第02話 キューブは立方体という意味です
文字数 3,380文字
女性は教卓の前に立った。あるいは、教卓の後ろかもしれない。教卓のどちらが前で、どちらが後ろかというのは、難しい問題だった。俺たちのほうではなく、ホワイトボードの側に立った、という意味だ。
「今日から、このクラスを担当することになった、浜砂葉月(はますなはづき)だ」
「質問があります」俺は手を挙げた。
「質問を許可しよう」
「このクラスには、三人しかいないのですか?」
「いや、諸事情により、合流の遅れている者がいる」
「わかりました。ありがとうございます」
「他に質問は?」
「質問があります」俺は再度、手を挙げた。
「わかった。毎回指名するのは面倒だ。まとめて質問してくれ」
「それでは」俺は言った。「なぜ、俺が、この特別クラスに選ばれたのですか?」
各クラスから数名を選び、特別クラスを創設するという話は、入学式の際に浜砂先生が宣言していた。特別クラスは、進学のためのエリートコースというわけではない。入学試験や、実力確認テストの点数とは関係がなく選ばれるという話だった。
「先週の金曜日、適応能力検査を皆に受けてもらっただろう?」
回想する。先週の金曜日の六時間目、HRの時間に、十ページほどのプリントを、ホッチキスでまとめた冊子が配布された。冊子を配りながら、担任の教師は、心理テストみたいなものだから、気軽に受けてくださいねと言っていた。冊子の内容は、たしかに心理テストのような、どうでもよいと思える些末な質問が多かった。ほとんどはマーク式だったが、一部、記述問題もあった。
「検査の結果、きみたちは、なんというか、その、つまり……」浜砂先生は言葉を探しているようだった。「特別だということがわかった」
「どう特別なのですか」俺は尋ねた。
「特別というのは、普通ではないということだ」
はぐらかされた、と感じた。
「それは知っています。どのような点で、普通の人と異なっているのか、ということをきいています。また、普通の人間であるという状態を、どのように定義したのかも気になります」
「そういうところが、きみは普通じゃない」浜砂は言った。「もともと、わたしの専攻は脳神経外科なんだが、つい最近まで、人間という総体をいかに捉えるか、というような研究を行っていた」
「もう少し、わかりやすく説明して頂けるとありがたいです」
「対象の人間に幾つかの質問を行い、その結果、導出された数値によって、人間をマッピングしていく。攻撃的傾向、防衛的傾向、その他、さまざまなパラメータがある。従来の研究では、平面、つまりは二次元におけるマッピングが主に行われてきたが、それを三次元という軸で捉えなおしたところが、わたしの研究の新奇的な部分だ」
結局のところ、よくわからない。俺の知識と理解力が不足しているからだろう。
隣を見ると、苅部は笑顔の状態で制止していた。思考が停止しているようだ。
「人間というのは多様だ。同じ人間は、ひとりも存在しない」浜砂は、しかし、と強い口調で逆接する。「多くの人間は、マッピングした際、中央に近いところに位置する。立方体のキューブを想像して欲しい」
「キューブは立方体という意味です」俺は指摘する。
「立方体を想像して欲しい」と浜砂先生は言い直した。素直なやつだ。
立方体を想像してみることにした。
「多くの人間は、キューブの中央付近に位置する。それがわたしの言う普通という定義だ。少々おかしな部分はあれど、皆、キューブの中から出ることはない。それが人という枠組みだ」
キューブのなかに、無数の点があるところを想像した。その点ひとつひとつが人間である。そして、その点は、ほとんど中央に寄っているが、たまにキューブの角付近にいたりもする。という理解で良いのだろうか。
「極希に、キューブからはみ出るものもいる。そういうものは、犯罪に手を染めたり、自殺したり、世界からいなくなるものが多い、ということが統計的にわかっている」
