第38話 はたして俺は、人間に近づくことができたのだろうか?

文字数 3,564文字

 俺と柳井は静止していた。静止せざるを得なかった。たちまち、硬度は減じていく。

「勘違いしているようだが、これは、そういうのではない」俺は言った。「人助けなんだ。犯人から、脅迫されていて、仕方なく行為に応じていた」

 雑賀は腕組みをしていた。右耳にはイヤホンがついているが、もう一方のイヤホンは垂れていた。雑賀は、ゆっくりと近づいてきて、柳井の耳元に口を寄せた。何かを囁いているようだったが、俺にはきこえなかった。この距離で、柳井だけに音声を伝えるというのも、なかなかの高等技術だと言える。

 柳井は、ゆっくりと俺の上から降りて、下着を履いた。

「去りなさい」雑賀が強い口調で言った。

 柳井は、しばらく雑賀を見ていたが、微笑んだ。よくわからないが、非常に満足している、ということだけは伝わってきた。幸せそうに見えた。柳井は荷物を手に取り、部屋から去っていった。

「仕舞いなさい。見苦しい」と雑賀が指す。

「失礼」すぐに制服のズボンに押し込め、チャックを閉めた。

「苅部、早計に過ぎます」雑賀は苅部を強く睨んだ。「もう少し泳がせておけば、もっと屈辱を味あわせることができたのに」

「でもさ、やっぱり、こういうのは良くないよ。阿喰くんも嫌がってたし」

「どうだか」雑賀は言った。「鼻の下を伸ばしていたのでは? お勃起もしていたようだし」

「お勃起」あまりにも新鮮な言葉だったので、思わず口に出してしまった。上品かつ素晴らしい響きではあるが、むしろ普通に言うよりも卑猥に感じられた。「雑賀は、怒っているのだろうか?」

「怒っていません」と雑賀。「実を言うと、わたしとあなたがつきあっていたというのは、嘘ですから」

「嘘だったのか」これは驚いた。「そうなると、俺と柳井が性行為に及んだとしても、問題なかったのでは?」

 てっきり、雑賀は、俺の浮気に怒っているのかと思った。

「まだ気づいていないの?」雑賀は俺を見る。「柳井保美。あの子が、すべての犯人なのよ」

「ほう」驚いて変な声が出た。三秒考える。「いや、そんなはずはない。だって、柳井は、犯人から脅迫されていたじゃないか」

「あの子が、自分で自分に指示を出していたの。操られている振りをしていた、ということ。四字熟語で言えば自作自演」

 自作自演って四字熟語だろうか。

 俺は雑賀の言葉を四秒考えて、理解した。

「柳井は、俺のことが好きで、セックスをしたかったということか?」

「違う。全然違います」雑賀は溜息を吐いた。「あの子の本当の狙いは、わたしです」

「柳井は、雑賀のことが好きなのか?」

「あなた、わたしをからかっていますね?」

「滅相もない」自分で言っておきながら、滅相ってなんだろう、と思った。

「良い。説明します」雑賀は、俺の隣に座った。「わたしと柳井保美が会ったのは、小学生のとき。中学受験の合宿所で話しかけられたの。鬱陶しかったから、無視しましたけど。当時の彼女、全国模試でわたしに何度も負けていたのを、根に持っていたみたいです。何度か挑発をしてきて、鬱陶しかったので、次の試験でわたしが勝ったら、二度と話しかけてこないでと言いました」

 急に過去の話がはじまった。あまり興味はなかったが、きいておかなければ怒られそうな気がしたので、必死にきいていた。きいた傍から忘れていきそうな、どうでもよい話だった。

「合宿最終日に行われたテストで、わたしは全科目でほぼ満点を取り、柳井に勝ちました。それ以来、彼女はわたしに話しかけてこなくなりました」

「柳井のことは、覚えていない振りをしていたんだな?」

「当たり前でしょう? 覚えているに決まっています。わたしの記憶力をバカにしないでくれますか?」

 べつに、バカにしているわけではなかった。

「柳井が、雑賀の靴をボロボロにした理由はわかった」なんとなく雑賀のことが気に食わなかったのだろう。「しかし、なぜ俺と性交をする必要がある?」

「わたしから奪ってやろう、と考えたんでしょうね。きっと」雑賀は微笑む。「わたしは、すぐにあの子が犯人だとわかった。推理なんかする必要もない。あれほど醜悪なことを考えられるのは、この学校には、柳井くらいしかいない」

