第01話 男と女に大した違いはない。人と犬の差に比べたら微差だ
文字数 3,284文字
教室の室名札には、第三多目的教室と書かれていた。
手に持ったプリントと見比べる。そのプリントには、校内地図の一部を拡大したものが印刷されていた。午前八時三十分までに、第三多目的教室に来るように、と書かれている。
ポケットに入れてあった携帯端末を取りだし、時刻を確認した。
五月十五日、月曜日、午前八時十五分。少し早いが、問題はないだろう。
俺は、自分が緊張しているのを自覚した。深く息を吸って、吐く。
その動作を三回繰り返してから、ドアに手をかけ、ゆっくりと押した。
たくさんの視線がこちらを向くだろう、と想像していたけれど、そのようなことにはならなかった。教室には、ふたりしか生徒がいなかった。
ひとりは女子生徒である。入室した俺を一瞥もしない。黙々とシャープペンシルを動かしていた。机には問題集とノートが広げられている。どうやら勉強をしているようだ。髪は黒く、肩の辺りまで伸びている。結構背が低い。俺とは二十センチくらい違うのではないか。百五十センチほどだな、と目測する。それより低い可能性もある。ジャケットが椅子の背に掛かっていた。暑がりなのかもしれない。
もうひとりの人物は男だった。座っているので確かなことはわからないが、身長は俺よりも十センチほど低いようだ。たぶん、百六十五センチくらいだろう。紺色のジャケットを着ている。寒がりなのかもしれない。男は、こちらに媚びるような、淡い笑顔を見せる。
教室は、普通の教室、つまり三十人から四十人を収容するためにつくられた教室の、半分程度の広さしかなかった。教室には、一人用の机ではなく、キャスターのついた白い長机が置かれている。正面から見て、左手に縦二列、右手に縦二列、合計四つの机が並べられていた。ひとつの机に、三つの椅子が置かれている。
教室に入ってすぐ手前、廊下側の前列に男子生徒が、そして奥側の窓際の後列に女子生徒が座っている。
正面の壁には、白いホワイトボードが埋め込まれていた。そのボードには、お好きな席におかけになってください、と書かれている。
俺は少し考えて、男子生徒のほうへ近づくことに決めた。
「おはよう」俺は言った。「早いな」
「うん、おはよう。でも、あの子のほうが、もっと早かったよ」と女子生徒を指す。「僕は五分前に来たんだけど、そのときには、もういたから」
「殊勝なことだ」殊勝の意味は知らないが、こういう状況のときに使うのだろう、ということは知っている。「隣の席に座ってもいいか?」
「もちろん」男子生徒は笑顔でうなずいた。「ひとりでさびしかったよ」
「ふたりだったはずだ」俺は言った。「あの女子とは、話をしなかったのか?」
「挨拶をしたんだけど」男子生徒は小声で言う。「無視されたから、怖くて、話しかけられなかったよ」
「勉強に集中していて、きこえなかったんだろう」
「でも、ちらっとこっちを見て、それからまた、勉強に戻ったんだよ」
「嫌われているんだな。可哀想に」
「嫌われるようなこと、してないけどなぁ」
「たとえ嫌われていたとしても、大した問題ではない。生きていれば、誰かに嫌われることなど日常茶飯だ」
「きみ、阿喰くんだよね」と急に話を変えてきた。
どうやら、名前を知られているようだった。
ひとまず自己紹介でもしておこう。
「俺は、阿喰有史(あじきありふみ)だ」
「僕は苅部(かりべ)だよ」
「下の名前は?」
「一帆(かずほ)」
「良い名前だな」俺は御世辞を言っておいた。特に良いとは思っていない。
「そうかなぁ。ちょっと、女の子っぽいから、嫌なんだけど」
「男と女に大した違いはない。人と犬の差に比べたら微差だ。気にする必要はない」
「人と犬を比べちゃダメだと思う」苅部は言った。「まあ、よろしくね」
