第26話 お互いに尻を奪い合ったわけではない

文字数 3,464文字

 六時間目は、ロングホームルームだった。

 ほかのクラスでは、体育祭の競技について話し合っているらしいが、特別クラスには無関係である。参加したいならばしても良いし、したくなければしなくても良い、ということになっていた。

 授業の途中で、ハーモニーが荷物を持って抜け出した。どうやら、早退したようである。

 教室には、俺と苅部、そして雑賀が残っていた。席はいつもの通り、俺と苅部が隣同士で、雑賀だけが離れていた。

 話題は、自然と放課後の池永との件になる。

 授業が終わり次第、柳井が第三多目的室へと来てくれることになっていた。

「大丈夫かなぁ」苅部が言った。「僕も、一緒についていこうか?」

「俺と、もうひとりなら守れるが、ふたりとなると、守れるかどうかわからない」

「池永さんって、そんなに危険な人なの?」

「見たところ、ただの女子生徒だった」

「やっぱり、人数は多いほうが良いと思うんだよね」苅部は言った。「雑賀さんも、一緒にどう?」

「遠慮しておきます」雑賀は言った。「阿喰くん、ちょっとこちらへ」

 命令に従い、俺は雑賀の隣へと移動した。

「これを」

 雑賀は、バッグからクリアホルダーを取り出した。

「一般的にはクリアホルダーと呼ばれているが、実際には、透明ではなく半透明なので、その名称は誤っている」

「英語では、クリアフォルダーが正しい」雑賀が言った。「半透明はトランスルーセント」

 俺たちの会話は、噛みあっているようで、まったく噛みあっていなかった。お互いに好きなことを話している状態である。会話なんて、そのようなものだ。

「中身を」雑賀は小さな声で言った。

 雑賀は、よく言葉を省略する。その度に、省略された言葉は何かを想像しなければならない。中身を、の後ろはなんだろう。中身を捨てろ、だろうか。きっと、中身を見ろ、ではないかと想像して、クリアフォルダーから書類を取り出した。

 それは、模試の成績表のようだった。

 名前欄には、雑賀更紗と印字されている。

 どの項目も高得点であり、偏差値のメーターが限界付近まで振り切っていた。全国順位を見ると、すべて一桁台だった。現代文で、一位を取っている。

「素晴らしい」俺は言った。「褒めてほしくて俺に見せたのか?」

「そういうことにしておきましょう」

 模試の成績表は、幾つもあった。小学生の頃から、ずっと全国模試を受けつづけているらしい。雑賀の良いところは、勉学が無駄だと知りつつ努力しているところだ。何か目的があって勉強をしているわけではない。その無駄が美しい。高貴だと言える。

 フォルダーには、少し厚い冊子が挟まっていた。

 ぱらぱらとめくってみると、全国模試の上位者の名前が載っているリストだった。

 個人情報は大丈夫なのだろうか、と一瞬だけ考える。もともと、模擬試験を受験する際に、冊子掲載の可否をきいているのだろう。きっと。

「それ、去年二月の全国模試?」苅部が会話に入ってきた。

 俺は表紙を確認してから答えた。

「そうみたいだ」

「僕も載ってるよ」苅部が近づいてきて、冊子を奪った。「ほら、ここ」

 数学ランキングの、二十三位に苅部の名前が載っていた。

「すごいじゃないか」俺は素直に褒めた。

「なんだか、わたしのときよりも褒めていませんか?」雑賀が不満を口に出す。

「あまりにも予想外だったものだからな」

 雑賀はずっと努力をつづけている。高い点数を取っても、すごいとは思うが、それほど驚きはない。

 それに比べて、普段、苅部の勉学に関する才覚が発揮される場面は少ない。授業中も、にこにこと笑顔で教師の話をきき、ノートを取っているだけである。失礼なことを言うようだが、あまり頭が良いようには見えなかった。だから意表をつかれ、驚いたのである。正直に言えば、俺よりも頭が悪いのではないか、と想像していた。