「俺たちは、異常者であり、危険なので、隔離するということですね」
「そうは言っていない」浜砂は口元を緩めた。笑顔を作ろうとしているようだった。しかし、失敗している。「適応値の低い人間は、学校を退学しやすい、というデータもある。同じような研究が、ゴリラなどの類人猿でも行われていてね。キューブからはみ出したもの、つまり、群れから逸脱したものたちで集団をつくると、うまく群れが構成されるケースがあるんだ」
「興味深いですね」俺はうなずいた。「俺たちで実験をするわけですね?」
「実験というと言葉は悪いが、概ね、その通りだ」浜砂は認めた。
潔いと言える。俺は浜砂に少しばかり好感を持った。正直な人間は好きだ。
「普通のクラスに戻りたければ、戻っても構わない。これは強制ではない。ただ、特別クラスのほうが過ごしやすいのではないかと、わたしは思う」
「質問、よろしいですか」ずっと黙っていた女子生徒が発言した。
「構わない」
「普通のクラスと、このクラスは、何が違うのですか? 授業は、どうなるのでしょう」
「基本的には何も変わらない。授業もカリキュラムの通りに行われる。ただ、人が少ないだけだ。きみのような人間には、こちらのほうが良いだろう?」
「体育の授業は、どうなりますか?」女子生徒は、さらに尋ねる。
「男女混合で出来る種目に関しては、混合で行う予定だ。別々にして欲しいというのであれば考慮しよう」
「わかりました。ありがとうございます」と女子生徒は言った。
「それでは、本日の一時間目と二時間目は、自由時間としよう。親睦を深めると良いだろう」
そう言って、浜砂は教室を出ていった。
「メッセージのログが残るようにすれば良い」俺は苅部に言った。
「え? なんの話?」
「さっきの話のつづきだ」
「えっと、ああ、そうそう。先生からメッセージが送れたら便利って話だっけ」
「学校における連絡事項の伝達は無駄が多い。メッセージで済ませたほうが便利だ。聞き逃して困ることも減るだろう。宿題やテスト範囲も、わざわざ先生が口頭で伝えたり、掲示する必要はない。むしろ、ネット空間にでも貼り出しておけば良い」
「そこまで進んでる学校は、少ないね」
「皆、怠惰なんだ。改善できるのに、しない」
「そこまで、不便を感じてないんじゃないかな?」
「なるほど。そうかもしれない」
新しい指摘だった。皆、あの程度の不便に対して、不満を覚えていないのか。俺は大いに不満だった。一刻も早く改善して欲しい、と願っている。
「親睦を深める時間らしい」俺は言った。「行ってくる」
「どこに? トイレ?」
俺は苅部の言葉を無視して立ちあがった。女子生徒のほうへ向かう。
相変わらず、彼女の机の上には参考書が置かれており、シャープペンシルを持つ手が動いていた。
「おはよう」俺は言った。
女子生徒は、ちらりとこちらを見たが、すぐに視線を机へ戻した。
「話しかけられるのが嫌であれば、無理に話そうとは思わない。一応、浜砂先生に言われたので、親睦を深めておいたほうが良いだろう、と判断したに過ぎない。積極的に仲良くなる必要性は感じられない。よって、話しかけなくても良かったのだが、俺と苅部が親しくしていると、ひとりになったきみが疎外感を覚え、苦しむかもしれないので、話しかけた次第だ」
「あなた、とてもおかしな人ね」女子生徒は、こちらを見ずに言った。
「だから、この教室にいるんだろう。きっと」俺は言った。「俺は阿喰有史だ。きみは?」
「雑賀(さいが)」
まるで雑貨みたいだな、と思ったが口には出さなかった。
「それは名字か、名前か、どちらなのだろう」
「雑賀更紗(さいがさらさ)」と言い直す。「わたしは、話しかけられるのが好きじゃない。ひとりが好き。放っておいて欲しい。わかった?」
「委細承知」俺は言った。「しかし、どうしても話さなければならないときは、声を掛けることになるだろう。そのときは我慢して欲しい」