 性格が悪いのは、雑賀も一緒だろう、と思った。似たもの同士だが、似ているからこそ許せないこともあるのか。

「だからね、罠を張ったの。あなたとつきあっている振りをすれば、どうせ、わたしから奪おうとするだろうと思って。完全にわたしの予想通りでした。バカですよね。本当に。ああ、楽しかった。少しだけ柳井の気持ちがわかりました。人を操るのって、楽しいのね」

 雑賀も、柳井に負けず劣らず、なかなかに性格が悪い。しかし、俺は性格の悪い人間が嫌いではない。

「本当は、合体したあとにドアを開けるつもりだったの」雑賀は言った。「でも、苅部がね、どうしてもって言うから、仕方なく。童貞を捨てられなくて、残念でしたね。あぁ、柳井が、好きでもない男に処女を散らされる瞬間が見たかったです。本当に。絶望的な表情だったでしょうね。きっと」

 雑賀は俺の手首に手を伸ばし、時計型端末を回収した。

「これも返してもらいますから」

「プレゼントしてくれたのでは?」

「プレゼントも嘘です」雑賀は言った。「これ、ボイスレコーダー機能がついているんです。SIMも入れてあって、結構高かったのですよ?」

 なるほど、雑賀がイヤホンをしていたのは、この端末で録音した音を電波で飛ばし、リアルタイムできいていたというわけだ。だから、あのタイミングで部屋に入ってくることができたのか。

「途中で充電が切れるのでは?」

「二日くらいは大丈夫。あとは、学校でバッテリーを交換すれば良い」

 なるほど。それくらいは考えているというわけか。

「そこまでして、柳井に屈辱を味あわせたかったのか?」

「ちらちらと目障りでしたし。先に攻撃を仕掛けてきたのは柳井ですから。正当防衛です」

「防衛ではないし、明らかに過剰だ」

「あの子の肩を持つの?」

「いや、どうでも良い」俺は言った。「すっきりしたか?」

「ええ。すっきりしました」

「それなら良かった。問題は解決だ」俺は若干の……いや、多大なる徒労感に見舞われていた。「帰ろう」

 俺はメロンソーダを飲み、荷物を取って、立ちあがった。メロンソーダは氷が溶けて、薄くなっていた。最悪だ。そのまま部屋を出て行こうと思ったのだが、料金の支払いがあることに気づく。テーブルに置かれた札を持った。

「ここは、柳井に奢ってもらう約束だったんだが、どうなるんだ?」

「わたしが払います」雑賀が札を奪う。「帰りましょう」

 三人でカウンターへ行き、二部屋分を雑賀が払った。

 外に出て、すぐに苅部が言った。

「あのさ、雑賀さん、謝ったら?」ちょっと怒っているようだった。

「誰に? 何を?」雑賀は、さっぱり、わけがわからない、という顔をする。

「阿喰くんに。利用したことを」

「ああ」雑賀は意外そうな顔をした。「あなた、傷ついてますか?」

「いや、全然。まったく」と俺は答えた。

「それなら良いでしょう」

「人の恋愛感情を弄ぶなんて、良くないよ」

「苅部、怒らなくて良い。俺なら問題ない」

「阿喰くんは良くても、僕が嫌なの。なんか、可哀想でさ」

 なぜか苅部は、その場で涙を流しはじめた。

「泣かないでくれ。俺は、ちっとも可哀想じゃない」

「たぶん、阿喰くんは、本当に、怒ってないし、辛くもないんだと思う。でもさ、そういう感情を、普通に表現できないってのが、可哀想に思えてきちゃって」

 大袈裟なやつだ。感受性が強すぎる。それは、俺の生まれついての欠陥だが、仕方がない。

「ごめんなさい」雑賀は小さな声で言った。「これで良い?」

「心がこもってない」苅部がダメ出しする。

「こめていないもの」雑賀は俺に頭を下げた。「本当に、ごめんなさい」

「わかった。もういい。終わりだ。帰ろう」なんだか、とても疲れているように感じた。

 隣駅まで、歩いて帰ると言って、まずは雑賀が離脱した。

 俺と苅部は駅へ向かった。苅部と共に改札を抜けた。苅部は反対側のホームへ行くはずだ。お別れだな、と思った。

「それでは、また明日」俺は軽く手を振った。

「うん、また明日。阿喰くん、頑張ったね」

 俺は頑張ったのだろうか。それはわからない。

 ただ、俺は、苅部の言葉を嬉しいと感じたようだった。

 しかし、はたして俺は、人間に近づくことができたのだろうか?
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