第17話 膝枕というのは、卑猥な行為なのだろうか

文字数 3,078文字

 放課後、ハーモニーは速やかに教室を出ていった。恐らくは、犯人を探しに行ったのだろう。当校は学年によって、スリッパの色が違う。ハーモニーには、犯人が何年生であるかわかっているはずだ。ロッカーも学年によって部屋が分けられているので、あとはロッカールームで張っていれば、自然と犯人に会えるというわけだ。

「もう、ハミルさんを追わなくていいの?」苅部がきいた。

「もういいんだ。問題は解決した」

「今日はどうする? 犯人探し?」

「いや、目処がついたから、今日はお休みだ」

「もう犯人わかったの? 誰?」

「わかってはいないが、犯人がわかる目処がついたんだ」

「どういうこと? わけがわからないんだけど」

「わからないように言っている」

「僕だけ仲間はずれって感じ」

「大丈夫だ。雑賀も仲間はずれだ」俺は言った。「まだ事情があって、話せないことも多いんだ。あとで協力してもらうときが来るかもしれない。それまでは、待機していてくれ」

「まあ、いいけどさ」苅部は言った。「じゃあ、もう帰るからね」

 鞄を肩に掛け、苅部は教室を出ていった。

 教室には、俺と雑賀が残されたことになる。ハーモニーは、来週まで待っていて欲しいといった。今日できることは、もうない。俺も帰ったほうが良いだろうか。

「雑賀」声をかけておくことにした。「事件は、まもなく解決する見込みだ」

「どの状態を解決というのかが、問題だけれど」

「ひとまず、犯人に、きみの靴代を弁償させたいと思う。あの靴、幾らなんだ?」

「そんなに高価な靴じゃない。二万くらい」

 高価な品だと言えた。ちなみに、俺が普段履いている靴は、セール品の、税込み二九八〇円である。

「ハミルさんが、犯人なの?」雑賀はきいた。

「いや、たぶん違うと思う。ただ、犯人と面識があるようだ」

「そう」雑賀は、窓のほうを向いた。「手間をかけますね」

「気にするな。好きでやっていることだ」

「感謝しています」雑賀は、二秒の間を置いてから言った。「少しだけですけど」

「まだ、事件を解決できたわけではない。感謝を言うには早すぎる」

「もし解決できなくても、あなたの、いままでの助力に感謝している……かもしれない」

「それなら納得した」俺は言った。「誰かに感謝されたのは、はじめてかもしれない」

「あくまでも、少しだから」雑賀は窓の外を見つめたまま言った。「何か褒美が欲しい?」

「いや、何も要らない」

「わたしは、貸しをつくりたくない。なにか望みがあれば、きく可能性もあります」

「望みなどはない。俺は、何かをもらうために行動しているわけではない」

「本当に何も要らないの? して欲しいこともないの?」

 俺は考えることにした。十秒間、考えた。

「膝枕がいいな」

 昔、姉がしてくれた。よく覚えていないが、幸せだったような気がする。

 そして、もう姉はいないので、してもらえない。

「卑猥なことは禁止します」

「膝枕というのは、卑猥な行為なのだろうか」

「卑猥です」雑賀は言った。「恋人でもなければ、許されざる行為です」

 当時、俺と姉は恋人ではなかった。雑賀の発言はおかしいように思われた。あるいは、俺と姉がおかしいということも考えられる。自分を基準に物事を考えてはいけない。ひとまず、雑賀の説を採用しておくことにした。膝枕は、恋人以外ではしない、卑猥な行為である。インプットしておこう。覚えた。

「雑賀に恋人になってもらい、膝枕をしてもらったあと、別れるというのはどうだ?」

「そんな、肉体関係のためにつきあうみたいなのは、嫌」

 要望を言ったら言ったで却下される。難しいものだった。

「俺は何も要らない。もし、雑賀が俺にお返しをしたいというのであれば、自分で考えて、何かをしてくれ。当然、何もしてくれなくても良い」

「そう」雑賀はうなずいた。「考えておきます」

 俺は鞄を手に取って、立ちあがった。帰ろうと思った。

「一緒に帰りましょう」雑賀も鞄を持ち、立ちあがる。

「ひとりよりもふたり」俺は言った。「共に帰ろう」

 ふたりで教室を出た。しばらく無言で道を進んでいく。俺のロッカーで一緒に靴を履き替え、そのまま駅まで会話はなかった。ひとりで帰っているのと、なんら変わりがない。強いて言えば、歩幅が狭くなったくらいだろう。雑賀にあわせ、俺は歩くペースを落としていた。それくらいの気遣いはできる男である。

 駅のホームで、ふたり並んで立った。電車が来るまでは、あと八分ほどあった。

「面白い話をしなさい」

 そうそう面白い話のストックなど、あるはずもない。

「面白い話ではないが、ずっと気になっていたことを、きいてもいいだろうか」

「セクハラでなければ、許可します」

「なぜ、きみは、あれほど勉強をするんだ?」

 俺が知る限り、雑賀は、常に参考書を机に広げていた。

「暇つぶし」雑賀は答えた。「単なる趣味です」

「何が面白いんだ?」

「あなた、勉強は嫌い?」

「好きでもない。嫌いでもない」

「わたしにとって、勉強はゲームと一緒。高得点を取れば、ちょっと嬉しい。それだけのこと。何か目的があってやってるわけじゃない。だから、無意味と言えば無意味。だけれど、趣味は、無意味でなければ、つまらない」

「わかるような気がする。俺も筋トレが趣味だ。現代社会において、筋肉の有無などは、完全に無意味だ。ただ、その瞬間だけはすべてを忘れて、没頭していられる」

「あなた、頭はおかしいけれど、体は、なかなかよろしい」

「苅部にも褒められた」

「さわっても?」

「許可しよう」

 雑賀は俺の上腕二頭筋に、そっとふれた。少しくすぐったい。ゆるやかに、表面が撫でられる。ふれるか、ふれないか程度の、淡い接触。

 結局、電車が来るまでの間、雑賀はずっと俺の筋肉をさわっていた。

「筋肉が好きなら、雑賀も鍛えると良い」

「あなたみたいに、頭まで筋肉になっては困るので、やめておきます」

「頭は鍛えられない。首ならば鍛えられるが」

「あなたは、もう少し、頭を鍛えたほうが良いでしょう」

 だから、頭は鍛えられないのである。わからないやつだった。雑賀と別れ、俺は家に帰った。

 その日もしっかりとトレーニングを行い、存分に汗を流した。何か目的があって、体を鍛えているわけではなかった。無意味である。だけれど、無意味だからこそ良いのだった。その行動が、何か意味を持ってしまえば、それは趣味ではなくなる。仕事になる。

 日曜日は、特に何事もなく終わった。筋トレをして、勉強をし、筋トレをしているうちに終わった。

 週が明け、五月二十二日、月曜日の朝、教室で苅部と共に始鈴を待っていると、ハーモニーが登校してきた。教室に入って、即座に俺へ声をかけてきた。

「アポ取れたから」アポイントメントの略だろう、と思った。「放課後に、あの場所で」

「あの場所というのは、俺の考えでは、飼育小屋だな?」

「こら」ハーモニーは言った。「場所を言ったら、苅部が覗きに来るでしょう」

「行かないよ」苅部が言う。「まあ、行きたいけど、我慢するよ」

「雑賀ちゃんも行かないように」ハーモニーが言った。

「阿喰くんに一任している」雑賀は言った。「自慢の筋肉で、圧倒してきなさい」

 それは無理だった。俺は、絶対に暴力を振るわない。
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