第09話 安心しろ。俺は二十八センチだ
文字数 2,634文字
もはや靴とは形容できない状態のそれを手に教室に戻ると、雑賀がちらりとこちらを見た。雑賀は、いつもならば、すぐに視線を外す。けれど、今回は違った。俺が持っている靴に、雑賀の視線は注がれていた。
「ひとつきくが、きみの足のサイズは幾つだ?」
「二十二点五」
「本当か?」
「神に誓って」雑賀は言った。
俺は靴だったものを床に置き、雑賀のほうへと近づいていった。
「ちょっと。何するの」
俺は無言でしゃがみ、座る彼女の右足を掴んだ。
「信じられない。バカ。セクハラ。変態。やめなさい」
自由な状態の左足で、やたらめったら蹴りはじめる。しかし、片足をつかまえている関係上、それほど踏ん張れないのだろう。大したダメージにはならなかった。
「鯖を読んだな」俺は雑賀の右足を解放した。「二十二点五センチの足じゃない」
「遠近法」どんな技だ。「それか、あなたの目がおかしいの」
「どうして嘘をついた?」
雑賀は十秒ほど黙っていたが、観念したようで、ゆっくりと語りはじめた。
「足が大きいのが、コンプレクスだから」
「安心しろ。俺は二十八センチだ」
「あなたと比べないで」雑賀は言った。「わたしの身長は、百五十センチ。背の割に足が大きい。だから、ちょっと小さめに申告しただけ」
ちょっとだろうか。
「身長も、実際のところは、百四十七センチくらいだと思うが」
「黙れ」
どうやら雑賀は怒っているようだった。本来ならば、怒るのは、嘘をつかれた俺のほうではないかと思う。けれども、すべて許すことにした。俺は心が広いのである。
「あの靴、きみのだな」
「違う。見たことのない靴」しかし雑賀は言った。「どこにあったの?」
「飼育小屋の裏だ」
「制服、汚れてる」雑賀は俺のズボンを指した。「バカみたい」
「大したことではない」
本当は、大したことあった。クリーニング代は、俺の残り少ないお小遣いより支払わなければならない。
「それをわたしに見せて、どうしたいの? 履けって?」
「履くか?」
「履けるか」雑賀は言った。「履けるわけ、ない」
「修理すれば、なんとかなるかもしれない」
「新しく買うから良い」
「きみの靴なんだな?」
「その可能性は、なきにしもあらず」
「虐められているのか?」
雑賀は答えなかった。沈黙、それ自体が答えのように思われた。
「犯人は誰だ? 苅部か?」
「そんなわけないでしょう」雑賀は言った。「あなた、友人を疑っているの?」
「苅部は友人かどうか、わからない」
俺のその答えに、雑賀は何も言わなかった。あるいは、言えなかった。
俺は、苅部を友人のような存在だと考えているが、苅部のほうは、俺を単なるクラスメイトとしか思っていないのかもしれない。よって、俺と苅部の関係を友人と定義するのは、まだ時期尚早というものである。
雑賀は、ぽつりと呟くように言った。
「靴が、ロッカーから消えただけ。虐めとは決まっていない」
「心当たりはあるのか?」
「無数にある」雑賀は言った。「わたしは、性格が悪いから」
「性格は悪いが、顔は良いから、差し引きゼロだ」
「性格はマイナス一点だけど、顔はプラス百二十点だから、差し引きプラス百十九点」
ハーモニーと同様、雑賀も自己評価の異様に高い女だ。
「それで、どうしてくれるわけ?」雑賀は言った。「人様の領域に、土足で踏み込んできて」
「俺がどうするかは、きみが決めることだ。どうして欲しい?」
雑賀は黙った。次に口を開いたのは、十三秒後だった。雑賀は思考の遅い人間だ、と俺は感じた。
「わからない」
「なるほどな」困ったものだ。「いろいろな選択肢が考えられる。共に犯人を見つけても良い。先生に助力を仰いでも良い。放っておいても良い」
雑賀は黙ったまま、何も言わなかった。
「悔しくはないのか?」
何も答えないまま、雑賀は、ちらりとボロボロになった靴を見て。そして、机に突っ伏した。
「ナルコレプシーでも患っているのか?」
俺の疑問に答えることなく、雑賀は机に突っ伏しつづけた。時折、頭を微かに震わせる。鼻息が荒かった。もしかしたら、机の臭いを嗅いでいるのかもしれない。
そのままの状態で待機していると、雑賀は制服の裾で目元をごしごしと擦った。
「眼球を傷つけることになる。目元を擦るのはオススメしないぞ」
俺は、なかなか良いアドバイスをしたな、と自己評価した。
顔をあげた雑賀の目は、真っ赤だった。
「泣いたのか?」
「泣いてない」
どこからどう見ても泣いていた。嘘が下手な女だ。
「なぜ泣いたんだ?」
「だから、泣いていません」
「泣けるのは良いことだ」
「どうして?」
「俺は、いままでに泣いたことがないからだ」
「そう」雑賀は小さな声で言った。「羨ましい」
「俺は、きみのほうが羨ましい」
涙を流せないというのは、人として欠陥があるように思えてならなかった。もちろん、生理的な反応として涙が出ることはある。例えば、ゴーグルをせずに玉葱を切れば、あるいは冷やさずに玉葱を切れば、涙は出る。しかし、それは泣くこととは違う。
俺は、何かに心が動かされ、その結果として泣きたいのである。
「復讐をします」と不意に雑賀が言った。「協力しなさい」
「そうしよう」俺は言った。「まず、何をすれば良い?」
「あなたのロッカー番号を教えなさい」
「360101」
三十六期生、一組、一番という意味だ。もう特別クラスだが、靴箱は一組のときに使用していたところを、相変わらず使用している。
「ダイヤルの番号は?」
「0121」これは俺の誕生日だった。「悪用は厳禁だ」
「善用するから、大丈夫」
まったくもって大丈夫なようには思えなかった。
結局、その日は何をすれば良いのか、教えてもらえなかった。先に帰りなさい、と言われたので、大人しく帰ることにする。家までの道中、どうすれば雑賀を救えるのだろうか、と考えた。犯人を捕まえる方策を考える。すぐに幾つかのアイディアが生まれては、消えていった。
車窓に映る自分の顔を見る。
俺は目を開けっぱなしにして、眼球の表面を乾かし、涙を流してみた。これほど無意味な涙があるだろうか、と思った。