第28話 たとえ、きみが俺に殴って欲しかったとしても、殴らない
文字数 3,117文字
翌日、五月二十四日、水曜日。
放課後、飼育小屋の近くで、人を待っていた。
最近、飼育小屋に来る頻度が高い。学校内で、あまり人に見られることなく会話のできる場所といえば、飼育小屋の近辺しか知らなかった。多くの人々には忘れ去られている。またいつか、飼育小屋で動物を飼うようになれば、事情も変わるのだろうけれど。
約束していた時刻の二分前に、その人物は現れた。
池永たちとテーブルを囲んでいた、短い黒髪の少女。ヨッシーと呼ばれていた人物だ。
「ヨッシー、よく来てくれたな」
「あなたは、えっと……阿喰さん、ですよね」
「その通りだ」名前を覚えていてくれたらしい。「俺も、本当はきみのことを名字で呼びたいのだが、思い出せない。失礼を許していただけるとありがたい」
「吉井です」小さな声で答えた。
「ほぼヨッシーだな」伸ばせばそうなる。
どうしても、ヨッシーのほうがイメージとして強く残ってしまう。明日になれば、吉井の名前を忘れているだろう、と思った。
「こんなところに呼びだして、どうするつもりですか?」
俺を見るヨッシーの目つきは険しい。警戒心が感じられた。
「どうするかという答えは難しい」
強いて言えば、どうするつもりもなかった。
「殴ったりしますか?」ヨッシーは、目を伏せて言った。
「しない」俺は言った。「たとえ、きみが俺に殴って欲しかったとしても、殴らない。俺はそう決めている」
「殴って欲しくないです」ヨッシーは言った。「あの、それで、なんの用ですか? もしかして、わたしが陰気で、断れない性格だからって、手ごめにしようとしてますか?」
「手ごめ?」すぐにハンバーグが連想された。いや、それは手ごねだ。「よくわからないが、きみには今後、スパイとして活躍してもらいたいと思っている」
「間諜ですか?」
俺には、ヨッシーが何を言っているのか、よくわからなかった。
もう少しストレートにいくことにした。
「きみは、池永たちに虐められているのではないか?」
「虐められているわけではありません。あえて、虐められてあげているんです」本当に、よくわからない。「あの人たちは、わたしのように弱い人間がいないと、自我を保つことのできない、可哀想な人たちなのです。仕方なく、ボランティアで、わたしが虐められっ子役を買って出てあげているということですね」
「きみは、イソップ物語を読んだほうが良いだろう」ヨッシーの言葉をきいていると、少し悲しくなった。「何か、池永に虐められているという証拠はないか? 具体的な指示を受け、悪いことをさせられていないか?」
「いえ」ヨッシーは笑顔で言った。「何も」
彼女の答えは、あまりにもあっさりとしていたので、逆に驚かされた。これ以上はきくな、わたしの世界に踏み込んでくるな、と言っているように感じられた。バリアだ。けれども、俺はあえてそれを無視して、相手の聖域へ踏み込むことにした。
「自分を惨めに感じることはないか?」
俺の言葉に、ヨッシーは言葉を返さない。うつむいて、完全に制止してしまった。
そのまま時間が流れた。十秒をカウントしたが、状況は動かない。さらなる反応を引きだすため、言葉をつづける。
「池永の恋人について、何か知らないか?」
俺の言葉は、ようやく認識されたらしい。ヨッシーはゆっくりと顔をあげ、俺を見た。
「知りません」小さな声で答えた。
「そうか」
これ以上、ヨッシーと話をしても、なにも得られるものはないように思われた。
「ありがとう」俺は言った。「もう良い。帰ってくれて構わない」
「あの、怒ってますか?」
「怒っていない」また誤解された。よくあることなので、気にならない。
「もう、帰っても良いんですか?」
「そう言ったはずだ」
「あなたは、何がしたいのですか?」
「世界を良くしたい」俺は素直に答えた。
「だから、虐めを許さないのですか?」
「そうかもしれない。虐めなんて、くだらないことをしている時間があれば、もっと楽しく生きれば良いのに、と思う。皆が、それぞれ、本当に楽しいことをする。そうすることで、世界はどんどん良い方に向かうだろう」
ヨッシーは、立ったまま動かない。じっと、俺を見ていた。
「どうした? 帰っても構わないのだが」
ヨッシーは顔を下げ、三秒ほど地面を見て、また俺の顔を見た。
「助けては、くれないんですか?」
「助けて欲しいのか?」
「違いますけど」
ヨッシーの発言は、支離滅裂である。何を言っているのか、本当に、まったくわからない。これほど会話が通じないのも珍しい状況だと言える。面白い人だな、と思った。
「誰かに助けてもらいたいのであれば、声をあげるしかない。怒りの声を、誰かにきいてもらうしかない。そうでなければ、何事もなかったかのように振る舞い、耐え忍び、傷が癒えるのを待つのが良いだろう」