苅部は右手を差しだした。
「これは、握手を望んでいるのか?」と俺は尋ねた。
「うん。そうだけど。どうして?」
「苅部が右手を差しだした動作から、恐らく握手を望んでいるのだろう、と推測はできた。しかし、俺の勘違いだった場合は大変失礼なことになるので、一応、確認を取ったというわけだ」
「へぇ。なんか、理屈っぽいね」
「その評価は、非常に高い頻度で言われる」
その言葉に、苅部は小さく吹きだした。
「なにか面白かったか?」
「ごめんね。笑ったら悪いと思ったんだけど、ちょっと面白くて」
「なにが面白かったんだ?」面白いことを言ったつもりはなかった。
「いや、言葉の選び方が独特だなって。怒った? ごめんね」
「怒っていない」俺は言った。「怒っているか、という質問も、高い頻度で受ける。しかし、俺は怒りを感じることは少ない。現在は、非常に冷静であると、自分の状態を評価している」
「勘違いされやすいんだね」
「そのようだ」
「阿喰くんは、ちょっと、言葉がきついんだと思うよ」
「攻撃的な言葉は、使っていないつもりだ」
「断定口調だからかな。でも、なんとなく、阿喰くんのことがわかった気がする」
「錯覚だろう。ほんの数分しか話していないのに、理解することなど不可能だ」
「うん。そういうところが、良いよね」
「そのような評価をされたのは、はじめての経験だと言える」
俺がそう言うと、苅部は、また小さく笑った。笑い上戸というやつかもしれない。
時刻を確認するために携帯端末を取りだそうかと考えたが、正面の壁上方に、シンプルな丸時計が備えつけられていた。現在時刻は、八時二十五分だ。
隣に座る苅部を見ると、笑顔でこちらに視線を返してくれた。
何か話題はないだろうか、と考える。俺は、雑談を苦手としていた。周囲を見まわして、話題になりそうなものを探す。
「あのホワイトボードに書かれている、『お好きな席におかけになってください』という一文だが、どの椅子も同じメーカーのものであり、大した差があるとは思えない。好みの椅子を発見するのは、至難だと言える」
「席っていうのは、椅子のことじゃなくて、どこでも好きなところに座ってくださいっていう意味じゃないかな」
なるほど。一理ある。
「そうだとしても、俺が、この教室を訪れたのは初めてだ。どの座席に対しても、感情はフラットだ。好きでもないし、嫌いでもない」
「じゃあ、なんで僕の隣に来てくれたの?」
「そうだな、なぜだろう」俺は黙り、十秒考えた。大抵の思考は、十秒あれば、まとめることができる。「苅部の笑顔が素敵だったからだろう」
「ちょっと、なにそれ。照れちゃうな」やや顔を赤く染めていた。
「しかし、その笑顔は策略に過ぎず、心の奥底ではひどいことを考えているのかもしれない、という疑念も捨てきれていない」
「捨ててよ。考えてないから。大丈夫だから」
そのような会話をしていると、時刻は八時三十分になった。
「俺は、このクラスの教師を軽蔑することにした」
「急に何を言い出すのさ」
「時間に遅れるような人間は最低だ」
「何か事情があるのかもしれないじゃない?」
「事情があるにしても、遅刻する際は連絡を入れるべきだ」
「うん、まあ、友達ならそうだけど。先生から生徒に、どうやって連絡を入れるのさ」
「生徒に連絡用のツールを配布しておけばよい。メッセージを送れる簡易なもので構わない」
「そうすると、学校の外で会おうとする教師とかが出てくるんじゃないかな」
苅部の反論は、想定済みだった。
反論しようと考えたところで、教室のドアが開いて、背の高い女性が入ってきた。俺と同じくらいか、もう少し高い。百七十センチ以上はあるだろう。黒いスーツを着ていた。
「おはよう」と女性は言った。
「先生、遅刻は関心しませんね」俺は忠告してさしあげた。
