第10話 なぜ、俺は、きみの腋の臭いを嗅がされたんだ?

エピソード文字数 2,952文字

 五月十八日、木曜日。

 朝、自分のロッカーを開けてみると、真新しい革靴が鎮座していた。姿形、そしてヒールの存在を鑑みると、女性物だろうと推察された。ロッカーから取りだして、サイズを確認すると、二十五センチだった。

「おはよ」と背後から声を掛けられる。

 振り返ると、そこにはハーモニーが立っていた。

「それ、どうしたの? 盗んだの?」

「違う」俺は三秒考え、ありのままを答えることにした。「入っていたのだ」

「あんたが靴泥棒ってこと?」

「違う」説明が面倒だ。「またあとで説明する」

 俺は靴をスリッパに履き替え、自分の靴を入れようとした。しかし、真新しい革靴の上に、俺の薄汚れたスニーカーを置くのは良くないかもしれない。仕方なく、その革靴を、俺の靴の上に載せることにした。このように、俺は、とても気遣いのできる男なのである。

「服従」とハーモニーが背後で囁いた。

「始業の二十分前だ」俺は携帯端末を確認しながら言った。「早いな」

「ま、約束だからね」

 俺はハーモニーが来ないことも想定していた。むしろ、七割くらい来ないだろうと予想していたのだが、外れたことになる。

「それで、何をするんだ?」

「ちょっとついてきてよ」

 断る理由もないので、ついていくことにした。校内には、ほとんど人がいなかった。ハーモニーはグラウンドのほうへと進んでいく。グラウンドでは、運動部が朝練なる活動を行っていた。朝から元気なものである。やや騒がしいけれど、本人たちが楽しんでいるのであれば、どうでも良いと言えた。

 上靴でも歩くことの許されている、タイルの上を進んでいく。どうやら、飼育小屋へ向かっているようだった。

「きみが犯人なのか?」と俺はきいた。

「犯人? なんの?」

「雑賀の靴を盗んだ犯人だ」

「違うけど」ハーモニーは言った。「靴泥棒は、あんたでしょ?」

「あれは違う。いろいろ事情があるんだ」

「ふーん。ま、良いけど」

 ハーモニーは、飼育小屋の前で立ち止まった。きょろきょろと周囲を確認する。どうやら、人が来ないかを気にしているようだった。普段から、生徒が来るようなところではない。そもそも早朝なので、生徒の数自体が少ない。

「大丈夫、かな」ハーモニーは言った。「目をつむって」

 こういうシチュエーションは、書物で読んだことがあった。

「キスをするのか?」

「するわけあるか。いいからつむる」

 俺は言われた通りに目をつむった。視界が閉ざされる。その代わりに、聴覚や嗅覚が研ぎ澄まされていく。遠くから運動部の掛け声がきこえてくる。

 誰かの、恐らくはハーモニーの手が、俺の顔をつかんだ。右手と左手で、包みこむようにされている。耳も塞がれた状態となる。そのまま、ハーモニーは俺の頭を下方向へと移動させた。何かが近づいた、という気配だけはわかった。熱が感じられたような気がした。淡い石鹸の香り。

「どう?」

「質問が不明瞭に過ぎる」

「だから、つまり、その、臭くないかってこと」

「石鹸の香りだ」俺は言った。

「腋臭じゃない?」

「問題ないだろう」

「そう」ハーモニーは俺の頭から手を離した。「目を開けて良いよ」

 俺は目を開けた。ぎゅっと、力強く瞼を閉じていたため、世界が若干の緑色を帯びていた。正常な視界を取りもどすのに時間が掛かる。俺の計測では十五秒かかった。

「なぜ、俺は、きみの腋の臭いを嗅がされたんだ?」

「腋臭とか言うから」

「撤回しよう。石鹸の良い香りがしていた」しかし疑問は残る。「なぜ、俺が、きみの腋の臭いを嗅ぐ必要があったんだ?」

「あんたが、この世界で一番、正直者だから。他の人なら、気を使って、嘘をつくかもしれないでしょう?」

「そうかもしれない。俺は嘘をつかない」

 ただし、冗談は言う。

「あんたが言うなら、臭いは大丈夫ってことか」

「俺の鼻が麻痺していなければ、大丈夫だろう」そして俺は言った。「臭いを気にして、香水をつける必要はない。ハーモニーの腋は、石鹸の良い香りがする」

「それはそれ。これはこれ」

「どれがどれだ?」指示代名詞の多用は、極力避けて頂きたいものだった。

 ハーモニーは答えず、歩きはじめた。俺もそのあとについていく。

 ふたりで第三多目的教室へと戻った。すでに苅部も教室にいた。

「昨日、雑賀に泣かされたらしいな」俺は、苅部の隣に座ると同時に言った。

「え? なんで知ってるの?」

「雑賀からきいた」

「うわぁ……恥ずかしいなぁ」

「何を言われたんだ?」

「善人ぶりたい偽善者は失せろ、とか」ひどい女だ。「こっちのやさしさが踏みにじられたって感じ。もう、泣きつかれたとしても、絶対、助けてあげないからね」

 声量は普段通りである。わざわざ、雑賀にきこえるように言っているのだろう。

「そうか、残念だ」俺は言った。「昨日、俺は雑賀と協力して、犯人を捕まえることにしたんだが、苅部がそう言うのであれば、仕方ない。きみ抜きでやることにする」

「え? ちょっと待って。なんでそんなことになったの?」

 携帯端末を見ると、そろそろ始業のチャイムが鳴る頃合いだった。

「一言で言うと」俺は三秒考えて要約した。「いろいろあったんだ」

「いろいろじゃわからないから」

 苅部は詳しくききたそうにしていたが、チャイムが鳴ったので会話は打ち切られた。チャイムと同時に、浜砂先生が教室へ入ってくる。

 一時間目の授業が終わると同時に、俺の席にハーモニーが近づいてきた。

「さっきのきいてたけど、雑賀さんと協力することになったんだって?」

「そうだ」俺は雑賀のほうを見た。「そうだな?」

「不本意だけれども」雑賀はうなずく。「今日から、阿喰は、わたしの下僕です」

 下僕になるとまでは言っていなかった。

「あの、僕も協力して良いかな」苅部が言った。「ふたりじゃ、ちょっと心配だし」

「同感」ハーモニーが言った。「あんたたち、常識に欠けてるしね」

 クラスメイトの男に、腋の臭いを嗅がせるのは、常識に反していないだろうか、と思ったけれども口に出さなかった。俺は慎ましい男なのである。

「一時的に、わたしの仲間になることを許可します」雑賀は言った。

「素直じゃないんだから」ハーモニーは微笑む。「まあ、よろしくね」

「あなたは許可していない」雑賀は言った。「苅部を許可したの」

 ハーモニーは、むっとしたようだ。鋭い視線で雑賀を睨んでいる。一触即発という雰囲気だった。俺は口を出さないことにした。慎ましい男なのだ。

「ま、仲間は多いほうがね、ほら、良いじゃない」苅部が取りなす。「ね、雑賀さん。ハミルさんも、ほら。仲良くね」

「苅部の、そういう偽善的なところが、本当に気に障るわ」

「同感」ハーモニーは言った。「こいつが仲介したら、絶対仲良くしてやるものかって思う」

 ふたりとも、性格が悪いという点で一致していた。意外と良い組み合わせなのではないだろうか。何はともあれ、俺たちは、雑賀の靴を盗んだ犯人を探すことになった。
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