「もし、わたしが助けてって言ったら、助けてくれますか?」
「事情によるが、救うに値すると判断した場合、できるだけのことはしたい」
ヨッシーは五秒の間、腕を組み、黙っていた。迷っていたようだが、意を決したようだ。俺を見る視線に、力が入っているように感じられた。あるいは、それは俺の錯覚かもしれない。
「これから話すことを、誰にも話さないと約束していただけますか?」
「約束しよう」
「墓まで持っていってもらえますか?」
「俺は、墓に入るつもりはなく、散骨してもらいたい派だが、どうしたらいい?」
「死ぬまで、誰にも言わないでください」と言い換える。「もし他言したら、死んでもらいますから」
「わかった。約束しよう。きみの話は、死ぬ直前に他言することにする」
「え? ちょっと待ってください。なんかおかしくないですか?」
死ぬまで誰にも言うなというのは、死の間際に誰かに言え、ということではない。もちろんわかっていた。冗談である。やや重苦しい空気になりそうだと感じたので、場を和ませようと考えたのだった。失敗したが。
「まあいいです」良いのか?「わたしは、えっと、池永さんたちに、虐められてまして」
そうだろうな、と思った。それが素直な感想だった。
「この前、なんというか、その……」言いづらそうだったが、言った。「客を取らされました」
ヨッシーの言っていることは、相変わらず、わけがわからなかった。
「客を取らされるとは、どういう状態を指すのか」
ヨッシーは答えなかった。
「それが、嫌だったのか?」
俺の言葉をきいて、ヨッシーの顔は、赤く染まっていく。視線も、それにあわせて鋭く尖っていく。彼女の全身から、熱が発せられているような、そんな気がした。
「嫌だったに決まってる……じゃないですか」
精一杯、感情を抑えようとしているようだが、失敗している。漏れ出ていた。
それから俺は、小一時間ほど、いかにヨッシーが苦しんできたのか、という話をされた。話の順番は無作為で、思いついたことから順に口に出しているようだった。最初は話の筋を追うのに苦労したが、ある程度情報が集まってきた段階で、おおよそのストーリーが理解できた。
「辛かったんだな」俺がそう言うと、ヨッシーは泣きはじめてしまった。困ったことになった。
正直なことを言うと、俺はその話をきいても、どうも思わなかった。そうなのか、というのが素直な感想である。売春など大したことではないだろう、と思えた。
放課後、飼育小屋の近くで、人を待っていた。
最近、飼育小屋に来る頻度が高い。学校内で、あまり人に見られることなく会話のできる場所といえば、飼育小屋の近辺しか知らなかった。多くの人々には忘れ去られている。またいつか、飼育小屋で動物を飼うようになれば、事情も変わるのだろうけれど。
約束していた時刻の二分前に、その人物は現れた。
池永たちとテーブルを囲んでいた、短い黒髪の少女。ヨッシーと呼ばれていた人物だ。
「ヨッシー、よく来てくれたな」
「あなたは、えっと……阿喰さん、ですよね」
「その通りだ」名前を覚えていてくれたらしい。「俺も、本当はきみのことを名字で呼びたいのだが、思い出せない。失礼を許していただけるとありがたい」
「吉井です」小さな声で答えた。
「ほぼヨッシーだな」伸ばせばそうなる。
どうしても、ヨッシーのほうがイメージとして強く残ってしまう。明日になれば、吉井の名前を忘れているだろう、と思った。
「こんなところに呼びだして、どうするつもりですか?」
俺を見るヨッシーの目つきは険しい。警戒心が感じられた。
「どうするかという答えは難しい」
強いて言えば、どうするつもりもなかった。
「殴ったりしますか?」ヨッシーは、目を伏せて言った。
「しない」俺は言った。「たとえ、きみが俺に殴って欲しかったとしても、殴らない。俺はそう決めている」
「殴って欲しくないです」ヨッシーは言った。「あの、それで、なんの用ですか? もしかして、わたしが陰気で、断れない性格だからって、手ごめにしようとしてますか?」
「手ごめ?」すぐにハンバーグが連想された。いや、それは手ごねだ。「よくわからないが、きみには今後、スパイとして活躍してもらいたいと思っている」
「間諜ですか?」
俺には、ヨッシーが何を言っているのか、よくわからなかった。
もう少しストレートにいくことにした。
「きみは、池永たちに虐められているのではないか?」
「虐められているわけではありません。あえて、虐められてあげているんです」本当に、よくわからない。「あの人たちは、わたしのように弱い人間がいないと、自我を保つことのできない、可哀想な人たちなのです。仕方なく、ボランティアで、わたしが虐められっ子役を買って出てあげているということですね」
