ返しますから」柳井は言った。「許して頂けますか?」
「せめて封筒に入れるとか」雑賀は溜息を吐く。「指示を出したのは誰? ハミルさん? それとも、阿喰くん?」
「俺だ」名乗り出た。「雑賀に殴られないよう、まずは金を渡せとアドバイスをした」
「でしょうね。常人の発想ではないものね」雑賀は丁寧な口調で言った。「ちょっとこちらへ」
雑賀は俺に手招きをした。なんだろう、と思い近づいてみると。
ぎゅっと、尻の肉をつままれた。痛い。
「怒りは収まりました」俺の尻が犠牲になったけれど。「それでは、釈明をききましょう」
授業を大過なく終え、放課後。
はたして、犯人はどのような人間だろうか、と想像しながら廊下を歩いた。ハーモニーからの情報で、女子生徒だということはわかっている。会話が通じる相手ならば良いと思ったが、しかし、俺と会話の通じる人間など、この世界にどれだけ存在しているだろう。存在していないかもしれない。大抵の場合、会話が通じたと思っても、それは錯覚に過ぎない。
教室では、苅部、ハーモニー、雑賀の三人が待機している。あとで、犯人との会話内容を報告することになっていた。
飼育小屋につづく細い道を通り抜ける。そこにはひとりの女子生徒が立っていた。ハーモニーの言う通り、黒い髪だった。背は低い。一五〇センチ半ばだろう。彼女は俺に気づいたようで、軽く頭を下げた。
「ハーモニーからきいているかもしれないが、俺は阿喰だ」右手を出した。
「柳井(やない)です」彼女は、再度頭を下げた。
手を握り返してはくれなかった。
柳井は、どこか怯えるような目をしていた。おどおどとして、落ち着かないようすだ。
俺は変化球を投げられない。単刀直入に行くことにした。
「雑賀更紗の靴を盗んだのは、きみか」
「はい。ごめんなさい」また頭を下げる。
「俺に対しての謝罪は不要だ。俺の靴が盗まれたわけではない。きみに謝罪の意志があるのであれば、雑賀に謝れば良い。また、謝罪というのは、それを行うだけであれば簡単だ。幾らでも表面上をすまなそうに取り繕うことができる。問題は、誠意のある対応を行えるかどうか」
つまりは、損害を補填しろ、ということだ。言葉による謝罪に、大した意味はない。
柳井は何も言わず、下を向いて黙っている。
コミュニケーションが成立しているのかどうか、よくわからなかった。
「俺の言葉がきこえているならば、こちらを見て欲しい」
柳井は、そっと、卑屈な視線をこちらに向けた。上目遣い、というのだろうか。その動作は、自身が弱者であることを熟知しているように思えた。わたしは弱いので、許してください、と言っているように思えてならなかった。もちろん、すべて俺の錯覚かもしれない。
「雑賀のことを嫌いなのか」俺は言った。「もしかしたら、きみが雑賀に何かをされており、その正当な復讐ということも考えられる。そうであれば、ハンムラビ法典以来の、やや中世的な解決策ではあるが、問題はないとも言える」
「あの、違うんです」柳井は小さな声で言った。「わたし、雑賀さんのことは、嫌いじゃありません。ただ、仕方なかったんです」
「仕方なかった」俺は彼女の言葉を繰り返した。「どういう意味だろうか」
「えっと、その」柳井は言葉を探しながら話す。「ある人に、命令されたんです」
「実行犯はきみだが、首謀者が他にいる、ということか」
柳井は小さくうなずいた。
「首謀者の名前を教えて欲しい」
「それは、ごめんなさい。できません」
柳井は俺から視線を外し、また、じっと地面を見はじめた。あるいは地面ではなくアリを見ているのかもしれない。
「誰に命令されたのだろう」俺は思考をそのまま口に出した。「先輩か、友達か、それとも他の誰かだろうか。なぜ、犯人の名前を言えないのか」
俺の言葉に、柳井は反応を返さなかった。
「首謀者は、雑賀に悪意を持っているのか?」
首謀者の名前を言えなかったとしても、それくらいは言えるかもしれないと期待した。
「わかりません。わたしは、ただ命令されただけですから」
日本の刑法では、犯罪を実行した側と、命令した側、どちらに重い罪科が課せられるのだろう。俺は法律には詳しくない。ケースバイケースかもしれない。単に、唆されたというだけならば、実行犯のほうが罪は重いだろう。暴力などにより威圧され、無理矢理実行させられたという場合は、教唆犯のほうが罪は重いかもしれない。よくわからない。
