第23話 虎の威を借るなんとやら

文字数 3,138文字

 雑賀の隣に座って、始業のベルを待っていた。特にすることもない。雑賀が参考書に取り組んでいるのを、じっと見ていた。観察していてわかったのは、雑賀の字が異常に汚いということだ。そして、ほとんどの時間はシャープペンシルを握ってすらいない。無地のハガキで答えを隠し、次の瞬間に答えを見るという作業を繰り返している。

「そんな勉強法で、知識が身につくのか?」

「社会科はこれが、現時点で最強」最強。良い言葉だった。「書くと、たしかに記憶には残りやすくなるけれど、時間がかかる。口に出すのも同じ。頭のなかでイメージするのが、もっとも早い。少なくとも、わたしにはあっている」

「雑賀は、どれくらい頭が良いのだろう」

「全国模試では、常に一桁。一位は、なかなか取れないけれど」

 トップランカーだった。

「わたしの言うことを疑っていますね?」

「いや、素直に尊敬している」本当だった。

「明日、模試の結果を見せますから」

「ありがとう」

 べつに疑っていたわけではないが、しかしランキングを見るのも面白いだろうと思った。

 雑賀を観察していると、苅部が登校してきた。

「おはよう」俺は言った。雑賀は何も言わなかった。

「なんか、仲良いね」

「勝手に隣に座ってきて、セクハラされています」雑賀が言った。

「これは嘘だ」何を言いやがる。「雑賀が隣に座れと命令したのだ」

「ああ、うん、どっちでもいいけど」苅部は言った。「僕も隣に座っていい?」

 現在、窓際に雑賀、中央よりに俺が座っている形である。テーブルは横に広いため、三人が並んでもそれほど狭くはないはずだった。俺は席を詰めようとしたが、雑賀が広げている参考書に接触しそうになったので、あまり詰められなかった。雑賀がふたり分のスペースを取っているのだ。苅部は俺の隣に座る。

「ちょっと狭いかも」苅部が微笑む。「なんか、近いと緊張するね」

「近いとよく見える」俺は言った。「きみは、やはり可愛いと言えるな」

 ひとまず、褒めておけばなんとかなる、と姉は言っていた。指示通り、褒めておくことにした。

「だから、その、可愛いとか言うの、セクハラだからね」

「嫌ならば、素直に謝る。申しわけない」

「嫌じゃないけどさ」苅部は言った。「恥ずかしいよ。もっと、格好良いとか言われたいな」

「格好良くはない」俺は苅部の頭から足までを、ざっと眺めた。「筋肉もない。背も男にしては高くない。足は長いが、細い。色白だ」

「なんか、阿喰くんって変態っぽい」

「俺は変態ではないと思うが、それは、ハーモニーにも言われたな」

 噂をすれば陰ではないが、ハーモニーが教室に入ってきた。始業までは、あと五分しかない。

「きいたよ」ハーモニーは、にんまりと、嫌らしい笑みを浮かべていた。「あんたたち、つきあいはじめたんだって?」

「え? 違うよ。そんなわけないじゃん。バカなの? 男同士だよ?」苅部が必死に否定する。

「いや、あんたたちじゃなくて」

 どのあんたたちだろう。苅部と雑賀かもしれないな、と考えた。そうだとすれば、どのように祝福すれば良いだろうか。

「雑賀と、阿喰」ハーモニーは、雑賀を指したあと、俺のほうに指をスライドさせた。「手を繋いで登校してたってきいたけど」

「あなた、噂話をする友達がいるの?」雑賀が失礼なことをきいた。

「いるよ。普通に。外では猫被ってるし」

「虎でしょう?」

 虎の威を借るなんとやら、という言葉を思い出したが、その下に来る動物が思い出せない。虎の威を借る猫だっただろうか、と考える。雑賀は、ジョークを言ったのかもしれない。無知が故に、雑賀のジョークを理解できなくて、申しわけない気持ちになった。