「きみは、イソップ物語を読んだほうが良いだろう」ヨッシーの言葉をきいていると、少し悲しくなった。「何か、池永に虐められているという証拠はないか? 具体的な指示を受け、悪いことをさせられていないか?」
「いえ」ヨッシーは笑顔で言った。「何も」
彼女の答えは、あまりにもあっさりとしていたので、逆に驚かされた。これ以上はきくな、わたしの世界に踏み込んでくるな、と言っているように感じられた。バリアだ。けれども、俺はあえてそれを無視して、相手の聖域へ踏み込むことにした。
「自分を惨めに感じることはないか?」
俺の言葉に、ヨッシーは言葉を返さない。うつむいて、完全に制止してしまった。
そのまま時間が流れた。十秒をカウントしたが、状況は動かない。さらなる反応を引きだすため、言葉をつづける。
「池永の恋人について、何か知らないか?」
俺の言葉は、ようやく認識されたらしい。ヨッシーはゆっくりと顔をあげ、俺を見た。
「知りません」小さな声で答えた。
「そうか」
これ以上、ヨッシーと話をしても、なにも得られるものはないように思われた。
「ありがとう」俺は言った。「もう良い。帰ってくれて構わない」
「あの、怒ってますか?」
「怒っていない」また誤解された。よくあることなので、気にならない。
「もう、帰っても良いんですか?」
「そう言ったはずだ」
「あなたは、何がしたいのですか?」
「世界を良くしたい」俺は素直に答えた。
「だから、虐めを許さないのですか?」
「そうかもしれない。虐めなんて、くだらないことをしている時間があれば、もっと楽しく生きれば良いのに、と思う。皆が、それぞれ、本当に楽しいことをする。そうすることで、世界はどんどん良い方に向かうだろう」
ヨッシーは、立ったまま動かない。じっと、俺を見ていた。
「どうした? 帰っても構わないのだが」
ヨッシーは顔を下げ、三秒ほど地面を見て、また俺の顔を見た。
「助けては、くれないんですか?」
「助けて欲しいのか?」
「違いますけど」
ヨッシーの発言は、支離滅裂である。何を言っているのか、本当に、まったくわからない。これほど会話が通じないのも珍しい状況だと言える。面白い人だな、と思った。
「誰かに助けてもらいたいのであれば、声をあげるしかない。怒りの声を、誰かにきいてもらうしかない。そうでなければ、何事もなかったかのように振る舞い、耐え忍び、傷が癒えるのを待つのが良いだろう」
「もし、わたしが助けてって言ったら、助けてくれますか?」
「事情によるが、救うに値すると判断した場合、できるだけのことはしたい」
ヨッシーは五秒の間、腕を組み、黙っていた。迷っていたようだが、意を決したようだ。俺を見る視線に、力が入っているように感じられた。あるいは、それは俺の錯覚かもしれない。
「これから話すことを、誰にも話さないと約束していただけますか?」
「約束しよう」
「墓まで持っていってもらえますか?」
「俺は、墓に入るつもりはなく、散骨してもらいたい派だが、どうしたらいい?」
「死ぬまで、誰にも言わないでください」と言い換える。「もし他言したら、死んでもらいますから」
「わかった。約束しよう。きみの話は、死ぬ直前に他言することにする」
「え? ちょっと待ってください。なんかおかしくないですか?」
死ぬまで誰にも言うなというのは、死の間際に誰かに言え、ということではない。もちろんわかっていた。冗談である。やや重苦しい空気になりそうだと感じたので、場を和ませようと考えたのだった。失敗したが。
「まあいいです」良いのか?「わたしは、えっと、池永さんたちに、虐められてまして」
そうだろうな、と思った。それが素直な感想だった。
「この前、なんというか、その……」言いづらそうだったが、言った。「客を取らされました」
ヨッシーの言っていることは、相変わらず、わけがわからなかった。
「客を取らされるとは、どういう状態を指すのか」
ヨッシーは答えなかった。
「それが、嫌だったのか?」
俺の言葉をきいて、ヨッシーの顔は、赤く染まっていく。視線も、それにあわせて鋭く尖っていく。彼女の全身から、熱が発せられているような、そんな気がした。
「嫌だったに決まってる……じゃないですか」
精一杯、感情を抑えようとしているようだが、失敗している。漏れ出ていた。
それから俺は、小一時間ほど、いかにヨッシーが苦しんできたのか、という話をされた。話の順番は無作為で、思いついたことから順に口に出しているようだった。最初は話の筋を追うのに苦労したが、ある程度情報が集まってきた段階で、おおよそのストーリーが理解できた。
「辛かったんだな」俺がそう言うと、ヨッシーは泣きはじめてしまった。困ったことになった。
正直なことを言うと、俺はその話をきいても、どうも思わなかった。そうなのか、というのが素直な感想である。売春など大したことではないだろう、と思えた。