「なるほど」先生はうなずいた。「それでは、今日からこのクラスの始業は、八時三十五分にしよう」
手に持ったプリントと見比べる。そのプリントには、校内地図の一部を拡大したものが印刷されていた。午前八時三十分までに、第三多目的教室に来るように、と書かれている。
ポケットに入れてあった携帯端末を取りだし、時刻を確認した。
五月十五日、月曜日、午前八時十五分。少し早いが、問題はないだろう。
俺は、自分が緊張しているのを自覚した。深く息を吸って、吐く。
その動作を三回繰り返してから、ドアに手をかけ、ゆっくりと押した。
たくさんの視線がこちらを向くだろう、と想像していたけれど、そのようなことにはならなかった。教室には、ふたりしか生徒がいなかった。
ひとりは女子生徒である。入室した俺を一瞥もしない。黙々とシャープペンシルを動かしていた。机には問題集とノートが広げられている。どうやら勉強をしているようだ。髪は黒く、肩の辺りまで伸びている。結構背が低い。俺とは二十センチくらい違うのではないか。百五十センチほどだな、と目測する。それより低い可能性もある。ジャケットが椅子の背に掛かっていた。暑がりなのかもしれない。
もうひとりの人物は男だった。座っているので確かなことはわからないが、身長は俺よりも十センチほど低いようだ。たぶん、百六十五センチくらいだろう。紺色のジャケットを着ている。寒がりなのかもしれない。男は、こちらに媚びるような、淡い笑顔を見せる。
教室は、普通の教室、つまり三十人から四十人を収容するためにつくられた教室の、半分程度の広さしかなかった。教室には、一人用の机ではなく、キャスターのついた白い長机が置かれている。正面から見て、左手に縦二列、右手に縦二列、合計四つの机が並べられていた。ひとつの机に、三つの椅子が置かれている。
教室に入ってすぐ手前、廊下側の前列に男子生徒が、そして奥側の窓際の後列に女子生徒が座っている。
正面の壁には、白いホワイトボードが埋め込まれていた。そのボードには、お好きな席におかけになってください、と書かれている。
俺は少し考えて、男子生徒のほうへ近づくことに決めた。
「おはよう」俺は言った。「早いな」
「うん、おはよう。でも、あの子のほうが、もっと早かったよ」と女子生徒を指す。「僕は五分前に来たんだけど、そのときには、もういたから」
「殊勝なことだ」殊勝の意味は知らないが、こういう状況のときに使うのだろう、ということは知っている。「隣の席に座ってもいいか?」
「もちろん」男子生徒は笑顔でうなずいた。「ひとりでさびしかったよ」
「ふたりだったはずだ」俺は言った。「あの女子とは、話をしなかったのか?」
「挨拶をしたんだけど」男子生徒は小声で言う。「無視されたから、怖くて、話しかけられなかったよ」
「勉強に集中していて、きこえなかったんだろう」
「でも、ちらっとこっちを見て、それからまた、勉強に戻ったんだよ」
「嫌われているんだな。可哀想に」
「嫌われるようなこと、してないけどなぁ」
「たとえ嫌われていたとしても、大した問題ではない。生きていれば、誰かに嫌われることなど日常茶飯だ」
「きみ、阿喰くんだよね」と急に話を変えてきた。
どうやら、名前を知られているようだった。
ひとまず自己紹介でもしておこう。
「俺は、阿喰有史(あじきありふみ)だ」
「僕は苅部(かりべ)だよ」
「下の名前は?」
「一帆(かずほ)」
「良い名前だな」俺は御世辞を言っておいた。特に良いとは思っていない。
「そうかなぁ。ちょっと、女の子っぽいから、嫌なんだけど」
「男と女に大した違いはない。人と犬の差に比べたら微差だ。気にする必要はない」
「人と犬を比べちゃダメだと思う」苅部は言った。「まあ、よろしくね」
苅部は右手を差しだした。
「これは、握手を望んでいるのか?」と俺は尋ねた。