「それで、どうなの? つきあいはじめたの?」

「ええ、そうね」雑賀はうなずいた。「そうなりました」

「そうなのか?」俺は驚いた。「初耳だ」

 隣をみると、苅部も驚いているようすだった。現実に目を丸くしている人間をみたのは、これがはじめての経験である。日常生活を営んでいて、それほどまでに驚いている人間をみることは少ない。

「阿喰なんかの、どこが良いの?」ハーモニーは失礼なことを尋ねた。

「頭のおかしいところ」雑賀は失礼なことを即答した。

「納得」ハーモニーは微笑んだ。「あんたたち、その点に関しては、超お似合い」

 ハーモニーは自席へと座った。俺たちの前のテーブルである。ハーモニーは、いつも真ん中に陣取り、ひとつの机をすべて荷物置きにしている。左右の荷物に囲まれて、眠る。どことなく狭いところを好む猫を連想させられた。

「そうなんだ。知らなかった。驚いたなぁ」苅部が立ちあがる。「御邪魔しちゃ、悪いよね」

「空気を読んでくれて、どうもありがとう」と雑賀が言った。

「どういうことだ?」さっぱり、わけがわからない。「苅部、どこへ行くんだ? トイレか?」

「いや、違う席に移ろうと思って。ふたりの邪魔をしちゃ悪いだろうし」

「苅部は、俺の邪魔にはならない」

「でも、雑賀さんの邪魔にはなるかもだし」

「なっています」雑賀が言った。

「ほら」苅部が苦笑する。

「そうか、わかった。それならば仕方がない。さらばだ」

 俺は苅部が隣にいてくれても構わなかったのだが、雑賀が嫌なのであれば仕方がない。

 それにしても、俺と雑賀がつきあっていたとは、知らなかった。いつの間につきあっていたのだろう。恋愛関係になろうと提案した記憶はなかったし、された記憶もなかった。もしかしたら、雑賀が朝にした、手を繋ごうという提案は、これから共に、手を繋いで生きていこうという隠喩だったのかもしれない。人間世界の風習には、わけのわからないものも多い。俺は別段、雑賀とつきあいたいわけではなかったが、手を繋いでしまった以上、仕方がない。諦めることにした。

 浜砂先生が教室に入ってきて、すぐにこちらをちらりと見た。そして視線を外し、何かを話そうとしたところで、もう一度こちらを見た。

「おかしな組み合わせだな」浜砂先生は言った。

「おかしいというのは、funnyですか、それともinterestingでしょうか?」俺はきいた。

「あるいはenjoyableかもしれない」浜砂先生は言った。「奇妙な取り合わせだ」

 strangeだったらしい。

「研究対象としては、interestingだな」ぼそりと小さな声で言って、浜砂先生はホームルームをはじめた。

 一時間目が終わったあと、すぐに苅部が近づいてきた。

「それにしても、驚いたなぁ。どっちから告白したの?」

「阿喰くんです」雑賀が言った。「熱烈に告白されたので、仕方なく受けました」

 俺の認識とは相違があったが、まあ、気にするほどのことでもないだろう。

「雑賀さんの、どういうところを好きになったの?」

「えっと」まだ好きにはなっていなかった。必死に考える。難問だ。九秒かかった。「顔は良い。体も、薄いけれど、まあまあ良い。頭も、とても良い。非の打ち所は、性格くらいだと言える」

 そして、そこが最大の問題である。

「見た目重視ってこと? ちょっと幻滅かも」幻滅されてしまった。「雑賀さんは?」

「そうですね」雑賀は、長く黙った。二十秒経ち、ようやく言った。「やさしいところ?」

 なぜか、語尾が上がっている。疑問形だった。

「そうだよね。阿喰くんって、なんか、冷たいようで、熱いよね」

「矛盾している」俺は指摘した。

「そこが良いんだよ」苅部は微笑んだ。
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