「数学だけはね、昔から好きなんだな」

 そうなると、以前、ロッカーの鍵を開けるのに何秒かかるか、みたいな話をしていたとき、苅部がバカな質問をしたのは、どういうことだろう。計算が苦手ならば、このような成績は取れないはずだ。わざと、自分の能力を低く見せた、ということかもしれない。能ある鷹は爪を隠す、ということわざもある。俺は苅部の評価を微修正した。なかなか複雑な男である。

 手もとの冊子を眺めていると、見知った名前があることに気がついた。どの科目も、十五位前後に柳井の名前がある。意外といえば意外だ。十五位でも全国トップクラスであることには変わりなく、十分素晴らしい成績である。それなのにも関わらず、やはり雑賀がいるので、見劣りしてしまうのは否めなかった。

 ざっと冊子を見たが、ハーモニーの名前はなかった。模試を受けていないのか、あるいは受けていたけれども成績が悪かったのか。恐らくは後者だろう。常に授業で寝ているような人間が、模試で良い成績を出せるわけがない。もしかしたら、あれは仮の姿であり、家では猛勉強をしているのかもしれない。そうだとすれば面白い。

「次回の模試は、あなたも冊子に載りなさい」雑賀が俺を見て言った。

「なかなか無茶を言う」面白いジョークだと言えた。

「得意な科目は?」まさか、ジョークじゃないのか?

「体育だが」これはジョークだ。

「五教科で」

「強いて言えば英語だ」

「入試では、どれくらい取れたの?」雑賀が尋ねた。

「しらん。点数の開示請求をしなかったのでな」

 入学して早々、入学試験で何点を取れていたのか、請求をすれば調べることができた。しかし、いまさら点数を知ったところで、どうなるわけでもないため、放っておいたのだ。

「中学生の頃に受けた模試は?」とさらに雑賀が質問をする。

「模試も、受けたことがないので、よくわからない」

「そう、なるほど」雑賀は言った。「学校の定期テストでは、何点くらいを取っていたの?」

「八十点台が多いな。たまに九十点。まあ、そこまで勉強ができるわけでもない」

「あら、あなた、バカじゃないのね」雑賀は、少し俺を見直してくれたようだった。

「僕はね、数学だけは、いつも百点だったよ」苅部が言った。「他は、まあ、そこそこ」

「あなたはバカね。数学バカ」

 同感である。

 そのような話をしているうちに、六時間目が終わった。いよいよ、池永と話し合いをしなければならない。まだ、どのような話をするのかは決めていなかった。あらかじめ、あれこれと考えていても、想定通りになることは少ない。出たとこ勝負のほうが面白いだろう、と思う。

 しばらく教室で待っていたが、柳井は一向に現れない。このままだと、池永を待たせることになってしまう。もしかしたら、臆して逃げたのかもしれない。その可能性は充分に考えられた。仕方ないので、柳井を待つのはやめて、苅部とふたりで飼育小屋へ行くことにした。

 飼育小屋に、池永の姿はなかった。柳井の姿もなかった。まだ来ていないのだろうと思い、苅部とふたりでしりとりをして待っていた。しりとりといっても、ゲームのほうのしりとりである。お互いに尻を奪い合ったわけではない。

「来ないね」苅部が、左手に巻いた腕時計を確認した。「そろそろ、授業が終わって三十分になるけど」

「放課後とだけ言われたからな。いつまで待っていれば良いのかわからん」

「幅、広すぎ。放課後って、いつまでが放課後なんだろう?」

「わからないが、完全下校時刻までじゃないか?」

 完全下校時刻は、春から夏にかけてが七時、秋から冬にかけてが六時半だった。

 しかし、今日の放課後とは指定されなかった。もしかしたら、違う日の放課後かもしれない。もっとしっかり話し合っておくべきだった、と後悔する。

 苅部は疲れたようで、地面に座り込み、携帯端末をさわっていた。

「あ、柳井さんからメッセージが着てる」苅部は俺を見上げた。「阿喰くんのアイディーを教えて欲しいって」

 アイディーを教えると、メッセージを送ったり、通話ができるようになる。

「柳井と知り合いなのか?」

「昨日、SNSを通じて申請が来たの」苅部は言った。「それで、教えて良い?」

「問題ない」俺は言った。「何かトラブルでもあったのか?」

「えっとね、よくわからないけど、いま、駅にいるんだって」
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