「うん。そうだけど。どうして?」
「苅部が右手を差しだした動作から、恐らく握手を望んでいるのだろう、と推測はできた。しかし、俺の勘違いだった場合は大変失礼なことになるので、一応、確認を取ったというわけだ」
「へぇ。なんか、理屈っぽいね」
「その評価は、非常に高い頻度で言われる」
その言葉に、苅部は小さく吹きだした。
「なにか面白かったか?」
「ごめんね。笑ったら悪いと思ったんだけど、ちょっと面白くて」
「なにが面白かったんだ?」面白いことを言ったつもりはなかった。
「いや、言葉の選び方が独特だなって。怒った? ごめんね」
「怒っていない」俺は言った。「怒っているか、という質問も、高い頻度で受ける。しかし、俺は怒りを感じることは少ない。現在は、非常に冷静であると、自分の状態を評価している」
「勘違いされやすいんだね」
「そのようだ」
「阿喰くんは、ちょっと、言葉がきついんだと思うよ」
「攻撃的な言葉は、使っていないつもりだ」
「断定口調だからかな。でも、なんとなく、阿喰くんのことがわかった気がする」
「錯覚だろう。ほんの数分しか話していないのに、理解することなど不可能だ」
「うん。そういうところが、良いよね」
「そのような評価をされたのは、はじめての経験だと言える」
俺がそう言うと、苅部は、また小さく笑った。笑い上戸というやつかもしれない。
時刻を確認するために携帯端末を取りだそうかと考えたが、正面の壁上方に、シンプルな丸時計が備えつけられていた。現在時刻は、八時二十五分だ。
隣に座る苅部を見ると、笑顔でこちらに視線を返してくれた。
何か話題はないだろうか、と考える。俺は、雑談を苦手としていた。周囲を見まわして、話題になりそうなものを探す。
「あのホワイトボードに書かれている、『お好きな席におかけになってください』という一文だが、どの椅子も同じメーカーのものであり、大した差があるとは思えない。好みの椅子を発見するのは、至難だと言える」
「席っていうのは、椅子のことじゃなくて、どこでも好きなところに座ってくださいっていう意味じゃないかな」
なるほど。一理ある。
「そうだとしても、俺が、この教室を訪れたのは初めてだ。どの座席に対しても、感情はフラットだ。好きでもないし、嫌いでもない」
「じゃあ、なんで僕の隣に来てくれたの?」
「そうだな、なぜだろう」俺は黙り、十秒考えた。大抵の思考は、十秒あれば、まとめることができる。「苅部の笑顔が素敵だったからだろう」
「ちょっと、なにそれ。照れちゃうな」やや顔を赤く染めていた。
「しかし、その笑顔は策略に過ぎず、心の奥底ではひどいことを考えているのかもしれない、という疑念も捨てきれていない」
「捨ててよ。考えてないから。大丈夫だから」
そのような会話をしていると、時刻は八時三十分になった。
「俺は、このクラスの教師を軽蔑することにした」
「急に何を言い出すのさ」
「時間に遅れるような人間は最低だ」
「何か事情があるのかもしれないじゃない?」
「事情があるにしても、遅刻する際は連絡を入れるべきだ」
「うん、まあ、友達ならそうだけど。先生から生徒に、どうやって連絡を入れるのさ」
「生徒に連絡用のツールを配布しておけばよい。メッセージを送れる簡易なもので構わない」
「そうすると、学校の外で会おうとする教師とかが出てくるんじゃないかな」
苅部の反論は、想定済みだった。
反論しようと考えたところで、教室のドアが開いて、背の高い女性が入ってきた。俺と同じくらいか、もう少し高い。百七十センチ以上はあるだろう。黒いスーツを着ていた。
「おはよう」と女性は言った。
「先生、遅刻は関心しませんね」俺は忠告してさしあげた。
「なるほど」先生はうなずいた。「それでは、今日からこのクラスの始業は、八時三十五分にしよう」