「きみ、殴られるのは大丈夫なほうか?」
「え? わたし、いまから殴られるんですか?」柳井は怯えているようだ。「そんなの、大丈夫な人なんていませんよ」
「俺は誰にも暴力を振るうことはない。ただ、雑賀はわからない。きみも知っての通り、とても凶暴な人間だ。覚悟をしておいたほうが良いだろう」
「謝っても、許してもらえないですよね」
「わからん。あの靴は二万円だと言っていた。きみは、幾らなら払える?」
「ごめんなさい。いま、自由に使えるお金は、そんなになくて」柳井は言った。「いまは、五千円しかありません。来月には、お小遣いが一万円入ります」
俺よりは随分と金を持っていると言える。
「ひとまず、雑賀に謝りに行こう。五千円を出して誠心誠意詫びれば、殴られないはずだ。万が一、殴られそうになった場合は、俺が盾になろう」
「ありがとうございます」柳井は俺に近づいてきた。「阿喰さんでしたっけ。お名前は?」
「阿喰有史」俺は答えた。「あまり興味はないが、一応、礼儀として、きみの名前もきいておこう」
「保美(やすみ)です」柳井は、少しむっとしたようだった。「柳井保美」
「良い名前だ」俺は御世辞を言った。「英語にすると柳井レストだな」
「なぜ、英語にする必要があるんですか?」柳井は言った。「保美は、美を保つと書きます」
「だとすれば美保になるぞ」
「保たれる美と書きます」と言い直した。
それならば、英語にすると柳井キープビューティだ、と思ったが、口には出さなかった。
それから俺と柳井は、第三多目的教室へと向かうことになった。俺が二メートルほど先を歩き、その後ろを、のろのろと幽霊のように柳井がついてくる。俺は柳井の歩調にあわせるため、存分にスピードを落としていたのだが、それでも少しずつ離れていった。途中で何度か振り返って、柳井がいることを確認しなければならなかった。
第三多目的室のドアの前に立ったところで、柳井が俺の制服を掴んだ。
「ちょっと待ってください。落ち着かせてください」
「存分に落ち着くと良い」
「落ち着けと言われて、落ち着けるものでもありませんけど」
「それならば、いつ行っても同じだ。きみが、誰かに命令されたという境遇を知れば、雑賀も少しは同情してくれるかもしれない。しかし、その媚びるような目はやめたほうがいい。きっと、雑賀は苛立つだろう」
「媚びてません」柳井の語調は、強くなっていた。少し苛立っているようだった。
「そう。それくらい強気なほうが、良いかもしれない」俺は言った。「深呼吸をしてくれ」
俺の命令通り、柳井は息を吸い、吐いた。
「財布から五千円を出しておくと良い」
柳井が千円札を五枚取りだした。
それを確認してから、俺は教室へとつづくドアを開けた。
雑賀の普段使用している机の近くに、苅部とハーモニーが立っていた。全員が、こちらに視線を向ける。背後で柳井が硬直したのが、空気を通して伝わってきた。雑賀は俺の背後に、射貫くような視線を向ける。柳井は、俺の服をそっと掴んだ。手が震えていた。怯えているのかもしれないし、あるいは、そのように演技をしているのかもしれない。
「柳井だ」俺は横に移動し、柳井の姿を皆に見せた。「雑賀の靴を盗んだ犯人のようだ」
「そう」雑賀は言った。「謝罪に来たの?」
「申しわけございません」柳井は、深々と頭を下げた。「あの、これ、少ないですが」
頭を上げて、握っていた五枚の千円札を雑賀のほうへと持っていく。
「あなた、わたしをバカにしていますね?」雑賀は柳井を睨みつける。
「足りない分は、毎月、少しずつ返しますから」柳井は言った。「許して頂けますか?」
「せめて封筒に入れるとか」雑賀は溜息を吐く。「指示を出したのは誰? ハミルさん? それとも、阿喰くん?」
「俺だ」名乗り出た。「雑賀に殴られないよう、まずは金を渡せとアドバイスをした」
「でしょうね。常人の発想ではないものね」雑賀は丁寧な口調で言った。「ちょっとこちらへ」
雑賀は俺に手招きをした。なんだろう、と思い近づいてみると。
ぎゅっと、尻の肉をつままれた。痛い。
「怒りは収まりました」俺の尻が犠牲になったけれど。「それでは、釈明をききましょう」