雑賀は何も言わず、俺から視線を外し、再びシャープペンシルを動かしはじめた。
「今日から、このクラスを担当することになった、浜砂葉月(はますなはづき)だ」
「質問があります」俺は手を挙げた。
「質問を許可しよう」
「このクラスには、三人しかいないのですか?」
「いや、諸事情により、合流の遅れている者がいる」
「わかりました。ありがとうございます」
「他に質問は?」
「質問があります」俺は再度、手を挙げた。
「わかった。毎回指名するのは面倒だ。まとめて質問してくれ」
「それでは」俺は言った。「なぜ、俺が、この特別クラスに選ばれたのですか?」
各クラスから数名を選び、特別クラスを創設するという話は、入学式の際に浜砂先生が宣言していた。特別クラスは、進学のためのエリートコースというわけではない。入学試験や、実力確認テストの点数とは関係がなく選ばれるという話だった。
「先週の金曜日、適応能力検査を皆に受けてもらっただろう?」
回想する。先週の金曜日の六時間目、HRの時間に、十ページほどのプリントを、ホッチキスでまとめた冊子が配布された。冊子を配りながら、担任の教師は、心理テストみたいなものだから、気軽に受けてくださいねと言っていた。冊子の内容は、たしかに心理テストのような、どうでもよいと思える些末な質問が多かった。ほとんどはマーク式だったが、一部、記述問題もあった。
「検査の結果、きみたちは、なんというか、その、つまり……」浜砂先生は言葉を探しているようだった。「特別だということがわかった」
「どう特別なのですか」俺は尋ねた。
「特別というのは、普通ではないということだ」
はぐらかされた、と感じた。
「それは知っています。どのような点で、普通の人と異なっているのか、ということをきいています。また、普通の人間であるという状態を、どのように定義したのかも気になります」
「そういうところが、きみは普通じゃない」浜砂は言った。「もともと、わたしの専攻は脳神経外科なんだが、つい最近まで、人間という総体をいかに捉えるか、というような研究を行っていた」
「もう少し、わかりやすく説明して頂けるとありがたいです」
「対象の人間に幾つかの質問を行い、その結果、導出された数値によって、人間をマッピングしていく。攻撃的傾向、防衛的傾向、その他、さまざまなパラメータがある。従来の研究では、平面、つまりは二次元におけるマッピングが主に行われてきたが、それを三次元という軸で捉えなおしたところが、わたしの研究の新奇的な部分だ」
結局のところ、よくわからない。俺の知識と理解力が不足しているからだろう。
隣を見ると、苅部は笑顔の状態で制止していた。思考が停止しているようだ。
「人間というのは多様だ。同じ人間は、ひとりも存在しない」浜砂は、しかし、と強い口調で逆接する。「多くの人間は、マッピングした際、中央に近いところに位置する。立方体のキューブを想像して欲しい」
「キューブは立方体という意味です」俺は指摘する。
「立方体を想像して欲しい」と浜砂先生は言い直した。素直なやつだ。
立方体を想像してみることにした。
「多くの人間は、キューブの中央付近に位置する。それがわたしの言う普通という定義だ。少々おかしな部分はあれど、皆、キューブの中から出ることはない。それが人という枠組みだ」
キューブのなかに、無数の点があるところを想像した。その点ひとつひとつが人間である。そして、その点は、ほとんど中央に寄っているが、たまにキューブの角付近にいたりもする。という理解で良いのだろうか。
「極希に、キューブからはみ出るものもいる。そういうものは、犯罪に手を染めたり、自殺したり、世界からいなくなるものが多い、ということが統計的にわかっている」
「俺たちは、異常者であり、危険なので、隔離するということですね」
「そうは言っていない」浜砂は口元を緩めた。笑顔を作ろうとしているようだった。しかし、失敗している。「適応値の低い人間は、学校を退学しやすい、というデータもある。同じような研究が、ゴリラなどの類人猿でも行われていてね。キューブからはみ出したもの、つまり、群れから逸脱したものたちで集団をつくると、うまく群れが構成されるケースがあるんだ」
「興味深いですね」俺はうなずいた。「俺たちで実験をするわけですね?」
「実験というと言葉は悪いが、概ね、その通りだ」浜砂は認めた。
潔いと言える。俺は浜砂に少しばかり好感を持った。正直な人間は好きだ。
「普通のクラスに戻りたければ、戻っても構わない。これは強制ではない。ただ、特別クラスのほうが過ごしやすいのではないかと、わたしは思う」
「質問、よろしいですか」ずっと黙っていた女子生徒が発言した。
「構わない」
「普通のクラスと、このクラスは、何が違うのですか? 授業は、どうなるのでしょう」
「基本的には何も変わらない。授業もカリキュラムの通りに行われる。ただ、人が少ないだけだ。きみのような人間には、こちらのほうが良いだろう?」
「体育の授業は、どうなりますか?」女子生徒は、さらに尋ねる。
「男女混合で出来る種目に関しては、混合で行う予定だ。別々にして欲しいというのであれば考慮しよう」
「わかりました。ありがとうございます」と女子生徒は言った。
「それでは、本日の一時間目と二時間目は、自由時間としよう。親睦を深めると良いだろう」
そう言って、浜砂は教室を出ていった。
「メッセージのログが残るようにすれば良い」俺は苅部に言った。
「え? なんの話?」
「さっきの話のつづきだ」
「えっと、ああ、そうそう。先生からメッセージが送れたら便利って話だっけ」
「学校における連絡事項の伝達は無駄が多い。メッセージで済ませたほうが便利だ。聞き逃して困ることも減るだろう。宿題やテスト範囲も、わざわざ先生が口頭で伝えたり、掲示する必要はない。むしろ、ネット空間にでも貼り出しておけば良い」
「そこまで進んでる学校は、少ないね」
「皆、怠惰なんだ。改善できるのに、しない」
「そこまで、不便を感じてないんじゃないかな?」
「なるほど。そうかもしれない」
新しい指摘だった。皆、あの程度の不便に対して、不満を覚えていないのか。俺は大いに不満だった。一刻も早く改善して欲しい、と願っている。
「親睦を深める時間らしい」俺は言った。「行ってくる」
「どこに? トイレ?」
俺は苅部の言葉を無視して立ちあがった。女子生徒のほうへ向かう。
相変わらず、彼女の机の上には参考書が置かれており、シャープペンシルを持つ手が動いていた。
「おはよう」俺は言った。
女子生徒は、ちらりとこちらを見たが、すぐに視線を机へ戻した。
「話しかけられるのが嫌であれば、無理に話そうとは思わない。一応、浜砂先生に言われたので、親睦を深めておいたほうが良いだろう、と判断したに過ぎない。積極的に仲良くなる必要性は感じられない。よって、話しかけなくても良かったのだが、俺と苅部が親しくしていると、ひとりになったきみが疎外感を覚え、苦しむかもしれないので、話しかけた次第だ」
「あなた、とてもおかしな人ね」女子生徒は、こちらを見ずに言った。
「だから、この教室にいるんだろう。きっと」俺は言った。「俺は阿喰有史だ。きみは?」
「雑賀(さいが)」
まるで雑貨みたいだな、と思ったが口には出さなかった。
「それは名字か、名前か、どちらなのだろう」
「雑賀更紗(さいがさらさ)」と言い直す。「わたしは、話しかけられるのが好きじゃない。ひとりが好き。放っておいて欲しい。わかった?」
「委細承知」俺は言った。「しかし、どうしても話さなければならないときは、声を掛けることになるだろう。そのときは我慢して欲しい」
雑賀は何も言わず、俺から視線を外し、再びシャープペンシルを動かしはじめた。